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2020/02/23
Ⅰコリント12章25-31節「人が生かされる教会」
第一コリント12章25-31節 「人が生かされる教会」
国、国家において最も大切なものは何でしょうか?
財力でしょうか。武力でしょうか。組織や制度でしょうか。
私はいつでも「人」だと思うのです。人材こそ国家の宝であり、人の良し悪しこそがその国の力だと思います。
もちろん教会も同じです。どんな教会を目指したいかと問われるならば、「人が生かされる教会」を目指したいと申し上げたい。もちろん神の栄光が現される教会とか、神のみこころを行う教会といったことは大前提です。どこの教会でも神の栄光が現れることや神のみこころを行うことは掲げていることでしょう。
でも、「人が生かされているか」と問われるならば、そうではない教会も多いのではないでしょうか。
このサンライズチャペルもその点でもっと良くなる必要があります。
なぜなら、神様がそれを望んでおられるからです。主なる神様は全知全能ですから、おひとりで何でもできますが、ご自身のかたちとして造られた人を用いて栄光を現そうとなさっているからです。
この罪の世は人を生かせていません。むしろ人を潰し、人を倒れさせます。人を排除します。私は罪とその結果である滅びに解決をもたらす十字架の救いの上に立つキリストの教会こそ、人を最も生かす場であるべきだと心から信じています。
ここに来たら人がキリストと出会い、新しい人生を生き始められる。弱り果てて希望を見失っている人でも、ここに来たらイキイキと輝いていける。その人のうちに与えられている可能性、神の賜物が見出され生かされていく。そのようにして神のご栄光が現される教会です!
そういう教会を目指したいと思いませんか?
そのためには、今このみことばを聞いている私たちひとりひとりが、自分のためにではなく他の人のために献身していく者とされていく必要があります。
互いに献身し合う群れです。神様のみことばに従って、喜んで自分を与える者とされていくとき、人は互いに生かされていきます。みことばを通して人が生かされる教会となる道を学びましょう。
1. からだは生きている
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
(Ⅰコリ12:25-27)
教会はいつでも「キリストのからだ」と表現されます。
クリスチャンの集まりは、人間のからだのイメージで語られているのです。
そこにどんな意味があるのでしょう?
第一に「からだ」というのは「生きている」のです。
血が通い、酸素が運ばれ、つながっており、連動しており、いつでも一体で、一緒になって生きています。単独で指を一本ここに切って置いておくとどうなりますか?その指も爪も欠陥も神経も全部生きることができません。からだはお互いの存在によって支え合い、お互いの存在によって生かされるように設計されているのです。
このみことばにあるように、各部分が互いのために配慮しケアし、一緒に苦しみ一緒に尊ばれ、一緒に喜び一緒に生きる。
ですからお互いに無関心で、交わりがないとどうなるか・・・
この「からだ」は生きないですよね。
またサッカーの話で恐縮ですが、わかりやすいので用いたいと思います。
現在スペイン一部リーグで18才の久保選手が活躍しています。しかし、日本人に対する差別は少なからずあり、なかなか彼にパスが回されないという現実を多くの解説者やファンは指摘しています。どんなに才能があっても、パスが回らない、信頼して任されない、助けてもらえない状況では力を発揮できないのがサッカーです。
しかし、直近の試合では多くのパスが回ってきて、1ゴール1アシストの大活躍をしました。
それは教会がキリストのからだであることと似ています。
からだはお互いの協力なくしては、お互いに生きないのです。
絆がなければ、愛の交わりでつながり、祈り合い支え合わなければお互いが生きないのです。
イエス様は私たちになんとおっしゃったのでしょうか?
「愛されなさい」と言われたでしょうか?
いいえ。
イエス様は「隣人を愛しなさい」と言われたのです。「互いに愛され合いなさい」と言わず、「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
口をあけて愛されるのを待っているのではなく、自分から愛していくことこそ神様の願っていること。みこころです。「愛して欲しい、待っています」という人ばかりの集まりでは、お互いに生きることができないでしょう。
クリスチャン総活躍教会でありたいと願います。
それは全員が奉仕しなければならないといった忙しい教会という意味ではありません。
それぞれのペースで、それぞれの賜物をもって、お互いを生かし合うという意味です。
ただ、孤立して、声を掛けられる人もなく、居場所も持てずに過ごす教会生活にしたくないのです。
互いに友となりたいのです。
案外牧師は教会で友達を得られないと言われます。立場的に難しい面がありますよね。
でも、私はあえて、皆さんの友でもありたいと願います。
アブラハムが神の友と呼ばれ、イエス様が弟子たちを「友」と呼ばれたのですから、牧師と信徒も深い友情で結ばれ互いに支え合ってもいいではありませんか。
そして、信徒同士も個人情報云々とばかり言わず、そしてまだ信者でない人も含めて、友だちになれる教会でありたいと思うのです。
SNSで個人情報を隠してつながり、面倒なことがあるとすぐ切ってしまう友ではなく、しんどい時にこそ寄り添い泣いてくれる友が、私たちには必要です。
2. 互いに違う役割を担うが欠けていい部分はない
「キリストのからだ」と表現されている意味の第二のことは、互いに違う役割を担うが、欠けていい部分はないということです。
体には欠けて良い部分などありません。
しかし、しばしば私たちは互いに比べ合ってしまいます。
他の人がとても仲良く見え、楽しそうに見え、自分はその交わりの中にいないように感じます。
あるいは、自分などいなくても何も変わらないのではないかと思うこともあるでしょう。
確かに誰か一人がいないからと言って、それで動けなくなるようでは困ります。でも、その一人がいないことは「痛みを伴うこと」をお互いに忘れないでいたいのです。
26節に一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむとある通りです。そしてお互いの違いを否定し合うのではなく、尊重し合いたいのです。神様が個性を与え、異なる賜物を与えておられるのです。
28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。
私たちは自分と違うということを否定的にとらえることがなんと多いことでしょうか。
しかし、朝型の人と夜型の人がいることによって、24時間、社会が支えられているのです。細かいことに気づける人がいるので、全体を見渡せる人が安心して動けるのです。皆が同じタイプでなくていい。話すのが得意な人ばかりじゃなくていい。団体行動が得意な人ばかりじゃなくていい。静かに一人で過ごすのが好きな人もいるから、そういう人も安心して教会に来られる。賜物に優劣があるわけではない。
他の人の賜物を自分のことのように喜びましょう。あの人は歌声がすばらしい、自分はそれに比べてダメだなと思うのではなく、あの人の歌声のおかげで「私たちの賛美はすばらしいものとされている」と自分のこととして喜ぶのです。
なぜなら、私たちは同じキリストのからだなのですから。
あのデザインのセンスはすばらしい。自分にはない、悲しいと思うでのはなく、「あの人の賜物が生かされている私たちの教会のチラシはすばらしい!いいでしょ?」と自分のことのように胸を張ればいいのです。
これらを実践するために、共通して全員が求めるべき大切なものがあるとパウロは教えます。それは最も大切で、最も優れていて、誰もが追い求めるべきものだと。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。 よりすぐれた賜物、はるかにまさる道。それは何でしょうか?
3.愛を追い求めること
続く13章全体は「愛の章」と言って良いでしょう。山をも動かすほどの信仰があろうと、愛がなければ意味がないとバッサリ切り捨てるほど「愛」の重要性を説いています。
結局どんなに良い説教がなされ、魅力的な会堂があって、いい音楽があって、楽しいプログラムがあろうと・・・結局愛がないと人の心は満たされません。
愛のある教会を目指したいのです。一人ぼっちの人がいないように。さみしい思いをする人がいないように。自分がその一人ぼっちなのだと思うなら、自分からも声をかけ友になる。
あきらめずに愛を追い求めてください。
13章13節-14章1節 いつまでも残るもののうち、一番すぐれているのは愛。
「愛を追い求めなさい。」
人々がここに来て生かされるようになる教会になるには、愛が必要不可欠です。
伝道・宣教=イベントをやって人がたくさん来て終わり。プログラムだけではなく、もっと人格的なものである。良い建物があり、良いプログラムがあり、美味しいご馳走もあるかも知れない。でも、それでは伝道とは言えないのです。それは宣教ではない。
肝心なのは「人」です。その建物にいる人々であり、そのプログラムを行っている人であり、美味しい物を作り提供する人々が大切です。何より、愛をもってひとりひとりがなしていくことでしょう。
人格的な宣教です。
「キリストの愛に根差して宣教する教会」という理念を私たちの教会は掲げています。
一方的に伝えて満足するものではなく、その人を愛し、友となり、一緒に歩んでいく教会でありたいと思います。イベントで宣教するのではなく、愛の交わりで宣教するのです。
ぜひ、神様のみこころに生きて、愛の交わりを築き、「人が生かされる教会」を目指していきましょう。ここから世界に人が生かされる「愛」を発信していきましょう。
2020/02/21
聖書由来のことわざ「目からウロコが落ちる」
目からウロコが落ちる
聖書に由来する格言、ことわざは意外に多いということ、ご存知でしょうか?
世界中で読まれてきたベストセラーですから、ある意味当然と言えるかも知れません。普段日本人が何気なく使っていることわざも実は聖書から来ているものがあります。
少しでも聖書に親しんでいただくために、少しばかり紹介させていただこうと思います。
するとただちに、サウロの目から鱗(うろこ)のような物が落ちて、目が見えるようになった。(使徒9:18)
クリスチャンを見つけては暴力をふるい、捕え、迫害してきたサウロという人がいました。彼には彼なりの正義があって、それらを正しいことと思いこんでやってきたのです。
彼の心の目が開かられておらず、間違った正義感に支配されていたのです。
しかし、ダマスコという町に向かう途中、彼は天からの光を受け地面に倒れました。
天から声が聞こえました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
サウロが誰なのかたずねると・・・
しかし、ダマスコという町に向かう途中、彼は天からの光を受け地面に倒れました。
天から声が聞こえました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
サウロが誰なのかたずねると・・・
「あなたが迫害しているイエスである」との声が聞こえました。
同時に彼は目が見えなくなり、手を引かれてダマスコの町まで来ました。サウロは三日間、目が見えず飲食もできませんでした。ただ、苦しみと恐れの中で祈っていました。そこで神から遣わされたアナニヤという人物と出会います。
同時に彼は目が見えなくなり、手を引かれてダマスコの町まで来ました。サウロは三日間、目が見えず飲食もできませんでした。ただ、苦しみと恐れの中で祈っていました。そこで神から遣わされたアナニヤという人物と出会います。
アナニヤは最初、サウロがどれほど自分の仲間を迫害してきたかを知っていたので、なぜ、神がそのような者を助け、宣教に用いようとるのか理解できませんでしたが、神の言うとおりにし、彼の目をいやすために、手を置いて神からのことばを伝えたのです。
すると、ただちに、サウロの目からウロコのような物が落ちました。
すると、ただちに、サウロの目からウロコのような物が落ちました。
彼はその途端、目が見えるようになったのです。
彼はその後、バプテスマを受け、イエスこそ神の子であると宣べ伝えるようになりました。彼はやがて「パウロ」という名で宣教の使命を全うしていく者となりました。
まだ聖書を知らない頃、「目からウロコが落ちる」ということわざは、どうして「ウロコ」なの??と疑問に思ったことがありました。
彼の肉眼が見えるようになったと同時に、彼は心の目で神のみこころを見る者とされたのです。
まだ聖書を知らない頃、「目からウロコが落ちる」ということわざは、どうして「ウロコ」なの??と疑問に思ったことがありました。
しかし、聖書から来たものであると後に知りました。
2020/02/17
レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」
レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」
罪のきよめに必要だった「ささげ物の教え」から学びます。
前回もお話ししましたが、ここに語られている儀式自体は、すでにキリストの十字架に取って代わられたものであって、現代の私たちがするものではありません。
2020/02/09
Who are you? あなたは何者か?
自分が何者であるのか?どういう存在なのか?知っているようで知らない私たちです。
なぜでしょうか?
人は自分の姿を見ることができないからではないでしょうか。
他の人の姿はよく見えます。でも、自分の表情や自分の立ち振る舞い、全体像。
それらは見えないのです。鏡や映像を通してしか自分が見えません。
最近は、そうしたことを考えると神様はあえて私たちをそのように造られたのではないかと思うのです。自分の力で自分を知りつくすことができない者です。そうなるとどうやって自分をより深く知るのでしょうか?
2020/02/07
子育て「わが子に信頼を伝える」
愛するわが子に信頼を伝えること。それは良いコミュニケーションとも言えます。
人は疑われて育つのではなく、信頼され任されゆだねられ、失敗もしながら成長するのではないでしょうか。
確かに神様というお方は100%信頼に値する方ですが、子どもたちは罪ある存在です。
善悪の判断も十分にできないこともあります。
しかし、それでも「どうせ無理だろう」という前提で伝えるのではなく、「わたしの愛するあなたなら、きっとできる。約束も守ってくれるはず!」と信頼を伝えつつ励ますことは子どもの心を励まし育てます。
十戒の秘密・・・
否定未完了形「してはならない!」という訳をせざるを得ない面もありますが、実は持っている意味は「わたしの子であるあなたがたは・・・しないはずである」というニュアンスです。戒律ではなく人への信頼と期待が含まれているのです。
私の愛するあながたは、こんなことをするはずがないですよね?という期待と信頼の現れです。ですから神様は人に対して、何度失敗しようとも語りかけられるのです。
してはいけないという倫理を教える面はもちろんありますが、それだけでなくそれを守ることができることを期待し、神からの信頼の呼びかけであることを覚えます。
人は、全く信頼されていないと、悪いことをかえって選択してしまうものです。
「ウソをつくなと100回教えられる」よりも、「あなたの言うことを信じるよ。だから正直に話してね。」と伝える方がずっと効果的なのです。
例)☆お手洗いの張り紙
①「きれいにお使い下さい」「汚さないようお願いします」と書かれている場合と
②「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます」と書かれている場合
単なる言葉の問題のようですが・・・与える印象がだいぶ違います。
人は 期待され、信頼されると、そのような者になろうと思うので②の方が効果的ですし、お互いに気分を害する感じになりにくいと言えます。
子どもたちは、もちろん人間ですから信頼を裏切ることがあります。けれど実はそれは私たちも同じではないでしょうか。大人こそ子どもたちの期待をより多く裏切っています。
イエス様の一番弟子ペテロの話があります。彼はイエス様にどこまでもついて行くと豪語していましたが、3度もイエス様との関係を否定します。保身のために信頼を裏切ってしまいます。その後彼は自分の罪に号泣するのです。
けれど、イエス様はどうなさったのでしょうか?
このペテロを信頼して大きな責任をお任せになったのです。彼は今まで以上に良い働きをする者になりました。
信頼を裏切った時、反省してないようならきちんと言い聞かせるべきです。責めるというよりも、親の気持ちを伝えることが大事。約束を守ってくれなかったことがとても悲しかった。神様も悲しんでいる。
しかし、十分反省し、悔いているなら → 励まし、信頼し、またチャンスを与える
そうやって信頼して任されることで子どもたちは徐々に成長し、その信頼にふさわしい者へと成長していきます。
思春期以降は、「信頼して任せる」ということをより増やしていく必要があります。親が気になって言い過ぎると、結局は「信頼してくれてないのだな」「頼りないと思っているのだな」、「ダメだと思われているんだな」と子どもたちは感じ、自信を失います。ひいては親への信頼をも失いかねません。
未熟なことがわかっていても、失敗することも含めて「やってみなさい」と任されることで、子どもたちは成長します。親に助けてもらいながらでも、自分でも頑張ってやれた!というのが将来への自信と成長につながります。
今までは親が7割、子どもが3割で責任を分割していたとしたら、徐々に親の責任割合を減らしていきます。思春期の子たちは、親3割、子ども7割ぐらいでもいいでしょう。
どうか、信頼していない前提、疑う前提で話さず、「何度でもあなたを信じて期待するよ」と子どもたちに伝えて欲しいのです。
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