*** 7/30(日)主日礼拝 説教概略 ***
第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」
今日のテーマは「とどまる」ということですが、残念ながら我が家のベランダの鳩は、とどまることなく、つい昨日、巣立っていきました。約2か月、我が家のベランダで同じ屋根の下暮らしてきましたので、少しさみしい気もします。
さて「とどまる」ってどういうことなのでしょうか。「とどまる」とは、「同じところに居続ける」という事です。
今日のテーマは「とどまる」ということですが、残念ながら我が家のベランダの鳩は、とどまることなく、つい昨日、巣立っていきました。約2か月、我が家のベランダで同じ屋根の下暮らしてきましたので、少しさみしい気もします。
さて「とどまる」ってどういうことなのでしょうか。「とどまる」とは、「同じところに居続ける」という事です。
子どもの頃の話になりますが、イエス・キリストとは、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っていたことがありました。しかし、実は、聖書の時代のユダヤ人たちは、基本的に苗字というものがないのですよね。ですから「だれだれの子」と親の名前で区別したり、「マグダラのマリア」のように地名を入れたり、あるいは「大工のヨセフ」のように職業で区別したりしていました。実はイエスという名も一般的な名前なので、ナザレに住んでいたことから「ナザレのイエス」と呼ばれました。
ある方が、どうしてプロテスタントの教会では、「イエス様の肖像画や像に向かってお祈りをしないのか」と疑問に持っておられました。イエス様の絵に向かってお祈りすると心が落ち着くのだと。もちろん、私も礼拝堂の十字架を前にしてひざまずいて祈ることもありますし、絵を見て祈ってはいけないということはないでしょう。