東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 6月 2019

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2019/06/30

神の前に尊いものを尊ぶ


イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ16:15

 この世の人々が必死に追い求めているものは、富、名声、権力ではないでしょうか。しかし、神はこれらを愛することを嫌われます。なぜなら、これらは人が自分を誇るためのものであり、やがて朽ちていくものだからです。当時の旧約律法主義者なるパリサイ派の人々は、神を尊んでいるように自分を見せて、信仰的に正しい者であると主張していました。

 しかし、その中身を知るキリストは、「神はあなたがたの心をご存知」だと鋭く言われました。
 彼らはまさにこの世と同じものを求め、そこに身を置くことを喜びとしていたのです。それは偽善でした。本当に尊いものは、神ご自身が教えておられます。信仰、希望、愛、誠実さ、忠実さ、謙遜さ、勇気・・・どれも目に見えないけれど大切なものです。
 私たちは、神が尊いと言われるものを求めましょう。「求めなさい、そうすれば与えられます」とあるように、主が「求めよ」と言われるものを求めるならば、豊かにお与えくださることは明白です。真に尊いものを心から大切にしましょう。
(2019年6月30日 週報掲載)

2019/06/24

造り主を知り、安心して生きる


マタイ11:28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
現代人は常に疲れていると言えます。心も体もです。
 
当教会の集い「ほっとカフェ」は、そうした心身の疲れから少しでも解放される時となることを願うものです。
 
でも、それで終わりであって欲しくありません。
一時的に楽になっても、またしんどくなりますよね?
 
ですから、ここだけで、「終わらない安らぎ」「いつまでも残る平安」を得て欲しいというのが私の願いです。それは私たちの造り主である方がよくご存知で、私たちにいつまでも続く平安を得て欲しいと願っています。「平安」とはヘブル語で「シャローム」。神様との健全な良い交わりがある状態です。
 
雛が親鳥の翼のもとでいつでも安心していられるように、私たちの造り主、愛の神様の腕に抱かれて歩む日々は最も安心なのです。造り主をいつも覚えること以上に安心な日々はありません。
 
マタ6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようか、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。  
 
私たちのこの命はどこから来たのでしょうか。
私たちは誰も命を生み出すことはできません。
命は神様からの賜物、プレゼントです。
 
その命をくださった神様は、その命を健全に保つことを望んでいないということがあるでしょうか?
 
神様はこの世界で最も矛盾を嫌うお方です。常に一貫しており、秩序立っており、論理的です。ですから、命を与えておきながら、その命を人が保てないようにすることなどあり得ないのです。
 
むしろ、人がその命を豊かに保てることを願い、そのために必要なものをすべて与えてくださるのです。それを知っているのならば、多くの心配は不要だと知るのです。
 
ですから、26節にあるように、「空の鳥を見なさい」とイエス様は語りかけられました。

 
マタイ6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
 
この世界を見る時に神の御手を発見できますよ!というのです。
空の鳥は、農業をしていますか?倉に納めて管理していますか?鳥保険に入っていますか?していません。
 
でも、心配しないで今ある命を精一杯生きています。それは、天のお父さんが養ってくださっているからです。鳥たちの方が、造り主によって養われていることを本能的にわかっているのかも知れません。
 
人はそれを見て知ることができるのだとイエス様は「空の鳥を見なさい」と教えられたのです。
 
そして、イエス様ははっきりと、この鳥たちよりも「神の目にあなたがたは価値ある者とされている」と言われたのです。
なぜ、そう言えるのでしょう?
根拠は何でしょうか? 
 
ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく、死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 
 
これ以上の根拠はありません。
一番大切な神の御子を、約2000年前のクリスマスにお与えになったのですから!神様は矛盾することをしません。御子を与える犠牲を払っておきながら、人間をないがしろにするはずがないのです。御子を与えるほどの愛があるのですから、人にそれ以外のあらゆる恵みをくださらないはずがありません。
 
この造り主を知る時、私たちは「神にゆだねて安心して生きる」ということを知るのです。

2019/06/23

神の臨在に触れ続ける


彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む(出エジ25:8

エジプトを出たイスラエルの民に対し、神は礼拝すべき場を備えてくださいました聖所を造らせ、祭司たちに仕えさせ、神へのささげものをし、絶え間なき神礼拝の恵みを与えてくださったのです。

それらは目に見えない神との交わりを可視的に知る恵みの場とされたのです。

神の契約の箱こそは、神の臨在そのものを現しました。
聖所を仕切る垂れ幕は神の聖さを人に理解させ、香壇からささげる香は神へのかぐわしい祈りと賛美、臨在のパンは日々の恵みへの感謝、そして神によってのみ人が生かされることを覚えるものでした。

燭台の灯は夜から朝まで燃やされ、闇を照らす光なるキリスト、またその油は聖霊を示すものでしょう。

この幕屋を中心として神の民は生活し、神の臨在に触れ続ける歩みとなりました。
まさに「わたしは彼らのただ中に住む」とのおことば通りです。

しかし、キリストが来られた時、これらは不要となりました。それは、これらが示したすべてがキリストに現され、完成したからです。私たちにはイエス・キリストがおられるので目に見える幕屋はもはや不要です。キリストから目を離さずに歩みましょう。

(2019年6月23日 週報掲載)
 
 


2019/06/18

教会の美しい姿


 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38
 
 ペンテコステの時、聖霊に満たされた使徒たちは人々に福音を語りました。その内容は「あなたがたが十字架につけたナザレ人イエスこそ、神の約束の救い主キリストである。」というものでした。
 これを聞いた人々は心が刺され、どうしたら良いのかと質問したのです。その答えがこの38節です。

 悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいというものでした。こうして救われ、キリストの名のもとに洗礼を受けた者たちには聖霊が注がれ、その交わりはみことばと祈りを大切にし、互いに重荷を負い合い、恵みを分かち合うものとなりました。

 その姿は見ていた民から好意を持たれる良いものでした。この恵みと真実に満ちた交わりによって、神の臨在を美しく現すことができたのです。こうしてキリストを信じて救われる人々が加えられたのです。教会は建物自体ではなく、その中で持たれる「愛の交わり」にこそ本質があります。

 教会に行った時に、信徒たちの姿、交わりを見れば、その教会の本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。「誰がやってくれるのか?」ではなく「みんなで一緒にやる」それが教会のあるべき姿です。
(2019年6月16日 週報掲載)

2019/06/11

子育て「わが子に対する読解力」



ウガンダの赤ちゃんは基本的にオムツをしないそうです。
それなのに排泄物であちこちを汚すということがあまりないと言う。
 
なぜでしょうか? お母さんが赤ちゃんのサインを読み取って、トイレでさせてあげるからだそうです。ウガンダだけでなくオムツをさせない国、民族は結構あるとのこと
 
西洋の学者さんが「なぜわかるのか?」と尋ねると、「逆になぜ、あなたがたは分からないのか」と質問を返されたと言います(『子どものサインが読めますか』汐見稔幸著より)。
 
先進国では、忙しさと便利さによって、母親が子の求めを読み取る力を失っているのかも知れません
 
赤ちゃんの頃はまだ分かりやすいので、日本人のお母さんでも同じ環境ならば、できるようになるとも思います。
ただ・・・少し考えさせられるのではないでしょうか。

親の子に対する「心の読解力」の不足 という課題についてです。

大人(親)たちは、子どもたちが発しているサインを読み取っているでしょうか?
 
もしかしたら、子どもたちの方が親の心を読むのが得意かも知れません。
 
子どもは難しい言葉の意味を理解する力が足りない分、親の目、口元、表情、声色、言葉の語尾、語気、そうしたもので親の心を読み取ることでコミュニケーションを補っているからです。
 
特に、親の「機嫌を読み取る力」には長けていますよね。
 
実際、コミュニケーションのうち、言語のみで伝えられているのは10%未満と言われます。残りの90%は言語外のコミュニケーションです。
 
実際子どもたちは、親の目、口元、表情、動作、声色、語気などによって親の心境を読み取っていることが実に多くあります。犬でさえ、怒られているかどうかは言葉の意味にではなく、声のトーンや表情などの雰囲気によって理解しているのです。
 

子は成長と共に社会性を身に着け、親の顔色をうかがいながら言わないことも増えてきます。本音を親にぶつけようものなら、逆上されたり否定されたりすることを学ぶと次第に話さなくなるのです。
 
ですから、子どもたちとの良いコミュニケーションのために、彼らの「サイン」をよく見るようにしましょう子どもたちの心の動きにしっかりと目を注いでみましょう
 
聖書にもこういうことばがあります。

 
 人はうわべを見るが、主は心を見る。(Ⅰサム16:7)

 神様は人間の心、魂の深みまで見通され、言葉にならない叫びまでも読み取ってくださいます。私たちはしばしば表面的なものしか見ておらず、お互いの必要に寄り添うことがなかなかできないのです。
 
 


1. 子に対する健全な関心を持つこと

<<不健全な関心の持ち方>>

①過保護子どもが自分の予測を超える生き方をすることが不安。自分が不安にならないように、必要以上に自分の保護下に置いてしまう。 結果として、「子どもがどうしたいのか」「どう感じているのか」に対しては、関心が薄れてしまう。

②放任主義:親自身が自分のこと(仕事や介護、自分の目の前の問題)で忙しいので、子どもに何でも任せすぎている。関心を払わないので様々なサインを見逃してしまう。自分の時間を取られる、自分の心が乱されることがイヤ。

「健全な関心」とは、その子が大切にしていることは何か、最近好んでいるものは何か、何をされるとイヤなのか、どんな不安を抱えているのか、そうしたその子の本音の叫びに対する関心です。そこからズレると、親が知りたいこと、親が望むことばかりを聞き出すことに必死になってしまい、結果お互いの心が離れていきます

 

2. 「サイン」を知ること

・表情、目の輝き ⇒ 目が輝く瞬間を見逃さない! 

・不眠・食欲低下 ⇒ 強い不安や緊張。うつ的な状態の可能性。

・体に力が入っている ⇒ ストレスや恐怖に支配されている可能性。
             体が強張っていて硬い。

・自己主張、自慢話が多い ⇒ 認めて欲しい
 
・否定的なことばが増えてきた ⇒ 自信喪失、自尊心の低下の可能性。
 

 
 
神様に祈りながら、子どもたちの本当の必要に気づかせていただきましょう

  ※他の「子育て」についての記事はコチラ


2019/06/10

キリストの福音を語る聖霊


すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒2:4) 
 約束の聖霊がすべてのキリスト者に臨まれるようになった日がペンテコステです。聖霊は旧約聖書の時代から約束され、キリストご自身も弟子たちに約束された助け主です。この聖霊に満たされた時、弟子たちは他国のことばで話し出したのです。そして、肝心なその内容はキリストの福音でした。バベルの塔の出来事以来、ことばは混乱し人々は世界のあちらこちらに散ってしまいました。けれども、世界中に散らばったすべての民族に届くことばがキリストの福音であることをペンテコステは示してくれたのです。この日、御霊によって十字架の福音を語ったペテロたちを通して三千人が救われました。この日から本格的な世界宣教が開始され、キリスト教会が始まっていきました。いかに、聖霊によって力を受けて語ることがキリスト者の歩み、神の国の働きにとって重要であるかに気づかされます。誰も聖霊によらなければ、「イエスを主」と告白することもできず、世界への証し人となることもできません。キリスト者に神の力を豊かに与えてくれる聖霊の働きに、すべてのキリスト者が導かれて歩むことを心より願います。
(2019年6月9日 週報掲載)

2019/06/02

祭りの意義


年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。(出エジ23:14 

 「祭り」は、おそらくどの国でも存在し、また長い歴史を持つものが少なくないでしょう。しかし一般的に「祭り」の本質は、近年では失われています。人間本位のものとなり、人が楽しみ騒ぐことにフォーカスされているからでしょう。聖書では「祭り」というものが大切な意義をもって、神のご命令のもとで行われていたことに気づきます。しかも、このみことばにあるように目的は「神のため」です。人のためではなく神中心であるので、勝手なやり方ではなく、勝手な時でもなく、神の定めた方法、神の定めた時においてなされたのです。けれどもそれは、結果として神が人の幸いを願って備えられたことを私たちは知る必要があります。人が神の恵みに「感謝する機会」であり、救いのみわざを「覚える機会」であり、定期的に行うことを通して「次世代に伝える機会」となっていたと言えます。現在のプロテスタント諸教会は、祭儀的なものを極端に排除しすぎたかも知れません。祭儀の所作を通して、そこにある神のすばらしさを味わい、また伝えていく意義もあったことでしょう。洗礼、聖餐、クリスマス・・・様々な礼典や祭典の意義を改めて考えさせられます。
(2019年6月2日 週報掲載)

 

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