東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 11月 2019

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

2019/11/24

子どものように受け入れる


まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18:17) 

神の国は不思議です。経済力や発言力、権力や知名度などは、そこに入るために一切役に立たないのです。それでいて、無力で弱くて誰かの世話にならなければ生きていけないような、小さな幼子たちの方が神の国に入りやすいのですから。この世のあり方とは全く異なる世界なのだと気づかされます。

私たちは大人になるにつれて色々なものを持ちすぎてしまっているのかも知れません。

地位や名誉、財産、様々な責任、重荷。

あまりにも背負い過ぎてそれが神の国に入るのに妨げになっているのです。

戦国時代に盛んになった茶室の交わり。面白いことにその茶室には「にじり口」という小さな入口があります。

あえて入り口を小さくしてあるので、武将たちも鎧や刀を身に着けたままでは入れませんでした。
また立ったままでは入れず、身をかがめ小さくして入るものでありました。

神の国はそれに似ていると思います。

色々な物をまだ背負ってなかった子ども時代。
あの頃のように小さな者となって入るのです。
神の前には誰も自分を誇ることなどできないのですから。

背負っている物、自身を守るための鎧、人を傷つける刀を後にして、ありのままのあなたで神の国に入らせていただきましょう。

2019/11/20

野の花を見なさい

ルカの福音書12章27-28節より

27節  草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 
28節  今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。 

普段から花を見ながら過ごせるのはとても良いことです
 
実にイエス様も、野に咲く草花を見て考えなさいと言われています。
 
イエス様は山や丘の上など自然の中で群衆に話されることも多かったことが聖書を読むとわかります。外の自然の中に身を置きながら、不安と心配に襲われている人々に「野の花を見なさい」と言われたのです。

27節 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 
 
ここに登場しているソロモン王。彼はかつてイスラエルでも大変に栄華を極めた王様。それこそ彼ほど豪華に着飾った人はいないでしょう。煌びやかで豪華な衣装、宝石やアクセサリーも身に着けていたかも知れません。
 
ではなぜ、栄華を極めたソロモンでさえ、この花のしかも一つの花ほどにも装っていなかったと断言されるのでしょうか。
 
それは、神様が造られた美しい花に比べれば、人の手による人工的な装飾など足元にも及ばないということです。
 
人が造った作品も確かに素晴らしい。けれど、世界各地にある自然の美しさ、そのいのちの輝きには人工的にこしらえたものが及ぶことはありません「造花」は確かに長くもちます。でも、造花が「本物の生ける花」に優ることはありませんよね?

 

そして、もう一つ注目したいことは、イエス様は人が毎日世話をしているバラ園のような場所に人を連れて来て語ったのではないということです。
野に咲く草花を人々に見せて、どうやって育っているのか考えて御覧と言われたのです。人が栽培している花ではない。けれども、神様が養ってくださり、養うだけでなく美しい花を咲かせてくださっているのです!
 
これらを見せ考えさせた上でこうおっしゃったのです。

28節 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。

 花の命は短いです。枯れてすぐに処分されるような草花。
 
けれども、そのような草花でさえ養い育て、ソロモンより美しくしてくださった神様は、人間に良くしてくださらないわけがないのです。
 
 だから、私たちは美しい花を見るときに、神様が守り養ってくださると思いだしたいのです。

この花はどこから来たのか?

この世界の造り主が世界で一つだけのオリジナルとして造られ、養い美しく咲かせてくださっている。

私たち人間のことはそれ以上に大切に、養い育ててくださる。 

神様によって咲いている花々。私たちはそれを見てほっとし、造り主なる神様に信頼してゆだねることを思い出す者でありたい。


2019/11/17

高くする者は低くされ、低くする者は高くされる


一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:13-14) 

最も深刻な罪は、自己正当化の罪だと言えます。

自分はいつも正しいと信じきっているので、罪を認めることができず、悔い改めができないのです。

自分を正しいとする者には、キリストの十字架は不要となってしまいます。神の赦しを必要としないのです。


そのように自分を高く正当化する者はそのままでは救いに導かれることができないので、神はその人を砕き罪に気づかせようとなさいます。それもまた「神の愛」から出ているのです。

私たちがしばしば砕かれるのは、自分の高慢や正当化する罪に気づき、この取税人のようにへりくだって、神にあわれみを乞う者となれるようにするためです。

神の国は、そのように自分を低くする者に開かれます。

自分で必死になって上を目指さなくても、神がその人を高くしてくださるのです。

自力で高く大きくして誇る者は、その門をくぐれません。神の力を拒絶してしまうのです。

神の前に謙虚になりゆだねましょう。必要な時に神が高くしてくださいます。

2019/11/10

次世代へ語り継ぐもの


これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。(申命記6:7) 

申命記は、約束の地へ入る手前で、モーセが死を目前にして語った告別のメッセージです。

自身はカナンの地に入ることができず、その前で天に召される。

そんな状況の中で、次世代の民へと伝えたいものがあったのです。

それは、あなたの神、主を愛することです。

カナンの地には偶像礼拝、異教の文化の誘惑が多分にありました。しかし、そこで流されることなく、みことばに立って、主だけを生涯愛して仕えるようにと伝えたかったのです。

 
私たちも、次世代に何をどのように伝えたいのでしょうか。

教会学校で子どもたちが教えられ、育てられることはすばらしいことです。ぜひ、子どもたちを教会学校に参加させていただきたいと心から思います。

一方で、教会学校で見てあげられる時間はわずかです。週1回の限られた時間で伝えられるものは多くありません。ですから神は民に対して、それぞれの家庭、日常生活の中で子どもたちによく教えるように言われました。

家でゆっくり座っているとき、道をともに歩いているとき、寝るとき起きるときも・・・。
日常のあらゆる場面で子どもたちに神を心から愛して歩むことを教えよと命じられました。

子どもたちは、大人が普段の生活の中でどのように神とともに歩んでいるかを見て、神の偉大さやすばらしさを知ります。

改まった機会にではなく、つくろった外側ではなく、毎日の歩みの中で親や大人たちから学びます。

子どもたちの祝福を心から願うならば、私たちはこの責任を祈りのうちに全うすべきでしょう。

神はこれを大切なこととして「聞け!イスラエルよ」と注意を呼びさましながら示されたのです。

2019/11/05

お母さんも安らがないと!



 お母さん自身のケアも大切です。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。(Ⅰテモテ4:16

聖書にこうあるように自分自身にもよく心を配り、ケアされていないと良い子育ては難しいですよね。特に子育ては24時間営業の一大事業です!
親は親としてだけの働きじゃありません。お仕事や家事、ご主人の助けなど色々あるわけです。その中での過酷な働き!重労働。大変です。

 
 ですから、お母さんが疲れ果て倒れてしまうと子どもたちへの良いケアはできないのです。
 
 なお、私たちがあまりに忙しくマルチタスクで歩んでいると、ADHDのような症状が出てくることがあるそうです。
 
とくに現代人はスマホで色々な人と連絡とりながら、一つの仕事に集中できないので。色々な事に注意が行き過ぎて、「注意が欠如」してミス多発状態になります
 
 神様は、週に1日はゆっくりせよと聖なる日、礼拝の日を命じられました。
 
 
 礼拝はお務めではなく、心も体も神様の前に出てやすらぎ、励まされ、力をいただく日です。
 
なかなか事情が許さない方もいると思いますが、一週間の感謝をしに、また新しい週のために英気を養うために、ぜひ礼拝に!

子どもたちも実際、それで守られています。神様の前に出てしっかり休み、励ましをいただくことで肉体的にも、精神的にも強められているからです。

 

 私たちは子どもたちに愛を伝えたい。愛したい。
 
 しかし、自分は愛を受けているだろうかとも思わされます。

 愛を知らない自分が、子どもたちにどんな愛を伝えられるだろうか?
 
 不安ではないでしょうか?

あるお父さんは、子どもが自分にとって受け入れやすい「いい子」になってくれるよういつも祈っていました。
 
でも、実はこの姿勢が間違っていたので子どもたちの心は父から離れ、表情も暗く堅くなっていきました。
 
「いい子」になって欲しい。
 
「親が自慢できる子」でいて欲しい。
 
この願いはしばしば子どもたちに大きなプレッシャーを与えてしまいます。 
 
親の望むような子でいられない時にこそ、親の愛が試されます。
 
「試し行動」とはそのためにされる行為です。わざと、親の嫌がる行為をしてみたり、親を怒らせたり、反発したりする。それは「見捨てられ不安」から来ています。こんな自分でも愛されるのか?親は自分を捨ててしまうのでは?愛想をつかしてしまうのでは?親の愛を試しているのです。暴れたり、不良の格好をしたり、心配させたり・・・それらもそうです。こういう事が少なからず、起こりえます。それに対して私たちの愛が上回っていることが大切。

そのためには???

お母さん自身が愛されていること。受け入れられていること。
 
愛を教えられていることが大切です。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4

神様は、あなたが良い母親であろうと、そうでない母親であろうと変わらずに愛しています。
 
成功しようと、失敗しようと、素直であろうと、意地っ張りであろうと、あなたが可愛くて仕方がないのです。
 
だから、大切な代わりのきかないイエス・キリストをあなたの代わりに犠牲に!
 
ここに無条件の愛があります。

 いい子を愛するのは簡単です。
 
 でも、反発し、言うことをきかない、叫んでいる子は大変です。
 
 でも、その子にこそ愛が試されるのです。
 
 神様は、私たちがどういう状態であろうとも愛しておられます。従おうとしない者をも愛し、ご自分のところに立ち返ることをいつも忍耐深く待ち続けておられるのです。
 
 どうかこの愛の中にまずお母さんが安らぎ、その愛をいただきながら子育てに携わっていただくのならば、あなたもあなたのお子さんも本当の愛の中に安らぐことができます。
 
 

 

2019/11/03

神に近づく道


その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥(なだ)めとなり、彼は受け入れられる。(レビ記1:4) 

実はレビ記の本来のタイトルは「レビ記」ではなく、「そして彼は呼んだ」というヘブル語一語とされています。

出エジプト記の最後で幕屋が完成しましたが、神の栄光が満ちておりモーセは中に入れませんでした。

それで、レビ記の最初ではその幕屋から主なる神がモーセに呼びかけ語ってくださったのです。

いつでも神の招きが先にあり、招かれて初めて私たちは神のもとへと近づくことができるということを教えられます。


ここで語られたことは、幕屋でどのようにして神礼拝をなすのかということでした。

神に受け入れられる道筋が教えられているのです。

礼拝の初めに「招きのことば(招詞)」というものが読まれます。

それは、神がまず私たちを御前に召してくださるということであり、それなしには礼拝をささげることすらできない私たちなのです。

圧倒的な聖、輝かしい栄光の前に、人は本来そのままの姿で神に近づけば自ら滅ぶことになります。しかし、神が備えられた道、すなわち罪のきよめのささげ物を通して神のあわれみのうちに受け入れられていくのです。

罪ある人間が滅びずに聖なる神に受け入れられるために、動物のささげ物の頭の上に手を置いて祈ることを主は教えておられます。傷のない動物が選ばれ、私たち罪ある人間の身代わりとしてささげられるのです。 


これはまさに神の子羊イエス・キリストの雛型(ひながた)です。

神が聖なる方であるように、私たちもキリストの十字架の贖いによって罪赦され、聖なる者とされて神に大胆に近づけるようにされたのです。

このために神が払われた尊い犠牲に感謝します。

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