東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2月 2020

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

最新情報

【☆最新情報☆】What’s New!!
☆10/29 イベントページを更新。「初めての方へ」ページを開設!

2020/02/25

【ご案内】 3月のほっとカフェ


3/17(火) ほっとカフェ・ランチ♪☆ 
  ママ’sカフェ、ほっと」カフェの合同ランチ会
   
残念ながら、新型コロナウィルスの感染予防の配慮から、中止(延期?)となりました。もう少し落ち着いてから、行う可能性もありますが、とりあえずこの日には行わないことになりました。ご理解いただければ感謝です。




<過去のほっとカフェ> 
2月のほっとカフェはシリーズ講演
「心のケアと人間関係」でした。
ほっとカフェ、心のケアと人間関係シリーズ







1月は「お茶を楽しむ会」でした。




   <<お茶会の様子>>

お茶の作法を少し教えていただきつつ・・・







2020/02/23

Ⅰコリント12章25-31節「人が生かされる教会」



第一コリント1225-31節 「人が生かされる教会」



国、国家において最も大切なものは何でしょうか?
財力でしょうか。武力でしょうか。組織や制度でしょうか。

私はいつでも「人」だと思うのです。人材こそ国家の宝であり、人の良し悪しこそがその国の力だと思います。

もちろん教会も同じです。どんな教会を目指したいかと問われるならば、「人が生かされる教会」を目指したいと申し上げたい。もちろん神の栄光が現される教会とか、神のみこころを行う教会といったことは大前提です。どこの教会でも神の栄光が現れることや神のみこころを行うことは掲げていることでしょう。

でも、「人が生かされているか」と問われるならば、そうではない教会も多いのではないでしょうか。

このサンライズチャペルもその点でもっと良くなる必要があります。
なぜなら、神様がそれを望んでおられるからです。主なる神様は全知全能ですから、おひとりで何でもできますが、ご自身のかたちとして造られた人を用いて栄光を現そうとなさっているからです。


この罪の世は人を生かせていません。むしろ人を潰し、人を倒れさせます。人を排除します。私は罪とその結果である滅びに解決をもたらす十字架の救いの上に立つキリストの教会こそ、人を最も生かす場であるべきだと心から信じています


ここに来たら人がキリストと出会い、新しい人生を生き始められる。弱り果てて希望を見失っている人でも、ここに来たらイキイキと輝いていける。その人のうちに与えられている可能性、神の賜物が見出され生かされていく。そのようにして神のご栄光が現される教会です! 
そういう教会を目指したいと思いませんか?


 そのためには、今このみことばを聞いている私たちひとりひとりが、自分のためにではなく他の人のために献身していく者とされていく必要があります。
互いに献身し合う群れです。神様のみことばに従って、喜んで自分を与える者とされていくとき、人は互いに生かされていきます。みことばを通して人が生かされる教会となる道を学びましょう。




1. からだは生きている

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
(Ⅰコリ12:25-27)  
教会はいつでも「キリストのからだ」と表現されます。
クリスチャンの集まりは、人間のからだのイメージで語られているのです。
そこにどんな意味があるのでしょう?
第一に「からだ」というのは「生きている」のです
血が通い、酸素が運ばれ、つながっており、連動しており、いつでも一体で、一緒になって生きています。単独で指を一本ここに切って置いておくとどうなりますか?その指も爪も欠陥も神経も全部生きることができません。からだはお互いの存在によって支え合い、お互いの存在によって生かされるように設計されているのです。
このみことばにあるように、各部分が互いのために配慮しケアし、一緒に苦しみ一緒に尊ばれ、一緒に喜び一緒に生きる。

ですからお互いに無関心で、交わりがないとどうなるか・・・
この「からだ」は生きないですよね。
またサッカーの話で恐縮ですが、わかりやすいので用いたいと思います。
現在スペイン一部リーグで18才の久保選手が活躍しています。しかし、日本人に対する差別は少なからずあり、なかなか彼にパスが回されないという現実を多くの解説者やファンは指摘しています。どんなに才能があっても、パスが回らない、信頼して任されない、助けてもらえない状況では力を発揮できないのがサッカーです。
しかし、直近の試合では多くのパスが回ってきて、1ゴール1アシストの大活躍をしました。
それは教会がキリストのからだであることと似ています。
からだはお互いの協力なくしては、お互いに生きないのです。
絆がなければ、愛の交わりでつながり、祈り合い支え合わなければお互いが生きないのです。

 イエス様は私たちになんとおっしゃったのでしょうか?

 「愛されなさい」と言われたでしょうか?
 
 いいえ。
 イエス様は「隣人を愛しなさい」と言われたのです。「互いに愛され合いなさい」と言わず、「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
口をあけて愛されるのを待っているのではなく、自分から愛していくことこそ神様の願っていること。みこころです。「愛して欲しい、待っています」という人ばかりの集まりでは、お互いに生きることができないでしょう。


 クリスチャン総活躍教会でありたいと願います。
それは全員が奉仕しなければならないといった忙しい教会という意味ではありません。
それぞれのペースで、それぞれの賜物をもって、お互いを生かし合うという意味です。
ただ、孤立して、声を掛けられる人もなく、居場所も持てずに過ごす教会生活にしたくないのです。

互いに友となりたいのです。

案外牧師は教会で友達を得られないと言われます。立場的に難しい面がありますよね。
でも、私はあえて、皆さんの友でもありたいと願います。
アブラハムが神の友と呼ばれ、イエス様が弟子たちを「友」と呼ばれたのですから、牧師と信徒も深い友情で結ばれ互いに支え合ってもいいではありませんか。
そして、信徒同士も個人情報云々とばかり言わず、そしてまだ信者でない人も含めて、友だちになれる教会でありたいと思うのです。
SNSで個人情報を隠してつながり、面倒なことがあるとすぐ切ってしまう友ではなく、しんどい時にこそ寄り添い泣いてくれる友が、私たちには必要です。




2. 互いに違う役割を担うが欠けていい部分はない

「キリストのからだ」と表現されている意味の第二のことは、互いに違う役割を担うが、欠けていい部分はないということです。
体には欠けて良い部分などありません。
しかし、しばしば私たちは互いに比べ合ってしまいます
他の人がとても仲良く見え、楽しそうに見え、自分はその交わりの中にいないように感じます。

あるいは、自分などいなくても何も変わらないのではないかと思うこともあるでしょう。
確かに誰か一人がいないからと言って、それで動けなくなるようでは困ります。でも、その一人がいないことは「痛みを伴うこと」をお互いに忘れないでいたいのです。

26節に一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむとある通りです。そしてお互いの違いを否定し合うのではなく、尊重し合いたいのです。神様が個性を与え、異なる賜物を与えておられるのです。


28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。 

私たちは自分と違うということを否定的にとらえることがなんと多いことでしょうか。
しかし、朝型の人と夜型の人がいることによって、24時間、社会が支えられているのです。細かいことに気づける人がいるので、全体を見渡せる人が安心して動けるのです。皆が同じタイプでなくていい。話すのが得意な人ばかりじゃなくていい。団体行動が得意な人ばかりじゃなくていい。静かに一人で過ごすのが好きな人もいるから、そういう人も安心して教会に来られる。賜物に優劣があるわけではない。


 他の人の賜物を自分のことのように喜びましょう。あの人は歌声がすばらしい、自分はそれに比べてダメだなと思うのではなく、あの人の歌声のおかげで「私たちの賛美はすばらしいものとされている」と自分のこととして喜ぶのです。
なぜなら、私たちは同じキリストのからだなのですから。
あのデザインのセンスはすばらしい。自分にはない、悲しいと思うでのはなく、「あの人の賜物が生かされている私たちの教会のチラシはすばらしい!いいでしょ?」と自分のことのように胸を張ればいいのです。


これらを実践するために、共通して全員が求めるべき大切なものがあるとパウロは教えます。それは最も大切で、最も優れていて、誰もが追い求めるべきものだと。

12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。 よりすぐれた賜物、はるかにまさる道。それは何でしょうか?




3.愛を追い求めること

 続く13章全体は「愛の章」と言って良いでしょう。山をも動かすほどの信仰があろうと、愛がなければ意味がないとバッサリ切り捨てるほど「愛」の重要性を説いています。
結局どんなに良い説教がなされ、魅力的な会堂があって、いい音楽があって、楽しいプログラムがあろうと・・・結局愛がないと人の心は満たされません
愛のある教会を目指したいのです。一人ぼっちの人がいないように。さみしい思いをする人がいないように。自分がその一人ぼっちなのだと思うなら、自分からも声をかけ友になる。

 あきらめずに愛を追い求めてください。
1313-141節 いつまでも残るもののうち、一番すぐれているのは愛。
「愛を追い求めなさい。」

 
 人々がここに来て生かされるようになる教会になるには、愛が必要不可欠です。

 伝道・宣教=イベントをやって人がたくさん来て終わり。プログラムだけではなく、もっと人格的なものである。良い建物があり、良いプログラムがあり、美味しいご馳走もあるかも知れない。でも、それでは伝道とは言えないのです。それは宣教ではない。
肝心なのは「人」です。その建物にいる人々であり、そのプログラムを行っている人であり、美味しい物を作り提供する人々が大切です。何より、愛をもってひとりひとりがなしていくことでしょう。

 
人格的な宣教です。
「キリストの愛に根差して宣教する教会」という理念を私たちの教会は掲げています。
一方的に伝えて満足するものではなく、その人を愛し、友となり、一緒に歩んでいく教会でありたいと思います。イベントで宣教するのではなく、愛の交わりで宣教するのです。
 親しい仲間ができない場所には、居場所が生まれません。居場所のないところには長くは滞在できないものです。どんなにメッセージが良くても、どんなに会堂が立派でも、人との関りが良くなければ・・・ 。

ぜひ、神様のみこころに生きて、愛の交わりを築き、「人が生かされる教会」を目指していきましょう。ここから世界に人が生かされる「愛」を発信していきましょう。

2020/02/21

聖書とことわざ(1)


聖書とことわざ(1)



聖書に由来する格言、ことわざは意外に多いということ、ご存知でしょうか?
世界中で読まれてきたベストセラーですから、ある意味当然と言えるかも知れません。

普段日本人が何気なく使っていることわざも実は聖書から来ているものがあります。
少しでも聖書に親しんでいただくために、少しばかり紹介させていただこうと思います。


目からウロコが落ちる



意味:〔新約聖書使徒行伝九章から。略して「目からうろこ」とも〕
あることがきっかけとなって、迷いからさめたり、物事実態がわかるようになる。

(三省堂 大辞林 第三版より)


するとただちに、サウロの目から鱗(うろこ)のような物が落ちて、目が見えるようになった。(使徒9:18) 


クリスチャンを見つけては暴力をふるい、捕え、迫害してきたサウロという人がいました。彼には彼なりの正義があって、それらを正しいことと思いこんでやってきたのです。彼の心の目が開かられておらず、間違った正義感に支配されていたのです。

しかし、ダマスコという町に向かう途中、彼は天からの光を受け地面に倒れました。
天から声が聞こえました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

サウロが誰なのかたずねると、「あなたが迫害しているイエスである」との声が聞こえました。

同時に彼は目が見えなくなり、手を引かれてダマスコの町まで来ました。
サウロは三日間、目が見えず飲食もできませんでした。
ただ、苦しみと恐れの中で祈っていました。

そこで神から遣わされたアナニヤという人物と出会います。
アナニヤは最初、サウロがどれほど自分の仲間を迫害してきたかを知っていたので、なぜ、神がそのような者を助け、宣教に用いようとるのか理解できませんでしたが、神の言うとおりにし、彼の目をいやすために、手を置いて神からのことばを伝えたのです。

すると、ただちに、サウロの目からウロコのような物が落ちました。
彼はその途端、目が見えるようになったのです。
彼の肉眼が見えるようになったと同時に、彼は心の目で神のみこころを見る者とされたのです。 
彼はその後、バプテスマを受け、イエスこそ神の子であると宣べ伝えるようになりました。彼はやがて「パウロ」という名で宣教の使命を全うしていく者となりました。


まだ聖書を知らない頃、「目からウロコが落ちる」ということわざは、どうして「ウロコ」なの??と疑問に思ったことがありましたが、聖書から来たものであると後に知りました。TVの「トリビアの泉」という番組で紹介されたので、この事は割とよく知られているかもしれません。


2020/02/17

レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


罪のきよめに必要だった「ささげ物の教え」から学びます。
前回もお話ししましたが、ここに語られている儀式自体は、すでにキリストの十字架に取って代わられたものであって、現代の私たちがするものではありません。

また、これだけ読むと表面的には難しいと感じるものかも知れませんが、その奥にある神様のご計画をよく味わい、ここにある宝物を一緒に発見していきましょう。

今日はおもに12節までの部分から教えられます。それは祭司が罪を犯した場合のささげ物の規定です。その後の13節からは「会衆全体が迷い出て罪を犯した場合」、22節では「族長が罪を犯した場合」、27節では「個人で」というように分類されています。ほぼ内容は共通ですが、ささげる動物が少し異なります。それは置かれている立場や経済的事情への配慮であり、神様のきめ細かい気遣いを感じることができます。


1. 祭司も罪のささげ物をまずささげる

 祭司は人のためにとりなし、贖いの儀式をすべき人です。ところが聖書は、真っ先に祭司の罪のささげ物について取り扱っているのです。

3節 油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。 

祭司の規定が真っ先に語られていることには意味があります。祭司といえどもごく普通の人間から選ばれます。やはり罪を犯すのです。聖書が語るように人は生まれながらにして罪人であり、神の前に完璧な義人は一人もいません。ですから、まず祭司から罪のきよめがなされる必要がありました。

しかし、こうして祭司自らが真っ先に自分の罪を覚えてささげ物をすることは、祭司自身も他の人々と同様の弱さをまとっているとの自覚に至り、弱いひとりひとりを思いやる事ができると言えます。

ヘブル5:2-3 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。 

現代の牧師も同様です。自分を正しいとし、他の人にのみ悔い改めを迫るようではあわれみの心など持てないでしょう。
誰かが罪に陥っているのならば、まず先に自分はどうだろうか?と顧みなければなりません。自分にも罪があることを自覚した上で、ともに祈っていくものです。

私もしばしば、気が付かないうちに上から目線で人をさばいてしまう事があります。私が教えてあげなければ、私が指導してあげなければ・・・この傲慢さは人を助けるどころか、人を倒れさせてしまいますよね

祭司こそ、真っ先に自身の罪に涙し、そのために犠牲がささげられていることを真摯に受け止めなければならないのです。

しかも、祭司の場合には民全体の罪の時と同じ「雄牛」の犠牲がささげられるのでした。つまりそれは、民全体が罪を犯したのと同等の犠牲ですから、祭司の罪の影響の大きさを意識させられます。祭司は他の人以上に、自分の罪深さを受け止め、誰よりも謙遜にならなければならないと言えます。

私は教会において牧師だけでなく、信徒の中からも主事や長老といった霊的指導者が増えていくことを期待しています。でも、その働きに就く人に求められることは、まさにこの事です。能力ではありません。

誰よりも自らの罪に涙し悔い改められる人、謙虚に人々の弱さに寄り添える人であることです。そうでなければ、人の心は開かれないですよね。

2. 罪の赦しのために血が流された

 さて、「罪のきよめのささげ物」の最大の特徴についてお話します。それは、動物の血の取り扱いにありました。「罪の赦しのためには、血による贖いがなされる必要がある」のです。
5-7節 5 その油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。
6 その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。

交わりのささげ物等とは違い、会見の天幕の中に血を持って入りました。その血は神の臨在される至聖所の垂れ幕に七度振りまかれました。神様と人とを仕切る垂れ幕です。この血できよめられることなしに、神様との親しい交わりが回復することはありません。

人のうちにある罪が、神様との親しい交わりを傷つけたのです。その回復のためにこれがなされました。同様に天幕の中にある、「香り祭壇」の四隅にも塗られました。香りの祭壇は、神へのかぐわしい香り=祈りや賛美を象徴します。

キリストの十字架の血潮なしには、祈りも賛美も主に受け入れられるものとはならないということです。どんなに良い歌詞であっても、私たちがキリストにあってそれを歌うのでなければ、この世の歌で終わってしまうのです。

さらに、7節の終わりではこれらの血は祭壇の土台に流すとあります。ひたすらに動物の血を用いるわけです。罪深い自分の代わりに動物のいのちが注がれているのだという思いが強まりますよね。

これほどの犠牲がありましたが、これらはキリストの登場によって終わりを告げます。

ヘブ7:27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。 


先ほどお話したように、祭司は「まず自分の罪のために」ささげるのです。

そして、毎日毎日、何度も繰り返されていた動物のいけにえ。それがもう終わりを告げた理由がこれです。

神の子キリストの血の重みを感じますね。数えきれないほどの動物の犠牲、大量の血が流され続けた歴史が、たった一人のたった一度の犠牲で完全にされるのですから。

私が神学生の頃の話です。一緒に同じ地区で奉仕していた先輩の神学生がいました。中高生JYキャンプで一緒に劇をしました。キャンプファイヤーのプログラム中にキリストの十字架の劇でした。その先輩がアドリブでこんな内容のことを言いました。

「イエス様が十字架で死んでくださって感謝!ということは!これまで動物の犠牲を何度も何度もささげてきたが、もう動物の犠牲をささげなくていいのか!なんとありがたい!」といったセリフです。

「私の罪のためにありがとう!イエス様!」で済みそうな場面なのに、わざわざいけにえの説明を加えていました。

「中高生向けの劇でわざわざその長い説明をつけるのか?中高生わかるんだろうか?」と突っ込みたくなりましたが、彼なりに十字架の重みを伝えたかったのだと思います。

確かにこれらの教えを学ぶときに、私たちは罪の赦しというものを重みをもって知ることができるのではないでしょうか。他人事ではなく、私たちの罪がイエス様を十字架につけたと受け止めたいのです。

MEBIGという子ども伝道の働きから生まれた賛美があります。そこに参加していた子の詩を賛美にしたものらしいです。
「ぼくこそ十字架のくぎ あなたの手に傷をつけた 十字架のくぎ  ぼくこそ十字架のくぎ あなたの足に傷をつけた 十字架のくぎ あなたを傷つけ 傷つけ 傷つけ Ah Ah  ぼくこそ十字架のくぎ あなたのすべて 傷つけた その傷 救い」

3. キリストについて行く

今日教えられる3つめのことは、キリストについて行くということです

12節 すなわちその雄牛の残りすべてを、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、薪の火で焼く。これは灰捨て場で焼かれる。

この罪のきよめのささげ物は、その血を幕屋の中に持って入りましたが、その雄牛の体の部分は宿営の外のきよい場所で処分されました。これはキリストがイスラエルから見捨てられ、拒まれることにご自分から従われた姿を示します。イエス様はエルサレムの囲いの中ではなく、囲いの外で十字架に磔にされました

 なぜでしょう?イスラエルの民にとって宿営の中こそ聖なる場であり、外は汚れた場所という理解がありました。エルサレムの中が聖なる場所で、エルサレムの城壁の外は汚れた場所という考え方です。

イエス様は罪ある者・汚れた者として、外に捨てられたということです。

まことの王なのに、聖なる方なのに、エルサレムの中にイエス様の居場所はありませんでした。

しかし、不思議なことに、汚れた場所に捨てられたのにも関わらず、イエス様の十字架こそ罪のきよめを成し遂げた聖なる場所となったのです。ヘブル人への手紙は、このことを説き明かしています。

ヘブ13:11-13  11 動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 イエス様がおられるところ、神のみわざがなされる場こそが聖なる場所です。居心地の良い罪のたまり場から出て、イエス様にこそついて行きましょう。

イエス様とあなたがいる場所が、新しい恵みの場になります。

ある姉妹のお父様が最近教会に来られる機会が増えました。
以前は全く興味を持たれていなかったのですが、最近は行く気満々だそうです。

そして、最近になってなぜ娘さんが教会に熱心に集うのか、自分にも分かるようになってきたとおっしゃったそうです。

しばしば私たちもキリストを信じるゆえに、批判されること反対されることがあります。お誘いしても拒まれることも多いでしょう。

でも、イエス様のおられるところ、みことばが語られるところ、愛の交わりがあるところ。この恵みの場に私たちが身を置く時、主イエス様に従って囲いの外に出ていく時・・・やがて批判していた人たちでさえそこに導かれて参ります。

先に出ていく者があるからこそ。証しがあるからこそです。
恐れずキリストについて行きましょう。

2020/02/09

Who are you? あなたは何者か?



自分が何者であるのか?どういう存在なのか?知っているようで知らない私たちです。
なぜでしょうか?
人は自分の姿を見ることができないからではないでしょうか。
他の人の姿はよく見えます。でも、自分の表情や自分の立ち振る舞い、全体像。
それらは見えないのです。鏡や映像を通してしか自分が見えません。
最近は、そうしたことを考えると神様はあえて私たちをそのように造られたのではないかと思うのです。自分の力で自分を知りつくすことができない者です。そうなるとどうやって自分をより深く知るのでしょうか?

客観的に見てくれている他の人の存在によって、自分には見えない一面を知るのです。
他人から言われて、私ってそうなのか?と気づくことも少なからずありますよね。
でも、不十分です。彼らは自分では見えない面を見てくれていますが、内面までは見抜けません。心を理解しきれないから誤解も生じます。中には何も知らないのに、不当に批判されたり、外見や一面的な部分で否定されたりすることもありますよね。偏見や恣意に満ちた指摘も少なくありません。だから不十分なのです。
それならば、どうやって私たちは自分のことを正確に知ることができるのでしょうか?
最終的にあなたが何者かということを正しく深く知るためには、自分の造り主であり、内面も外側もよく知るお方から教えられる必要があるのです。
神のみことばを通して、あなたは何者かをともに知る者となりましょう。


創1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
創 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 
 まず教えられることは「神のかたち」として造られたあなたであるということです。神に似た者、神にかたどられた者、神のかたちとして私たちは造られたのです。だから高価で尊いのです。神様が非常に「良いもの」として造られたので、最高に価値があるのは当然のことです。神様は失敗しませんし、最高のデザイナーなのですから。しかも、ご自身の性質に似せて、対等に交わりが出来る存在として造られたのですから。

なんという栄誉でしょうか。
それゆえに、この世界の管理をゆだねられている存在です。
われわれという表現は、父、御子、御霊の三位一体の神が互いに親しい愛の交わりで結ばれ一心同体となられている姿を現すと私は理解しています。
そして、光栄なことに「神のかたち」に造られた人間は、この三位一体の交わりに招かれていると言えるでしょう。愛の交わりを神となすことができる存在です。


さらに、神の創造のみわざは圧倒的です。
同じものが二つとありません。同じに見えるのに、厳密には同じでないということがすごいのです。
雪は一見全部同じに見えます。
けれど、その粒一つ一つを顕微鏡で見れば「雪の結晶」として、どれひとつ同じものがないと気づきます。人間とうさぎを区別できないということはないですよね?猿と人間も明確に違いますよね。でも、人間はみんな同じかと言うと、全員違いますよね。
「人間である」と区別できるのに、人間同士お互いに個性が豊かに存在します。
これこそ偶然ではなく、明確な神のデザインの現れです。
しかしながら、人は造り主を離れてしまいました。その教えを捨て、その愛を見失い、神のかたちの本来の恵みや輝きを失ってしまっているのです。
その原因が「罪」なのです。 
ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 
罪によって神の栄光を受けることを妨げられてしまっています。もったいない!

自分が何者かを考える時、神によって造られた「神のかたち」を出発点にしながらも、罪によって本来の輝きを失っている面があることを率直に認める必要があります。
事実、ウソをついたことがない人はいないでしょう。人を傷つけたことがいない人もいないでしょう。正しいとわかっていながら、正しいことができない私たちです。聖書はそれがあなたの罪だと教えます。
何より、造り主なる方を無視して、闇の中で罪を犯しごまかします。 
イザヤ29:15 わざわいだ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らは闇の中で事を行い、そして言う。「だれが私たちを見ているだろう。だれが私たちを知っているだろう」と。 
私は小学生の頃に親のお金を盗みました。棚に置いてあった小銭です。まさにこのみことばが私の姿です。「だれが私たちを見ているだろう」・・見ていないから大丈夫だ。その時はバレずに済みました。ただ、ずっと大人になっても心がチクチク痛みました。「良心」があるからです。これこそ「神のかたち」に造られた証拠です。だから、良心に反する罪を犯すと、痛み傷つくのです。
人々に見つからなければ大丈夫。ウソを通せば問題ない。
神を恐れることを失うと、人の前にごまかし通せれば何をしてもいいという闇の世界の住人になります。
それで不幸になるのは神様ではなく、私たち自身です。ですから、せっかく良いもので満ちていたのに、神の栄光あるかたちだったのに・・・この世界に悪が増大し、罪と不正と汚職にあふれ、格差は広がり、弱い者は踏みつけられています。
そして、この世界が悪いことを造り主のせいにします。造られた側の人間が造ってくれた神に向かって批判します。
イザヤ書 2916節 ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。 
私たちには最高のデザイナー・造り主なる神様がいることを知る必要があります。そして、私たち自身は造られた者であり、この造り主を離れて、見られていないから大丈夫と思い込みます。こうして闇に落ちていくことが、いかに不幸であるかを知る必要があります。
では、どうやって本来の輝きを取り戻すのでしょう?

 自身の闇を知り、神の愛に立ち返ることです。神様は、闇の中にいる私たちをすべて知っておられ、知った上でなお愛の中に招き続けておられます。 
マタイ5:45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 
なぜ、神様はこうなさるのでしょうか?
それは罪があろうともその人を愛し、彼らにもう一度ご自分との交わりを回復して欲しいからです。
そして、その愛の最高潮は御子イエス・キリストを遣わし、人の身代わりとされたことです。 それほどに愛されている存在があなたです。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は人にその不幸な状態のままいて欲しくありません。だから、救いの手を差し伸べ、ひとり子を与えられたのです。もはや滅びることがないために。

御子を信じる者は、神のかたちを回復するので、永遠の神の愛に安らぎ希望を告白して歩むことができます。
信じて救われた者はどのような者とされているのでしょうか?

Ⅰコリ 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。 
これはかつて、クリスチャンを迫害していたパウロの告白です。
以前は迫害する者であり、罪のさばきの中にいた彼でした。滅んでも仕方がない者でした。クリスチャンを見つけては捕まえ、暴力を振るい、牢屋に入れていました。あのステパノという真面目なクリスチャンを一方的に迫害し、殺害した一味でありました。
けれど、彼はそんなにも罪深い行為をしたにも関わらず、神の恵みによって罪赦されました。赦されただけではなく、神の恵みを大いに受け、神の国の働きの最前線で労する立場を与えられたのです。
つまりキリストの十字架の恵みによって「今の私」=「恵みと祝福をあふれるほどに受けられる私」とされたのです。 
聖書には、キリストを信じた者が、神の恵みのゆえにどのような者とされているのかというテーマが多く語られ、様々なことばで伝えられています。
ロマ8:30-32 30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 
ここだけでも、義と認められ、栄光を与えられ、神が味方となっておられ、御子とあらゆるものを与えていただける者とされ、それほどに愛されている者であることがわかります。
他の個所でも、信じたあなたは、神の子とされている。罪赦されている。聖なる者とされている。天に国籍を持つ者・天の相続者とされている。永遠のいのちを持つ者とされている。キリストの使節(大使)とされている。神との平和をいただいている。神の神殿・御霊の宮とされている。キリストの心を持つ者とされている。自由にされている。など、神の恵みによって与えられている立場がどれほど豊かなものかわかります。神の愛から引き離され、捨てられることなど決してないのです。


 あなたは自分のことを何によって知っているでしょうか?

 自分の思い込みでしょうか?人々のあなたに対する意見でしょうか。しかし、罪によって歪んだ自分や人々の意見の奴隷になってはいけません。他の人の意見、喜んで頂戴するといいでしょう。でも、それを決定的なものだと思ってはなりません。なぜなら、決定的な意見を言えるのは神様ただおひとりだからです。

 イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

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