2019/12/22
捜して救う神
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)
今、もしあなたが、肩書も財産も体力も見栄えのする容姿も失ったとしたら・・・それでもあなたを見捨てないで、あなたとともに歩みたいと言ってくれる人がいらっしゃるでしょうか。
私たちは見捨てられ不安をいつも抱えながら、人々から自分の価値を認められたいという承認欲求を抱きながら「いいね」の数を気にして歩んでいる者たちではないでしょうか。
さらに、私たちの心には人には見せられない暗闇が誰にでもあります。
私たちの闇までも知った上で、なお私たちを愛し受け入れてくれる存在があるでしょうか。
イエス・キリストこそ、まさにあなたのすべてを知り、あなたの付属品なしに「いいね」をくださるお方です。
神の愛から離れ孤独な自己愛に生きている者たちを、神は「失われた者」としてあわれみ、捜し出し救ってくださる愛のお方です。
そのために御子キリストが十字架にいのちをささげられました。
この神の永遠に変わらない無条件の愛こそが、真のクリスマス・プレゼントなのです。
むなしく消える物でなく、永遠の贈り物をぜひ受け取ってください。
2019/12/15
心を分かち合える友を得る
それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。(ルカ1:39-40)
未婚で男性を知らない処女が、神の聖霊によって救い主を妊娠した。
マリアの身に起こったこの出来事はあまりにも驚くべきことで、他の人々には理解されがたいものでした。
しかし、神はにわかには信じがたい奇跡を経験し、それを信じるに至っている親類のエリサベツを良き理解者として備えていました。
ですから、マリアはそれを知りエリサベツに急いで会いに行ったのです。
マリアは決して孤独ではありませんでした。
エリサベツは一切疑うことなく、マリアの身に起こったことを理解し受け入れ、むしろ幸いなことだとマリアを励ましてくれたのです。
誰にも理解してもらえない。そんな孤独が私たちを絶望させることがあります。
しかし、信仰生活は孤独な戦いではないのです。
ともに喜びともに悲しむ交わりによって歩むもの。分かち合い祈り合って歩むものなのです。
キリスト者の強さは個人の信仰の強さではありません。
私たちの弱さを知った上で導かれる主と、重荷を一緒に担う信仰の友たちの存在によって強くしていただけるのです。
神はそのような友をあなたに備えておられます。
あなた自身もまた、他の人にとって心を分かち合える友となっているか?問われるのではないでしょうか。どうか、私たちひとりひとりが、神が望まれる良き友となれるよう神の愛を学び、みことばをもって人と関わる者とならせていただきましょう。
2019/12/10
2019/12/08
なぜ、マリアは受け入れることができたのか?
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38)
まだ10代の若者、そして処女であったマリアにとって、それはあまりにも唐突な話でした。目の前に天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産む。名をイエスとつけよ」と言われます。
男性を知らないマリアにとって、ありえない話に思えたはずです。
しかも、その子はいと高き者、この地の支配者、その支配が終わることはないとまで言われるのですから、信じがたい話です。
けれども、彼女は自分の心の「ありえない」という声にではなく、天使が告げた神のことばに耳を傾けました。
「親類のエリサベツを見なさい」とのことばに、神の優しさを感じます。
エリサベツは不妊症かつ高齢でした。
二重の意味で妊娠が不可能と思えました。
しかし、事実妊娠6か月目を迎えていたのです。
神がすでに奇跡を身近でなさり「神には不可能なことはない」という宣言が確かな根拠の中で語られていると気づくのです。
信仰生活とは、一人ぼっちで自分の信仰で何でも乗り越えていくものではありません。
マリアがエリサベツ夫妻に起こった奇跡によって励まされたように、私たちも自分が信じきれない時、弱さを覚える時に、周りで信仰をもって歩んでいる兄姉の姿にどれほど励まされることでしょうか。
人の常識の檻から出て、神のみわざの確かさに立つ時、「おことばどおり、この身になりますように」と信じて歩む者とされ、大いなる恵みを受けるのです。
2019/12/01
ベツレヘムという町
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりに小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ5:2)
キリストが生まれた地はベツレヘム(名前の意味は「パンの家」)という小さな町でした。
エフラテと付けてあるのは、当時「ベツレヘム」という地名が他にもあったので区別するためでした。
どこにでもありそうな小さな町ベツレヘムで、救い主がお生まれになるという不思議。
それは神が昔から定めておられたご計画でありました。
人の予想、人間的な期待を見事に裏切るような神の深いご計画がそこにあったのです。
多くの人は聖なる都エルサレムこそメシヤが生まれるのにふさわしいと考えたでしょう。他にももっと大きな都市が選ばれてしかるべきだと考えたことでしょう。
しかし、この救い主は小さな取りに足りない者にさえ目を留め、救ってくださるお方です。
お金持ちや地位の高い者だけでなく、小さな弱い者にさえ栄誉をくださるすべての人の主です。そして、このあまりにも小さな町だったベツレヘムですが、救い主が出た町として大きな栄誉を受けました。
それはキリストを心に持つに至った者の人生を象徴しているのです。
小さい者、弱い者、取るに足りない者と思うならば、ぜひこのキリストを知ったゆえに、神の前にもはや小さな者ではないことを覚えましょう。
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