東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 9月 2019

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

最新情報

【☆最新情報☆】What’s New!!
☆10/29 イベントページを更新。「初めての方へ」ページを開設!

2019/09/29

聖書を知っていれば大丈夫 ~終わりの日への備え~



人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。(ルカ17:23-24) 

 キリストの再臨についてはイエス自身が語っているみことばによって正確に知っておくことが大切です。世の終わりに近づくにつれて、キリストを名乗る人が多く現れ、人々を惑わそうとすると書かれています。

あそこだ、ここだと騒ぎ立てること自体、偽者の証拠であると言えます。

ここにあるように、人の子の日、すなわちキリスト再臨の日には、稲妻がひらめき天の端から端まで光るのと同じようにして来られるのです。

それは、どの地域に住んでいようと、誰でもわかるほど明確なしるしなのです。

このように、終わりの日に備える最良の方法は、イエス・キリストご自身のことばをよく心に刻んでおくことです。

世の終わりに関する聖書のみことばを知っていれば、焦ったり動揺したりする必要がありません。

語られている通りのことが、その通りに起こるだけのことです。

神を心から信じて、心を騒がせることなく、聖書のことばがひとつひとつ実現していくことを数えながら備えていきましょう。
(2019年9月29日 週報掲載)

2019/09/24

15分で学ぶ 預言者ヨナの人生 



B.C.8世紀頃の話。イスラエルにヨナという預言者がいました。神様は彼に北東にあるニネベの都に行き、神の救いを知らせよと命じました。ニネベの都に積み重ねられた悪行がひどく、神様が滅ぼされようとしているというわけです。
 
ところが、預言者ヨナはこれに逆らいました。
1:3 しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。

 「主の御顔を避けて」とあるように、神様のことばに向き合わず反発し、正反対の方向に逃亡しました。タルシシュというのはスペイン南部の町と考えられます。
 
何も反対に逃げなくても!と思います。
わざと反対方向に行こうとするところに彼の頑固さ、偏屈な性格が出ていますね。
 
 ところが、彼が船に乗るとその船は嵐にあいます。
船乗りたちは必死に自分たちの神に祈りました。ところが真の神の預言者ヨナは、異教徒が必死に祈っているにも関わらず、少しも祈らず眠りこけていました。

そして実はこの嵐はヨナのせいでした。ヨナが神様の御顔を避けて逃亡したからです。
神様はどこまでもヨナに関わろうとされました。
預言者は他にもいたでしょう。私が神様ならこんなヨナには任せません。
 
でも、神様は違います。
 
なぜ、素直で従順な預言者に乗り換えず、偏屈ワガママなヨナにこだわったのでしょう?
そこに神様の愛があるからです。誰を遣わせば効果的かではなく、ヨナという一人の人間を愛し、彼のために神様はこだわり、どこまでも関わっておられるのです。

ヨナは「自分を船から海に投げてくれ。そうしたら嵐は止む」と言います。仕方なくヨナを海に投げ込むと嵐は静まりました。嵐の海に投げ込まれたヨナは死の淵に立たされましたが、神が備えた大きな魚に飲まれ、ギリギリのところで救われました。1:17。
 
そして主が備えた魚に呑み込まれ、彼は33晩魚の腹の中に・・・2章はギリギリで救われたヨナによる神様への感謝の祈りがあります。ただそれは、心からの悔い改めを含むものではなかったと言えるでしょう。とりあえずいのちを救われた事には感謝している。でも、だからと言って素直に従う気もないといった感じでしょうか。 

やがて彼は、陸地に解き放たれます。そこで再び主のことばがありました!(3:2

 ヨナは観念します。
「言われた通りに、言えばいいんでしょ!」とやる気なくニネベの都で1日だけ宣教します。
 すると3:5のように人々が悔い改めて行きます。驚くべき事が起こりました。
 さらに6-9節。王様自ら!こんな大々的な悔い改め、なかなかお目にかかれない。
 不思議な出来事です。
 
 本来なら喜ばしい出来事だが、ヨナは不機嫌になってしまいました。
 
 4:1-3 ここでついにヨナが行きたくなかった本当の理由が明かされます。
 
 自分が憎むニネベの都の人々など滅んで欲しかったのです。
 
 神様があわれみ深く、寛大な方で、ひどい民でも心から悔い改めれば赦してしまうと知っていた。「だから行きたくなかった!」と言うのです。なんて自分勝手でしょうか。
 
 もう死んだ方がマシだとさえ彼は言いました。自分の怒りを正当化しています。
 
 
 話はもう少し続きます。
 
 焼けつくような暑さのニネベで、ヨナは仮小屋を造り、その後の様子を見守っていました。
 
 その後のことが気になったのでしょう。本当にこの都は助かるのか?それとも・・・
 
 そこに神様は1本のトウゴマの木を備えます。
 
 ヨナをおおうように生えさせ、ヨナの頭を覆い陰を造りました。涼しげな植物の存在を彼は非常に喜びました。
 
 しかし、その翌日には神様は1匹の虫を備え、そのトウゴマを枯らします。ヨナはまた、当然のように怒ります。死んだ方がマシだ!と。ヨナの自分勝手で短気な姿が描写されています。
 これに対して、神さまは「あなたは当然のように怒るのか」と問いかけます。
 
 私たちの怒りの正当化について考えられますね。
 
 主のことば10-11節!ここがクライマックスです

 10節では、神様はヨナの「非常に狭い偏った心、歪んだ価値観」を指摘しています。
あの「とうごま」はヨナが育てたのではなく、あくまでも神様が備えて下さったものでした。
ヨナは何もしていないのです。

 一方的に神様が恵みによって与えて下さった。しかし、必要に応じてそれを取るのは、神様が所有者だからです。私たちはそれを預かり管理させていただいているに過ぎませんよね。ヨナは何の労苦もせず、しかも一夜で生えたこの「とうごま」を惜しみ、神様に怒りをぶつけているのです。

この怒りが正当のはずがありません。
そして、このような「とうごま」さえも惜しむ心があるなら、わかるだろう。
・・・と神様は語りかけるのです。

主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」


ヨナはこの話を後世に残しました。この話は自分の「恥」でしょう。しかし、彼は恥を忍んでこれを伝えたかったのです。自分の都合ですぐに神様に怒り、自分の嫌いな者は滅んでいいと願う自己中心な姿。神様も深い愛と忍耐で自分も赦され、救っていただいた者なのに、その感謝を忘れ、謙遜さを失い、偏狭な心で世界を見ているヨナ。滑稽で、情けない姿です。

それをこうして記録し、私たちに残されていることは、ヨナがこの出来事を通して教えられ変えられたという証しのように思われます。ヨナ自身が執筆したかは不明ですが、少なくとも彼がこれらの出来事を誰かに伝えなければこうして残っていません。

私たちもヨナのようなひとりひとりです。
自分が育てもしていない何かのために、自分勝手に強く怒る者であります。
だから、わかるはずです。
神様がごじぶんが愛を込めて造られたニネベの人々や動植物が滅びるのを望まない心が。
その救いを望まない愛の無さには、怒りを覚えるのは当然の権利であるようにさえ思います。

この愛を知り、この愛に生きる者となりましょう。

2019/09/22

神の国を受け入れる


『見よ。ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21) 

神の国はいつ来るのか」とパリサイ派の人々はイエスに尋ねました。

彼らはその時、まさに目の前に神の国を目撃していました

それなのにこの問いをキリストに投げかけたのは、彼らの心の目が閉ざされていたからに他なりません。神の国の王はイエス・キリストご自身であり、キリストがこの地上に来られた目的は神の国に人々を招き入れるためでした。

キリストが悪霊を追い出し、病をいやし、人々を絶望から希望へと導かれている現実こそ、神の国が始まっているという事実そのものです(マタイ12:28)

「あなたがたのただ中にある」と言われたのは、神の御子が人の姿をとって、人の間に住むようになられた事実です。

パリサイ人たちが今見ている、取り囲んでいるキリストがそこにいることこそ神の国の到来であると知って欲しいからです。

子どものように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入れないと語られているように(マルコ10:15)、そこに見ている、聞いているだけで終わらず、心を開いて受け入れる者となりましょう。

神の国は一度入った者を決して見捨てない永遠の御国です。
(2019年9月22日 週報掲載)

2019/09/15

主が喜ばれる姿勢 ~心から進んで~


イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。(出エジプト35:29) 

ゆがんだ宗教観のゆえに、キリスト信仰もしばしば誤解されることがあります。

戒律を機械的に守ることが信仰生活であるかのような誤解です。

しかし、聖書はとても丁寧に、人の心の動きを描写しています。

この場面もそうですが、「心から進んで」ということばが強調されているのです。

少し前の21節でも「心を動かされた者、霊の促しを受けた者」と語られ、旧約時代の人々もまた、義務感や恐怖心で神に従ったのではなかったことがわかります。

むしろ、神のあわれみ深さに感動し、そのみおしえの素晴らしさに感銘を受け、そこにある真実と恵みに応答するようにして、心から喜んで神に仕え、献身したのです。

むしろ、私たちの心にある固定観念や決め付けが、こうした自発的な歩みを妨げています。

焦る必要はありません。まず神に祈り、神のみことばなる聖書をよく味わいましょう。

キリスト者と語り合いましょう。

その時、不思議とこんな自分でも何かを献げたい。何かをさせていただきたいとの思いが生まれてくるはずです。

(2019年9月15日 週報掲載)

2019/09/08

神をあがめる人生を歩もう


そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。(ルカの福音書17:15-16

 ツァラアトという難病をイエスに癒してもらった人々は10人。しかし、そのことで神をあがめ、ほめたたえながら戻って来てイエスに感謝した人は1人だけでした。

しばしば信仰というものを、願いを叶えてもらうための手段にしてしまってはいないでしょうか。

助けてもらいたい時には、今までにないほど必死に祈ります。

しかし、祈りが応えられるとごく短く感謝を済ませ、あっという間に忘れてしまうのです。

何のために癒してくださったのでしょうか。何のために助けてくださったのでしょうか。

私たちがその出来事を通して神のすばらしさを体験し、そのみわざの豊かさを人々に語り告げ、神の栄光を現すためではないでしょうか。

今まで以上に神に信頼し、神をあがめる人生を送るためではないでしょうか。皮肉にもこの時、神をあがめながら感謝しに帰って来たのは、選民ユダヤ人ではなく、彼らが嫌うサマリア人です。

神の前に喜ばれることは、生まれを誇ることではありません。

いただいた神の恵みに心から感謝し、神をあがめて生きていくことです。
(2019年9月8日 週報掲載)
 
 

2019/09/01

輝く日々 神とともに


それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。(出エジプト記34:29

 現代の世界情勢を見る時、闇が日に日に深まっていると感じます。しかし、神の光の中を歩むよう招かれているキリスト者ですら、希望を見失い暗い表情でギリギリ生きているという人が少なくないように思えます。悪魔はそれを見てほくそ笑んでいることでしょう。

私たちは闇の中で色を失い、闇と同一化してはなりません。世の光として召されたキリスト者こそ、神の御顔の輝きを世に現すひとりひとりでなければなりません。

けれどもそれは、人の血肉の努力によるものではなく、キリストの御霊によることです。

モーセが神の前に時間をささげ、4040夜ともに過ごしたゆえに、その顔が神の栄光の輝きを帯びていたのです。

私たちもまた神の御顔の輝きを求め、御霊によって主と親しく歩ませていただきましょう!

神との時間をどれだけ大切に過ごしているか。

それが私たちの輝きそのものであると知りましょう。闇に長く身をおけば闇に染まりますが、神の御顔の光の中を歩めば、あなたにその輝きが与えられていくのです。

「主から豊かに受け、人に豊かに与えていく」

これこそ、キリスト者の信仰生活の神髄ではないでしょうか?
(2019年9月1日 週報掲載)

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *

注目の記事

心のケアと人間関係「承認欲求を健全な方法で満たすには?」

 「承認欲求」 ということばを聞いたことがあるでしょうか?    人から認められたい、受け入れられたいという欲求です。  具体的な例としては、頑張っていることを認めてもらいたいとか、同世代の友人からすごいね!と言われたいとか。そして若い人たちであれば、SNSでの返事や「いいね」な...