東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 5月 2020

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

最新情報

【☆最新情報☆】What’s New!!
☆10/29 イベントページを更新。「初めての方へ」ページを開設!

2020/05/27

Ⅱコリント5章1~12節「新しい生活(新しい人生)」

*** 5/27(水)祈祷会説教概略 ***

 昨日、緊急事態宣言が解除となりました。もちろん解除されたからと言って、普段通りの生活とはなりませんので、まだまだ神経を遣う日々ですね。その中で最近耳にする言葉が「新しい生活様式」を取り入れましょうという事でした。少なくともワクチンが開発されるまではということなのでしょうか。今までとは発想を変えてという事かも知れません。個人的にはあまり新鮮さは感じませんでしたが・・・

2020/05/25

エゼキエル書18章21-32節「立ち返って、生きよ」

*** 5/24(日)礼拝説教概略 ***

 最近、教会の敷地の雑草が少し気になり始めまして、近いうちに少し抜いておこうかなと思っていたのですが、ふと気づいたら抜かれてキレイになっていました。このような時でありますが、そうしたところに心を割いて、仕えておられる方がいらっしゃるのだなと感謝な思いでおりました。

 もちろん雑草だけではなくて、お花も咲いていまして、教会の花壇が彩られています。見るたびに嬉しくなります。また教会堂1階の多目的ホールには去年いただいた胡蝶蘭があります。しかし枯れてしまって、今年も咲かせるというのは難しいかな?と思っていたのですが、最近になって蕾が花開きました。そして今は3つ蕾が花を開かせています。いのちの力を感じます。

2020/05/20

Ⅱサムエル記 4章1~12節「主を知ること」

*** 5/20(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記41節~12節主を知ること

1節 サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。 

2020/05/14

子育て 「怒りではなく懲らしめ(叱ること)」


 「怒りではなく懲らしめ

「わが子よ、の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
 父がいとしい子を叱るように、は愛する者を叱る。」(箴言3:11-12

 自粛生活が長くなると、一日中子どもたちが家にいてお母さんたちが一人になれる時間がないという課題があったり、また働くお母さんとしては家にお子さん一人でずっといることが心配であったり、学校給食がないので食事の用意の大変さがあったり・・・

 とにかく普段とは異なるストレス、イライラが起こりがちです。

 そんな時に神様のみことばに耳を傾け、教えられるならば少し違った視野が開かれ、落ち着きが与えられます。
 
 ここでは「懲らしめ」「叱責」「叱る」という3つのことばで、神様が人を教え導かれることを教えています。

 その目的は成長してより良い者になることす。

 人には本能的に「良くなりたい」という願いがあります。

 少しでも成長して、ちょっとでも良くなると私たちは嬉しいですよね。
 その良くなるために主なる神さまの愛から出ている「懲らしめ」や「お叱り」を受け入れなさいと言われているのです。

 実に教え導く者こそ、神様から謙虚に教えていただく者になることが成長の第一歩です。まず自分自身が、人生の手引書である聖書から、私たちも子どもたちも造られた神様から教えを受ける者になることこそ、Good Mom、Good Dadへの近道です。


 それと同時に、このみことばは私たちが親の立場であると考えた時に、一つの良い模範なのです。私たちは子どもたちを注意する時にどうしているのでしょうか?

 皆さんに考えていただきたいのは、「懲らしめ」や「叱る」ことと「怒る」こととはどう違うのか?ということです。
 
 「怒る」というのはより感情的です。悪に対する正義の怒りは聖書も認めており、必要なものと教えています。でも、そうでない怒りがありますよね?
 自粛生活でイライラする。ストレスをためていて。相手の行動が気に入らなくてイライラ。感情で怒りをぶつけることは指導とは言わないのです。

 それは「自分のため」だからです。

 ちなみに「懲らしめ」というのは、ネガティブなイメージがあるかも知れませんが、その意味は「悪い事をした人に罰を与える等して二度とそうしないようこらしめる」ということです。ですから、悪くないのに自分がイライラして感情をぶつけてしまうのは懲らしめではないわけですよね。また、不適切なほど怒ってしまうこともそうでしょう。

 最初に学びましたように、懲らしめ・叱責の目的=その子が良くなることです。
 子どもたちのしつけのために神様から教えられているのは、愛をもって落ち着いて「懲らしめること」「叱ること」なのであって、怒りをぶつけることではないということ。

 「いとしい子」「愛する者」とみことばにあるように、感情ではなく愛によってなすのです。

 昨日の祈祷会メッセージでも、感情を「悪魔のしもべ」にしてはダメですよ~というお話をしました。感情も神様がくださっている良いもの。だからこそ、罪の道具、悪のしもべにしちゃいけない。

 だからこそ怒りを上手におさめて、愛の心で叱り指導するということに心を留めましょう。祈ってから叱るという習慣がつくと良いかもしれません。

 私もよくしくじっています。
 感情的になってキレても、相手には「怖かった」という記憶だけが残り、中身が残らないということがあります。逆に、怒りが現れているにしても、きちんと相手を心から思い、愛するゆえの情緒であるならば、それは相手に良いメッセージとして伝わります。本気で自分を心配して叱ってくれているんだなというのは、その時は受け止められなくても、少し冷静になった時に心の深いところに残っているものです。

 自分のために「怒る」のではなく

 子を愛して「叱る」を大事にしましょう。

※他の「子育て」についての記事はコチラ


2020/05/13

Ⅱサムエル記 3章12~39節「感情を誰のしもべにするか?」

*** 5/13(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記312-39節感情を誰のしもべにするのか?

 イエス様を信じたばかりの頃に、安定したクリスチャンライフについて学びをしていただきました。それは感情によって自分を引っ張っていく生活は安定しないということ。ジェットコースターのように上がり下がりする日々。感情は客車を引っ張ってくれる機関車にすべきではないのです。客車を引く機関車は「神の真実」であり、それを信じる信仰がその後に続き、最後に感情が「神のしもべ」として着いてくる。それが安定したクリスチャン生活の秘訣だと学びました。もちろん、学んでも失敗ばかりですが、感情に流されて動いてしまった結果として思い出されるのは、大失敗の記憶ばかりです。主が下さった「感情」を誰のしもべとするべきでしょうか?神のしもべとしましょう。

2020/05/06

Ⅱサムエル記3章1節-11節「良い信頼関係を持つ」

*** 5/6(水)祈祷会説教概略 ***

2-5節では、ダビデ王がヘブロンに滞在していた7年半の間に生まれた子どもたちのことが記されています。6人の男の子たちの名前が記されていますが、なんとそれぞれ母親が違うことがわかります。子孫を残すことが非常に重要だった当時の習慣においては、側室や妾がいることは珍しいことではありませんでした。しかし、こうしたダビデの性に対する奔放さゆえに、後に多くの悲劇が起こっている事は見落とせない事実です。事実、2節に出てくる長男アムノンは、3節に出て来る三男アブサロムに殺されるという大事件が後に起こります。1人の男性と1人の女性がお互いを大切にすることこそ、神様のみこころであり、そこに与えられた子どもたちにとっても一番の幸せであると教えられます。

 6節では、サウル家とダビデ家の戦いが続く中で、サウルの将軍であったアブネルがその勢力を増していたということが語られています。事実上の実権を握っていたアブネルは、もはや王と同等かそれ以上の地位にあったと言えるかも知れません。その象徴的な出来事として7節のことがあります。

7節 サウルには、アヤの娘で、名をリツパという側女がいた。イシュ・ボシェテはアブネルに言った。「あなたはなぜ、私の父の側女と通じたのか。」 

 イシュ・ボシェテの父サウル王。その王の側室と関係を持つということは、アブネルが王と同等の地位にあることを誇示する行為だと思われても仕方がない事でした。それでイシュ・ボシェテは危機感を感じたのです。彼を強く責めました。

 ただし、これが事実だったのかどうか。ウワサやデマだったのか?その点がはっきりしません。しかしながら、ここからはっきり分かることは、お互いの間に「尊敬」や「信頼」がないということです。最初はあったけど失われたのか?それとも最初からなかったのか?  イシュ・ボシェテから責められてアブネルはどう反応したのでしょうか?

8節 アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。「この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。 

 アブネルは激怒して言いました。「私がユダの犬のかしらだとでも言うのか」と。ユダというのはダビデ王の部族のことです。つまり、アブネルはサウル王家のために精一杯仕えているのに、私が「ダビデ王の手先」だとでも言うのかと怒ったのです。
 アブネルは野心家であったのでしょうけれど、それでもサウル王家のためにという忠誠心もあったことでしょう。しかし、主君に信頼されない臣下は、もう何をしても無駄だと諦めてしまっても仕方ありませんよね。このような不信感によって、サウル王家は内部から崩壊していきます。

 アブネルは9-10節のところで、もはや自分はダビデ王に王位を譲ると言い始めます。
9 主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。10 それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」 自分の忠誠心を疑われたと感じたのでしょう。プライドが傷つけられ怒りにかられたアブネルは「主がダビデに誓われたとおりのこと」に自分も協力すると言い出しました。つまり、神様が誓われた通りにダビデが王位に就くことを自分は全面協力すると誓いを立てて言い放ったのです。

 初めから神様に従っているのならば、アブネルも神様の祝福の中に守られたのにと思います。自分の都合や感情に合わせて、急に「神様のみこころに従おう」と言い出す人の身勝手な姿です。

 ただ、私たちもそういう面が少なからずありますよね。ありがちなのは、自分の罪や問題に関しては聖書の「せ」の字も出さないにも関わらず、他人を裁くときには「神様の教えはこうだ!」と急に聖書に立ち返ることです。あるいは順風満帆な時には神様に心を向けず、苦しくなると途端に神様に祈り始める人もいます。私も該当する一人だなと思わされます。私たちは自分の都合次第で、神様を召使いのように呼び出すということを慎まなければなりませんね。神様にここに来させて利用するような姿勢ではなく、神様のところに私たちが出向いて行って、神様の良いご計画のために自分を差し出すという基本姿勢をお互いに忘れないようにしたいものです。

 それにしても神様のなさることは本当に不思議です。この時ダビデは何もしてません。それなのに、この二人が勝手に内輪もめをしてお互いに疑心暗鬼になり、結果としてダビデが王位に就くことが後押しされていくわけです。これを見る時に、人は小さなぁと感じます。どんなに人間の間で高い地位に立とうとも、神様のなさることに抗うことが誰にもできません。人と神との間に圧倒的な差を感じますよね・・・。罪人同士の愚かな「内輪もめ」さえも、神様はご自身のご計画のために用いることがおできになるのです。
 
 そして、ここでもう一つ思わされることがあります。それは、イシュ・ボシェテとアブネルの主従関係は「かわいそうな主従関係」だということです。信頼関係がありません。お互いのために自分を犠牲にしようという愛や思いやりもありません。ただ同じ利害のためだけに都合よく協力していた関係のように見えるのです。

11節によれば、「イシュ・ボシェテはアブネルを恐れていたので、彼に、もはや一言も返すことができなかった。」とあります。

 不健全ですよね。相手を思うならば、恐れを超えて互いに意見を語り合う必要があります。恐れのゆえに黙してしまうのは、正しいことでしょうか。沈黙するにも、私たちは愛のゆえに沈黙すべきなのであって、自己保身のためであるべきではないですね。責められた側のアブネルも、逆ギレするのではなく、自分の忠誠心は変わらないのだと主張すれば良かったはずです。

 イシュ・ボシェテが大切な部分では黙ってしまう故にアブネルは彼を信頼できず、暴走してしまったと言えるでしょう。アブネルを恐れ過ぎるがゆえに、イシュ・ボシェテは王としての権威を示すこともできませんでした。

家臣に信頼されない主君は不幸ですし、「どこまでもついて行きたい」と思える主君を持てない臣下もまた可哀そうです。

 私たちには最高の主君である神様がおられること。なんと嬉しいありがたいことでしょうか。いつでも親しく語りかけ、私たちを愛するゆえに十字架の死にまでも従われた方。そして、この方から決して裏切られることのない、見捨てられる不安がない関係です。これが土台にある人の強さは想像に難くないですよね?アブネルもイシュ・ボシェテもお互いにいつ裏切られるのか、捨てられるのか根底には「不安」「恐れ」があったのです。
 逆に言うと、まず神様との良い信頼関係を持てる人は、「安心」と「健全な恐れ」を持ていますので、すべての人間関係の豊かな土台を持てることになりますよね。 

 ご一緒にみことばに聴いて参りました。罪人の勝手な振る舞い、良い信頼関係がないゆえに自己崩壊に向かう姿に教えられました。ともすると私たちも同じような過ちに陥ります。ですから、まずは主なる神様との良い信頼関係を土台として持たせていただきましょう。一つでいいのです。一つ、見捨てられることのない安心な関係がそこにあるならば、私たちは安心して積極的に人と関わることができるようになるからです。

2020/05/05

花を見よう


長引く自粛生活の日々の中で、いつの間にか季節が変わり初夏の陽気に汗ばむ日々となっていますが、皆様はどのようにお過ごしでしょうか。

鳥の声、花の香り、風の音

それらを味わい楽しむ機会はあるでしょうか?


教会の外看板の下には、小さな花壇コーナーがあります。
花壇を備えておいて良かったな・・・と思う今日この頃です。


ご奉仕くださる方々によって、季節により色とりどりの草花を楽しめることはなんと幸いなことでしょうか。

主イエス様も人々を前にして、空の鳥を見なさい、野の花のことを考えてみなさいと語りかけ、そこに示されている神様の優しさや養いの豊かさに気づかせてくださいます。

マタイ6:28-31
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。


心配ばかりの日々です。
けれど、野の花は明日の心配に追われて、必死にお金を勘定して、その結果を見て花を咲かせよう!などとは一切考えていません。

ただ、神様がふさわしい時に蕾を開かせてくださるままに、その身をただおゆだねして、美しい花を咲かせているのです。その期間は決して長いものではないのですが、彼らはその美しさをもって神をほめたたえ、人には慰めや励ましをもたらしているのです。

下の写真は、先日教会で花開いた胡蝶蘭です。


実は、一年前の献堂式のお祝いにいただいたものでした。
花びらが散り、すっかり何もなくなった状態でしばらくの時を過ごしていました。

もう咲かないだろうかと半ばあきらめておりましたが・・・
一年の時を経て、なんと花を咲かせたのです。

これもまた、あきらめずにお世話してくださった兄姉の愛と忍耐の賜物。
そして、神様が私たちを励まそうとこの時期に咲かせてくださったのだと、その恵みに感動し感謝を覚えています。


私たちが思うよりも神様の備えておられるいのちの輝きは強く、あきらめずに時を待つことの大切さを教えられています。

これらの花を見る時、心配ばかりしている私たちに

「心配ないよ。私たちを見てごらん。神様のことがわかるでしょ?」と

草花が語りかけてくれているようです。


※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。

2020/05/02

ヨハネ15章18-23節「他の人ではなく、あなたが!」

*** 5/3(日)礼拝説教概略 ***

ヨハネ1518-23節「他の人ではなく、あなたが!

 色々な部分で不自由や不便を感じながらの生活ではないかと思います。早く共に集まれる幸いな日々を主に祈り求めたいものです。

 そのような生活の中で、様々な「違い」が生じています。

 ある学生はオンラインでの授業がある。ある学生は一切そういうものがない。

 ある人は在宅ワーク、ある人は普通に現場で働かざるを得ない。

 ある自治体は様々な優遇措置がある、ある自治体はほとんど何もない。

 こういった状況の中で「あっちはいいなぁ!」「あの人はなんで?」と比較してしまい、優劣をつけやすい状況が生まれているように思います。

「あの人はいいなぁ」「あの人たちはダメだなぁ」と見ているとき、私たちは一体どこを見ているのでしょうか? 

 すべての背後には愛と正義に満ちた主なる神さまがおられます。一部分だけを見て比べ合うことに力を注ぐのではなく、「私は今日どのようにイエス様と共に歩むのか」とそこに心を向けて歩みたいものです。

 本日は、与えられたみことばを通して、よそ見してしまうのではなく、主イエス様に目を注いでついて行くことをともに教えられて参りましょう。



1. 新たな宣教の使命

 本日のみことばですが、死からよみがえられたイエス様と弟子ペテロの対話の場面です。先週の続きの場面になっています。イエス様は、挫折したペテロがもう一度立ち上がって、宣教の使命に献身していけるように、これからの道を示されました。

18-19節前半
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。

 これはやがて彼が自由を奪われ、やがて殉教することを示すおことばでした。
 19節にあるように、彼は最後、迫害の中でその生涯を終えます。伝承によれば、ローマ皇帝ネロの迫害の中で、「逆さ十字架」にて生涯を閉じたと伝えられています。

 「逆さ」というのは実は彼が望んだことで、イエス様と同じでは恐れ多いということがあったとされます。伝承ですので、真偽は分かりませんが、復活後のイエス様と出会って変えられ、命がけで宣教していった事は確かであると言えます。それは、もはや自分自身のためではなく、「キリストのために生きてキリストのために死ぬ」ということでした。

 人は必ず死を迎えますから、自分が信じるコトのために悔いなく感謝して死を迎えるとするならば、それは尊い人生だと言えるのではないでしょうか。そしてペテロを初め、多くの弟子たちが逃げることなく命をかけて宣教してくれたことのゆえに、今や世界中にキリスト信仰が広がっていることを感謝したいですよね。

 イエス様はペテロにこれらのことを伝えた後、19節の最後でこう語られました。

 こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 

 今度こそ、どこまでもイエス様について行くということです。同伴者となってくださる主イエス様と親しく歩み、主よ、今日はどこに行きましょうか?明日はどうしましょうかと共に歩むことです。



2.よそ見してしまったペテロ

 さぁ、もうペテロは何も迷わず!イエス様、あなたについて行きます!となったのでしょうか? いいえ。 ペテロにはどうしても気になることがありました。彼の弱さがまだここにあることが分かります。20節で彼はこんな風に反応しているのです。

20節 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21節 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
 
 どうして振り向いちゃうかな?とツッコミたくなります。

 せっかくイエス様と良い再会をし、「さぁ、あなたはわたしに従いなさい」という所で、「はい、今度こそついて行かせてください」と言えば良かったものを。

 残念ながら彼は振り向いて別の人を見てしまったのです。彼が向いた先は、同じように主イエス様にお仕えしている弟子ヨハネでした。

 ヨハネは、ここで自分自身のことを指して「イエスが愛された弟子」と表現し、最後の晩餐の時にはイエスのすぐ隣で胸元に寄りかかっていたことも語っています。

 最後の晩餐の時、ペテロは末席に座っており、ヨハネは給仕係としてイエス様の右隣に座っていました。このヨハネもまたイエス様の愛弟子の一人で、リーダー的存在だった一人です

ペテロはもしかしたら、ヨハネに対して劣等感を持っていたのかも知れませんね。

 先週少しお話したのですが、私たちには比べてしまいやすい立場の人というのがどうしてもいます。立場や年代や環境が似ている人とは比べがちですね。ペテロとヨハネはどちらもイエス様の内弟子であり、いつも一緒に行動していた二人でありました。お互いに、いつも気になり意識してしまう存在だったようです。

 少しその様子がわかる個所を同じヨハネの福音書から味わってみましょう。

 20:3-4です。これはイエス様が復活したというニュースがあり、二人が墓に向かって走った場面です。

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子(ヨハネだと考えられる)は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 

 この福音書の著者がヨハネですので、自分の名前をあえて出さずに「もう一人の弟子」と記しています。今日のみことばでも「主が愛された弟子」という表現でした。

 この時、著者ヨハネはペテロより自分の方が足が速かったので先に墓に着いたと語っているわけです。

「足が速いので先に着いた」これはわざわざ書かなくても良いんじゃないかと思ってしまいますが、お互いに意識していたという事をさりげなく表現しているのかも知れません。

 ですから、ペテロは他の人のことはもうクリアしたとしても・・・このヨハネのことは最後まで意識してしまった。友でありライバルのような存在だったのかも知れませんね。私たちにも、そのように意識してしまう人の存在があるかも知れません。

 大事なことを話しているのに他の人の方を気にしてしまうペテロに、イエス様はどのように語られたのでしょうか?

22節 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 これが主の答えです。

 イエス様は当然、すべての弟子を愛しています。そして当然、弟子だけでなく、すべての罪人を愛しているからこそ十字架におかかりになりました。ですから、イエス様がヨハネの長生きを願うとしても、それは当然であり、またペテロが気にすべきことではありませんでした。

 それでもペテロは、自分はやがて逮捕され殉教するという話を聞いて、じゃあ、あのヨハネ、彼はどのような半生をこれから送るんだ?と気になったのでしょう。

 でもイエス様は、「他の人のことは関係ない。そこじゃないんだよ。他の人がどうこうではなく、わたしの前にいるあなたがわたしに従うこと。これがわたしの願いです」とおっしゃったのです。

 実はこの22節における強調点を文法的に分析すると「あなたは」ということばに強調点があります。後ろを振り向いて、あの人はどうなのですか?とヨハネばかりを見てしまったペテロに、イエス様はご自分の方を向けさせ、他の人ではなく「あなたが!」わたしについて来なさいと言われたのです。



3. 私たちの応答

  私たちはすぐに優劣を競ってしまいます。本当に愚かだと分かっていても、比較してしまい劣等感に陥り、あるは優越感に陥ります。あるいは比較によってさばき合うことが生まれます。

 なぜか自分ばかりが大変な試練に見舞われているように感じます。

 なぜ私ばかり?あの人はなぜ「のほほん」と生きているの?
 
 私の方が罪深く未熟だからですか?だから試練が多いのですか?
 
 あの人はどうなのですか?あの人も罪人ではないのですか?と。
 
 
 しかし、それぞれに与えられている賜物が違います。役割が違います。用いられ方が違います。
 イエス様から与えられた「召し」は人それぞれだと言えます。

 もちろんすべての人が、神の良い働きの一部を担うことに違いはありません。けれども、その中で果たす役割はそれぞれ違っていていいし、優劣をつけるものではないのです。
 
 ペテロは宣教者として最前線で歩み続け、最後の彼の大切な役割はキリストのために死ぬことでありました。彼の生涯は波乱万丈で大きなインパクトを残したことでしょう。多くのキリスト者を励まし心を燃えさせる生涯だったことでしょう。

 しかしヨハネの使命は、長生きして、そのゆえに彼が見て来たもの、聴いてきたもの、その手で触れてきたものを整理して記録に残すことにありました。ペテロほどの波乱万丈な生涯ではなかったかも知れません。しかし、彼の残した福音書や手紙はキリストの姿をイキイキと描き、またその愛の深さを教えられるものでした。

 他の人がどうであるかではなく、イエス様は「あなたは、わたしについて来なさい」と言われるのです。よそ見をして、あの人はどうなのか?あそこはどうなのか?そこにあなたの心が分かれてしまうのならば、なんともったいないことでしょうか。

 主イエス様は今日、他の人ではなく、あなたを招いておられます。


教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *

注目の記事

心のケアと人間関係「承認欲求を健全な方法で満たすには?」

 「承認欲求」 ということばを聞いたことがあるでしょうか?    人から認められたい、受け入れられたいという欲求です。  具体的な例としては、頑張っていることを認めてもらいたいとか、同世代の友人からすごいね!と言われたいとか。そして若い人たちであれば、SNSでの返事や「いいね」な...