成功し、有頂天になっているときほど危ない時はありません。成功につける薬はないという言葉もありますように、成功の後には「思いあがる」という誘惑が待っています。みことばから、そのような思い上がりから守られる道を教えられてまいります。
2020/06/03
2020/06/01
2020/05/27
Ⅱコリント5章1~12節「新しい生活(新しい人生)」
*** 5/27(水)祈祷会説教概略 ***
昨日、緊急事態宣言が解除となりました。もちろん解除されたからと言って、普段通りの生活とはなりませんので、まだまだ神経を遣う日々ですね。その中で最近耳にする言葉が「新しい生活様式」を取り入れましょうという事でした。少なくともワクチンが開発されるまではということなのでしょうか。今までとは発想を変えてという事かも知れません。個人的にはあまり新鮮さは感じませんでしたが・・・
2020/05/25
エゼキエル書18章21-32節「立ち返って、生きよ」
*** 5/24(日)礼拝説教概略 ***
最近、教会の敷地の雑草が少し気になり始めまして、近いうちに少し抜いておこうかなと思っていたのですが、ふと気づいたら抜かれてキレイになっていました。このような時でありますが、そうしたところに心を割いて、仕えておられる方がいらっしゃるのだなと感謝な思いでおりました。
最近、教会の敷地の雑草が少し気になり始めまして、近いうちに少し抜いておこうかなと思っていたのですが、ふと気づいたら抜かれてキレイになっていました。このような時でありますが、そうしたところに心を割いて、仕えておられる方がいらっしゃるのだなと感謝な思いでおりました。
もちろん雑草だけではなくて、お花も咲いていまして、教会の花壇が彩られています。見るたびに嬉しくなります。また教会堂1階の多目的ホールには去年いただいた胡蝶蘭があります。しかし枯れてしまって、今年も咲かせるというのは難しいかな?と思っていたのですが、最近になって蕾が花開きました。そして今は3つ蕾が花を開かせています。いのちの力を感じます。
2020/05/20
Ⅱサムエル記 4章1~12節「主を知ること」
*** 5/20(水)祈祷会説教概略 ***
Ⅱサムエル記4章1節~12節「主を知ること」
1節 サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。
2020/05/17
2020/05/14
子育て 「怒りではなく懲らしめ(叱ること)」
「怒りではなく懲らしめ」
「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」(箴言3:11-12)
自粛生活が長くなると、一日中子どもたちが家にいてお母さんたちが一人になれる時間がないという課題があったり、また働くお母さんとしては家にお子さん一人でずっといることが心配であったり、学校給食がないので食事の用意の大変さがあったり・・・
とにかく普段とは異なるストレス、イライラが起こりがちです。
そんな時に神様のみことばに耳を傾け、教えられるならば少し違った視野が開かれ、落ち着きが与えられます。
ここでは「懲らしめ」「叱責」「叱る」という3つのことばで、神様が人を教え導かれることを教えています。
その目的は成長してより良い者になることです。
人には本能的に「良くなりたい」という願いがあります。
少しでも成長して、ちょっとでも良くなると私たちは嬉しいですよね。
その良くなるために主なる神さまの愛から出ている「懲らしめ」や「お叱り」を受け入れなさいと言われているのです。
実に教え導く者こそ、神様から謙虚に教えていただく者になることが成長の第一歩です。まず自分自身が、人生の手引書である聖書から、私たちも子どもたちも造られた神様から教えを受ける者になることこそ、Good Mom、Good Dadへの近道です。
それと同時に、このみことばは私たちが親の立場であると考えた時に、一つの良い模範なのです。私たちは子どもたちを注意する時にどうしているのでしょうか?
皆さんに考えていただきたいのは、「懲らしめ」や「叱る」ことと「怒る」こととはどう違うのか?ということです。
「怒る」というのはより感情的です。悪に対する正義の怒りは聖書も認めており、必要なものと教えています。でも、そうでない怒りがありますよね?
自粛生活でイライラする。ストレスをためていて。相手の行動が気に入らなくてイライラ。感情で怒りをぶつけることは指導とは言わないのです。
それは「自分のため」だからです。
ちなみに「懲らしめ」というのは、ネガティブなイメージがあるかも知れませんが、その意味は「悪い事をした人に罰を与える等して二度とそうしないようこらしめる」ということです。ですから、悪くないのに自分がイライラして感情をぶつけてしまうのは懲らしめではないわけですよね。また、不適切なほど怒ってしまうこともそうでしょう。
最初に学びましたように、懲らしめ・叱責の目的=その子が良くなることです。
子どもたちのしつけのために神様から教えられているのは、愛をもって落ち着いて「懲らしめること」「叱ること」なのであって、怒りをぶつけることではないということ。
「いとしい子」「愛する者」とみことばにあるように、感情ではなく愛によってなすのです。
昨日の祈祷会メッセージでも、感情を「悪魔のしもべ」にしてはダメですよ~というお話をしました。感情も神様がくださっている良いもの。だからこそ、罪の道具、悪のしもべにしちゃいけない。
だからこそ怒りを上手におさめて、愛の心で叱り指導するということに心を留めましょう。祈ってから叱るという習慣がつくと良いかもしれません。
私もよくしくじっています。
感情的になってキレても、相手には「怖かった」という記憶だけが残り、中身が残らないということがあります。逆に、怒りが現れているにしても、きちんと相手を心から思い、愛するゆえの情緒であるならば、それは相手に良いメッセージとして伝わります。本気で自分を心配して叱ってくれているんだなというのは、その時は受け止められなくても、少し冷静になった時に心の深いところに残っているものです。
自分のために「怒る」のではなく
子を愛して「叱る」を大事にしましょう。
※他の「子育て」についての記事はコチラへ
登録:
投稿 (Atom)