東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/09/01

毎日の聖書【9月分】


1日 レビ記8章
 祭司の任職式について語られている。祭司の任職は時間をかけて、丁寧に行われている。その厳粛な式は、彼らに自覚を促し、聖別され、神に仕えることの尊さを覚えさせるのに十分であったと思われる。22節で、雄羊の頭に手を置いて罪の告白をしたのであろう。いつでも、献身者は神の前に自身の罪を告白し、身代わりの犠牲を前にして悔い改める必要があった。さらに、23節では、その血が「右の耳たぶ」、「右手の親指」、「右足の親指」に塗られた。右は、聖書ではより重要であることを示す。神の前にそれらを聖められる必要があった。耳は、神の御声を聴くために聖別するということであろう。指は祭司のなす、すべての奉仕について聖別されることであろう。また、足の指は、その「歩み」が聖別されることであろう。私たちはキリストの血潮によって、御声を聴く耳を、奉仕するその手を、そのすべての歩みを、贖われ、聖別された者として歩んでいきたいのだ!

2日 レビ記8章
33節 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入り口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。
 祭司の任職式が七日間に渡ってなされ、しかもその間中、一度も天幕の外に出て行ってはいけなかった。それは、祭司がいかなる世俗的なものからも完全に離れ、ひたすら主の前に整えられるためであった。そして、毎日同じように、教えられたとおりのことを繰り返す必要があったのだ。それはなぜだろうか。35節では、「死ぬことがないように」するためであると語られている。そこに、祭司の務めの厳粛さを思わされる。神のすぐ目の前で奉仕する祭司が、「神を侮る」ということは、民全体をそのような道に誘う危険があったのである。祭司に求められることは、大胆さや自分の主張ではない。また、貫禄や経験値でもない。主のおことば通りに繰り返し行う忠実さであった。私には何もないと思うならば、忠実さを大事にしたらいい。それは、多才であることよりも、主に喜ばれることである。

2024/08/19

第三ヨハネ9-12節「悪に流されないで、神の善に生きる」

*** 8/18(日)主日礼拝 説教概略 ***

 すべき正しいことができず、すべきでないことをして後悔してしまう。 それが人間の弱さであり、罪の性質であると聖書は言います。特に私たちは流されやすいものです。同調圧力に屈してしまったり、「NO」と言う勇気がなったりする。ただ、私たちの心は、本当に願っていることと違うことをし続けると、つまり、自分の心にウソをつき続けると、心が深く傷つくのです。

2024/08/16

ローマ9章19-24節「怒りの器があわれみの器へ」

*** 8/14(水)祈祷会 説教概略 ***

 陶器作りをする際、粘土は時間が経つほどに、また乾燥するほどに硬くなっていくそうです。その粘土をやわらかくする方法として、水分を含ませるほか、平らたくして、そこにヘラで網目状に無数の切れ込みを入れるそうです。ただし、平らにできないほど硬くなってしまっている場合は、ハンマーで粉々にして、その上で長時間水に浸すようです。

2024/08/12

伝道者の書9章11-18節「時と機会を活かす知恵」

*** 8/11(日)主日礼拝 説教概略 ***

 オリンピックの実況で「まさか!?」ということばを頻繁に耳にします。予想外の結果が訪れることがなんと多いことかと思わされるのです。「メダル確実」なんてことばは、覆されるためにあるのではないかと思うほどです。参加する以上は、参加するすべての人にその可能性があるわけです。実績があるから確実だとも、能力がずば抜けているから必ず!とも言えない。それが、私たち人間です。


2024/08/08

ローマ9章6-18節「主のみこころに期待して」

*** 8/7(水)祈祷会 説教概略 ***

わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。(15節)

 このことばを、私たち人間が言うと、なんだか自分勝手で横柄な感じさえします。ただ、愛と真実に満ちた神様がおっしゃる時、印象がガラリと変わります。どんな圧力にも屈せず、流されたりすることもなく、神様がふさわしい時に、最善をなさる。みこころのままに。この神様がくださったみことばに、日々信頼して歩んでいくことを教えられます。


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