東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2019/07/17

心のケアと人間関係  ~神の領域を受け入れる~


伝道者の書 713-14

神のみわざに目を留めよ。
神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること。
それは後の事を人にわからせないためである。

 

ラインホールド・ニーバーという人の祈りは参考になります。


「主よ、変えられないものは、それを受け入れる心の静けさを、

 変えられるものを変える勇気を、その両者を見分ける知恵を私に与えてください。」

  この祈りをいつも心に持っておきたいものです。



「2:6:2の法則」

アリ社会の分析。
 
2割しか働きアリはいないそうです。
6割が邪魔もせずフラフラ。
残りの2割はむしろ反対方向に行ったり、邪魔をしている。
 
でも、このバランスが一番うまくいくし、自然にそうなる傾向がある。 
 
会社において、優秀な精鋭だけを集めていたらどうもうまくいかなかった。
そこであるコンサルタントはこうアドバイスしました。
 
「あまり仕事ができない人を少し入れてみなさい。」
 
すると、なぜか一体感が出てみるみる会社がうまくいくようになったと言います。
 
どんな組織でも、積極的に賛成してやっていこうとする人が2割いたら、6割ぐらいはどっちでもいいよという人。
残り2割はそれに反対する人。
 
つまり、基本的には全員が同じ意見で同じ温度で積極的になるということはあり得ない
 
ということです。

 
もし、10人の集まりがあって、あなたと意見が合う人が1~2名いたとします。
 
その場合、必ずあなたとは合わない人が最低2人はいると思った方がいいのです
 
あなたを褒めてくれる人が2人いれば、
あなたを少しも褒めずむしろけなす人が2人います。
 
勝手に、自分ならもっと褒める人を増やせると思っていると失敗してしまうのです。案外ほめてくれた人が、裏で悪口を言っているということもあるものです。その時にショックを受けるのは、ほめてくれる人が自分にはいっぱいいると勘違いしているだけではないでしょうか。
 
最初から2割は悪口言うんだから、「この人はその中の一人だっただけ」と思えばいいんのです。

 
 逆にこれが社会というものです。それを知っていると、無理に自分の側に引き込む必要もなければ、全員をやる気のある人にする必要もないとわかります。

 むしろそれをやるとうまくいかないという結果さえ出ています。


 環境を変えようとし過ぎるので挫折をします。

 他人を変えようとするから疲れ果てます。

 堅い鉄の棒を力で曲げようとするから・・・できずに失望するのです。

 
 すべての人から好かれる人はいません!
 
 必ず好いてもらえない人が存在するのです
 
 少なくとも2割は絶対いる!
 
 それを減らそうと思わない方がいい。そういう人がいることが必要
 
神様がそういう人の存在を置いているのだと受け入れることにしましょう。
 
その人たちにとっても、あなたが必要なのです。
 
反対意見を持つ人、自分とはソリが合わない人がいることで、そこから様々なメッセージを受け、人は成長するのですから。
 
これでバランスが取れるということをむしろ受け止めたいものです。

もし、みんなをまとめる必要があると感じたら、不満や不安を持つ人に対しても、「そういう意見もあるのですね!」と受け入れていくことから始めましょう。
 
排除すればうまくいくという考えはとても危険で、かえってうまくいきません。

 

じゃあ、変えることのできるものは何でしょう?

あなた自身は変われるし、変えられていくことは大切なのです。


「神のみわざに目を留めよ」とあるように、盲目な人間の目で、歪んだ偏った知識で、すべてがわかると思わないことです。

人間の知恵や努力ではどうにも及ばない神の領域があることを知り、受け入れていくこと。引き受けていくこと
 
これはできるのです。

 

 イエス様は素晴らしい人格のお方でした。愛にあふれ、知恵があり、やさしく、真理を知っているお方。だからファンもいっぱいいました。でも、反対にイエス様は多くの敵がいました。憎まれ、妬まれました。12人選んだ弟子の中でさえ、裏切り者が出ました。どんなに優しく、深い愛で包んでも、裏切る人は裏切るのです。うまくいかないことがあるのです。
 
イエス様でさえ、彼を引き止められなかった。ならば、私たちが人間関係で失敗したり、嫌われたり、裏切られることがあるのは当たり前なのです。

 イエス様はご自分の身に起こることを、否定したり拒んだりせず、それを自ら引き受けて歩まれました

 

 「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが書かれた本で、2012年のベストセラー第二位でした。

花は自分で歩いて咲きたい場所を選ぶことができませんね。
だから、それを引き受け、置かれた場所で精いっぱいきれいな花を咲かせることに集中しています。

渡辺さんはこの書の中でこう記しています。
「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神があなたをお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」 

私たちが置かれた所は時には非常に困難で「こんなはずではなかった」と思える場所かも知れません。でも、今置かれている所に神のご計画があることを信じて、そこで精一杯自分らしい花を咲かせるならば、自分らしく平安をもって過ごせるでしょう。神様は間違えて違う場所にお植えになる方ではないからです。


※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。

 

2019/07/14

お金では入れない天の御国



アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれか死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31


 主イエスは、金銭を愛するパリサイ人にたとえ話をなさいました。
 ここでは死んだ二人の人の異なる末路があります。金持ちは好き放題して暮らしていましたが、神を信じず苦しみの場「よみ(ハデス)」に導かれました。
 お金は天国への切符になりません。
 一方、貧乏人ラザロは生前苦しんでいましたが、神を信じて神のみもと「パラダイス」へ導かれました。金持ちはあまりに苦しいので、ラザロに助けを求め、生きている家族に「ここには決して来るな」と伝えに行ってくれと願います。
 ところが、それは無理なことです。
 さらに、神のことば聖書が与えられ、キリストのことを聞いても信じない人には、死者がよみがえって伝えに行っても信じないと語られます。その通りと思います。
 聖書以上の書はこの世界にありません。すべて書かれているのに、それを信じないならば、「私は死後の世界を知っています。伝えましょう!」という人が現れたとして、誰が信じるのでしょうか。

 お金では天の御国には行けません。神の救い主、イエス・キリストを受け入れましょう!
(2019年7月14日 週報掲載)

2019/07/09

子育て「時には嫌われても・・・」


 近年は「友達親子」という感覚が増えているように思われます。
 
 もちろん、そのような親しい距離感は悪いわけではなく、むしろ良い面が多いと言えるかと思います。仲良くコミュニケーションできるということ自体は良いことです。
 ただし、ここに大きな問題があることを社会も今気づき始めています。

20191月のNHK「けさのクローズアップ」にて・・・

2019/07/07

祭司の役目


 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる(出エジプト29:44

 出エジプト記2829章では、レビ族出身のアロンとその子らを祭司として仕えさせるための必要な備えが記されています。彼らが着るエポデには12部族の名が刻まれ、装着される胸当てには12の宝石(12部族を示す宝石)が埋め込まれています。この12の石はイスラエルの全12部族を現し、祭司が彼らを代表して神の前に出ていくことが意図されています。
 祭司は神に仕える者として、罪人の代表として立てられました
 聖い特別な人ということではなく、むしろ民の代表として罪の赦しを神に求めて祭儀を執り行い、民のためにとりなし(仲介し)、神のあわれみと助けを祈り求める存在なのです。それはこの民が「わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる(46)ためです。つまり、祭司は人々を神に近づけるための仲介役として立てられるのです。そして天に仕える真の大祭司キリストが来られた時、罪はことごとく赦され、信じる者すべてが大祭司キリストを通して神との交わりの座に回復することができたのです。なんという恵みでしょう!
(2019年7月7日 週報掲載)

2019/06/30

神の前に尊いものを尊ぶ


イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ16:15

 この世の人々が必死に追い求めているものは、富、名声、権力ではないでしょうか。しかし、神はこれらを愛することを嫌われます。なぜなら、これらは人が自分を誇るためのものであり、やがて朽ちていくものだからです。当時の旧約律法主義者なるパリサイ派の人々は、神を尊んでいるように自分を見せて、信仰的に正しい者であると主張していました。

 しかし、その中身を知るキリストは、「神はあなたがたの心をご存知」だと鋭く言われました。
 彼らはまさにこの世と同じものを求め、そこに身を置くことを喜びとしていたのです。それは偽善でした。本当に尊いものは、神ご自身が教えておられます。信仰、希望、愛、誠実さ、忠実さ、謙遜さ、勇気・・・どれも目に見えないけれど大切なものです。
 私たちは、神が尊いと言われるものを求めましょう。「求めなさい、そうすれば与えられます」とあるように、主が「求めよ」と言われるものを求めるならば、豊かにお与えくださることは明白です。真に尊いものを心から大切にしましょう。
(2019年6月30日 週報掲載)

2019/06/24

造り主を知り、安心して生きる


マタイ11:28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
現代人は常に疲れていると言えます。心も体もです。
 
当教会の集い「ほっとカフェ」は、そうした心身の疲れから少しでも解放される時となることを願うものです。
 
でも、それで終わりであって欲しくありません。
一時的に楽になっても、またしんどくなりますよね?
 

2019/06/23

神の臨在に触れ続ける


彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む(出エジ25:8

エジプトを出たイスラエルの民に対し、神は礼拝すべき場を備えてくださいました聖所を造らせ、祭司たちに仕えさせ、神へのささげものをし、絶え間なき神礼拝の恵みを与えてくださったのです。

それらは目に見えない神との交わりを可視的に知る恵みの場とされたのです。

神の契約の箱こそは、神の臨在そのものを現しました。
聖所を仕切る垂れ幕は神の聖さを人に理解させ、香壇からささげる香は神へのかぐわしい祈りと賛美、臨在のパンは日々の恵みへの感謝、そして神によってのみ人が生かされることを覚えるものでした。

燭台の灯は夜から朝まで燃やされ、闇を照らす光なるキリスト、またその油は聖霊を示すものでしょう。

この幕屋を中心として神の民は生活し、神の臨在に触れ続ける歩みとなりました。
まさに「わたしは彼らのただ中に住む」とのおことば通りです。

しかし、キリストが来られた時、これらは不要となりました。それは、これらが示したすべてがキリストに現され、完成したからです。私たちにはイエス・キリストがおられるので目に見える幕屋はもはや不要です。キリストから目を離さずに歩みましょう。

(2019年6月23日 週報掲載)
 
 


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