東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/05/06

マタイの福音書11章28~30節「安息日の主から学ぶ安息」

*** 5/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

 この秋に私たちの教会では、星野富弘さんのアート展を開催予定です。それが決まった矢先に召天の報がありました。星野さんは若い頃に大きなケガで両手足の自由を失いましたが、それを通して救いに導かれました。そして口に筆をくわえて詩と絵を描き続けた生涯です。一昨日葬儀が行われました。昨年度私たちの教会で奉仕していた阿部神学生が、今年度遣わされている教会での葬儀でした。個人的には何かとお世話になった恩師の内田先生が司式をされ、本日の聖書箇所と同じみことばが語られていたので驚きつつ、神様の不思議な導きを感じています。

2024/05/01

マタイ18章21-35節 「赦された者の一歩」

*** 5/1(水)祈祷会 説教概略 ***

 マタイ18章では小さい者を軽んじないことや、自分に罪を犯した者と和解して友となることを教えています。そして、二人でも三人でも信仰の仲間と祈る大切さも教えられています。私の時代に神学校の校長であった舟木信先生がこんなことをおっしゃっていたとある方から伺いました。「教会はイキイキしていて、問題があるところ」だと。面白い表現です。主にあってイキイキしている。しかし同時に「赦された罪人」の集まりなので、問題だらけ。もしかしたら、イキイキと豊かに活動しているからこそ、様々な衝突や問題さえも起こりやすい場所なのかも知れません(そこに主が働かれる!)。


毎日の聖書【5月分】


1日 出エジプト記8章
 続いて神がエジプトに与えた災いは、蛙まみれにすることだ。寝台、かまど、こね鉢に至るまで蛙だらけだ(2-3)。さすがファラオもこれには困ったようだ。蛙を生み出すまねごとを呪法師にさせたのだが(7)、何の益にもならなかった。張り合ったところで環境はより悪くなるだけであった。何より、エジプトの呪法師は災いをもたらすマネはできても、それを取り除き、救いをもたらすことは何もできなかったのである。力がある者であっても、破壊や破滅は簡単にもたらせるだろうが、救いをもたらすことは難しい。それをなされるのは、救い主なる神だけである。ここでは、やむなく、蛙を除くように「に祈れ」とモーセとアロンに頼むよりほかなかった(8)。私たちはその罪によって人を傷つけたり、破滅させることはできるだろう。このことばで、この態度で。でも人を救う力を持たない罪深い者であることを覚え、いつでも主に祈る者でありたい。

2024/04/25

ローマ書6章15-23節「神からの賜物、永遠のいのち」

*** 4/24(水)祈祷会 説教概略 ***

14節で「恵みの下(もと)にある」と語られていました。もはや、罪や死の奴隷ではないし、律法の下に置かれているのでもありません。そうなると、何をしても罰せられない。ならば、「もう自分を支配する存在はない、自由に罪に生きよう」となるのでしょうか。

パウロは15節で「決してそんなことはありません」と明言しています。そして、パウロが言わんとしていることは、「仕える相手が変わった」のであって、「仕える相手がなくなった」のではないということです。

2024/04/23

伝道者の書7章21-22節「本当に大切なことば」

*** 4/21(日)主日礼拝 説教概略 ***

 ある時の修養会で、講師にこのような質問がありました(少し変えています)。
「不当に傷つけられることがあった。それをいつまでも根に持たずに赦すためにはどうすればいいでしょうか」と。きっとこの事で悩んで来られたのでしょう。ただ、その答えは興味深いものでした。実は「不当に傷つけられているのに、少しも根に持たずに赦す人になること」が、理想のクリスチャン像ならば、そもそも「ゴール自体が違っているのではないか」とのお答えでした。何を言われ、何をされても平気で、全部赦せる人がいたら、その人は心のないロボットのような人になってしまう。その人は、他の人の痛みに共感できないでしょうと。

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