東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2019
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2019/12/29

感謝!意味のない苦しみはない



哀歌331-33節「感謝!意味のない苦しみはない」

「本物の感謝は成功の連続の中では生まれて来ない」
 
 年を経るに連れて、その思いが強くなっています。
 
自分自身も多くの失敗や挫折を味わい、また多くの人と出会い話を伺えば伺うほど、そう感じるのです。
 
痛みや苦しみを通った方の「感謝」のことばには、やはり重みや深みを感じるのです。皆さんはどうでしょうか?
 
何もかもがうまくいっている時も感謝でしょう。けれども、目の前に起きている良いことを喜ぶのは当然なのですから、その感謝は聖書信仰なしでも可能な感謝でしょう。
 
しかし、キリスト者の特権は、「人の目には感謝することが難しい状況」を、神様によって感謝させていただけることです。一年を振り返る時に、良いことばかりのはずがありません。それでもなお、私たちが神様に感謝する理由は、あらゆる出来事の中に主なる神様の御手があるからです。

 神を知らない人は、「嫌なことは忘れよう」と考えます。しかし、神を知る者は、嫌なこともまた神の御手の中で起こっていることを受け止めるのです。神を信じる者にとって、様々な試練や困難は、偶然起こっていることでもなく、神様が悪意をもって意地悪しているわけでもないと知っています。むしろ、その困難を通して、私たちが神を知って幸いな者になれるようにと神様が備えたもの。

 イスラエルにヒゼキヤという王様がいました。彼は死の病にかかり、もう死ぬと言われました。けれども、彼の祈りを聞かれた神様が奇跡によって15年」いのちを延長してくださったのです。そしてこのヒゼキヤ王が病から回復したときに、彼は神をほめたたえて言いました。その一部。 イザヤ書38:17 ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした味わった苦い死の恐怖の苦しみは、自分が神を求めて平安に至るためのものだったと言うのです。生きていることが当たり前だと感じる日々に、「生かされていることへの感謝」は生まれません。むしろ生きていることが辛いとさえ思えるかも知れません。しかし、ヒゼキヤ王のように、死が目前に迫る経験を通る時に、今生かされている恵みに気づくのではないでしょうか。
 
本日は、皆さんに「感謝の達人」になることを提案したいと思います。
達人への道は・・・
 
初級:これは当然に感謝すべきことを感謝すること。何かをいただいたり、助けてもらった時、親切にしていただいたら感謝をする。この当然のことさえもしないようなら礼儀知らずですね。皆さんはそんなことはないでしょう。
 
中級:これは自分の手柄にしそうな時に、神様や人に感謝できるようになること。健康が支えられている時に、自分の日々の鍛練のゆえだけでなく、神様の守りや家族の支えなどがあること。テストで良い点を取ったとしても、それは健康が守られ集中できるよう支えられ、苦手な問題ばかりとならず神様が守ってくださったと感謝する。
 
上級:これは健康を害しても、テストの結果が芳しくなくても、そこに神様の恵みを見出し、試練や困難などにおいても主に感謝すること。人の目に感謝が困難な時にも、神様のゆえに信仰によって感謝すること。
 
上級までいけば、達人ですね!
 
試練や困難などの苦しみさえも、神様にあって感謝する恵みを教えられ、感謝をもって一年を締めくくりましょう。


 

 3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。 しばしば、神様が自分を見放してしまったのでは?沈黙されているのでは?と苦しみのあまり思い込むことがあるのではないでしょうか。確かに神様は、時に私たちにあえて試練をお与えになります。そして、私たちが試練によって大切な事を学べないのは非常に残念ですので、あえてしばらくの期間私たちに手を差し伸べないのです。ただ、それは厳密には見放しているのではありません。神様はその間も決して私たちを見捨ててはおられません。

 イザヤ書にこうあります。49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

 母親が乳飲み子を忘れるだろうか?自分のお腹の子を大切にしないだろうか?そんなわけはない。いや、彼女たちが忘れることがあってさえも神様は決してあなたを忘れないと言われるのです。神様は私たちを決して忘れることがありません。一瞬たりともありません。私たちが寝るのも、起きるのも、その間もずっと見守っておられる。だから、私たちは睡眠中無意識でも心臓が止まらず守られて朝目覚めることができるのです。夜中、心臓が止まるのでは?肺が機能しなくなるのでは?と心配せずとも休めるのは、神様が見張っていてくださるからです。そんな神様ですから、意味もなく私たちを苦しみに合わせることは決してありません! 32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。33 主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。

 なんという嬉しい真実でしょうか。悲しみには必ず神の恵み、あわれみが共にあるのです。意味なく苦しみだけを与えることは決してない。これが愛の神様のなさることです。

 ところが、私たちの肉の心が望むものは、なんの苦労もなく平和で穏やかな日々です。失敗もせず、挫折もせず、病にもならず、他人が自分の思い通りに動いてくれる。自分が欲しいことば、自分が言われて気持ちいいことばを言わせたい。世界を自分の望むままに!
 
 しかし、それは「自分を神に仕立て上げる」事。自分を神にする=これこそ偶像礼拝の究極形です。高慢の罪の極致。
 
 この罪は私たちを滅ぼします。ですから、時に神様は私たちを砕かれるのです。苦しみを通して私が何者であるかをゼロから教えてくださるのです。

 私自身も様々な困難を通らされた時、本当に苦しく過酷でした。けれども、それがなければ今の私はありません。この会堂も私たちの目標通りにはなりませんでした。2009年にそこから5年以内を目標にとしましたが、随分時間がかかってしまいました。けれど、目標通りになっていたらと想像すると恐ろしいです。建物は立派になっても、中身は成長しないままだったことでしょう。

 辛い過去、苦しい過去もまた、今の私になるために必要かつ大切な過去なのです。なければ楽だったかも知れません。でも、それがあるからこそ、神様の懲らしめ、慰め、あわれみ、助け、みわざを経験できたのです

 病にならなければ多くの人に祈られる経験もできません。落ち込まなければ、兄姉や神様の励ましがどれほど嬉しくありがたいものかを知ることもできません。
 
今のあなたは良い経験だけで成り立っているのではない。苦しいことも、悲しいことも含めても、それを経たからこそ今の自分がいるのです。 
 
私たちにとっては喜ばしくない過去も大いにある。後悔しかないという事や、深い傷を負わされた出来事。思い出すたびに怒りがわいてしまうことや、思い出すことも辛い過去もある。
 
ただ、知るべきことは、それらの過去もまた意味があるということです。
そうした過去の出来事を変えることはできません。けれど、過去をどう受け止めるかは変えられるのです。否定的な感情で見て来た過去を、神様の恵みの視点から買い戻すことができるのです

33 主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。

 これが真実です。苦しみ悩んだことには、必ず神様からのメッセージがあります。

 私は3年近くLINEというスマホアプリで聖書メッセージを毎日配信してきました。今は760名ほどです。しかし、LINEのサービス改変によって、同じことをしようとすると3倍の値段がかかるようになると通知が来ておりました。
 
せっかく続けてきたのに・・・祈って祈って、それでも答えが見つからず・・・
 
もう続けられないと思いました。
 
そこで最終的に決断し、事情説明と共にこの働きを終えることを皆さんに通知したのです。
 
とても悩み、とても残念気持ちでおりました。
 
苦しい決断でした。
 
しかし、その後、何名もの方から連絡がありました。
 
読ませてもらっていてぜひ続けてほしいと。
 
中にはお会いしたことがないような方からも!そして、継続できる献金をいただき、またさらに協力してくださる方が起こされつつあります。
 


 神様が意味もなく私を苦しみ悩まされることはない。まさにそうだと教えられました。

 私は神様に噛み付いていました。「なぜ、こんな妨げを許されるのですか?神様から示され、多くの人の救いや励ましのためにしているのに!みこころにかなう働きじゃないのですか?」と。
 
 でも、何の問題もなく続けられていたら・・・この方々の思いを知ることができませんでした。この励ましを受けることも、神様のみわざを味わう機会もなかったでしょう。
 
 この一年、様々な困難、苦しみも通られたことでしょう。今もなおその最中かも知れません。しかし、神様の手が届いていないものはありません。意味なき苦しいなど一つもありません。それを知る時に、なんとありがたいことでしょうか。私たちを愛してやまない神様が、その苦しみを私たちを幸せに導くために備えておられるのです。感謝!

2019/12/25

今日があなたの救いの日

ルカ19:1-10「今日があなたの救いの日」

 クリスマスはサンタの日ではなく、私たちの救い主、イエス・キリストがお生まれになった日です。サンタがくれるプレゼントも嬉しいことは確かですが、それはやがて消えて無くなる物です。

 しかし、決して無くならないプレゼントを今日、皆さんに差し上げたい。それはイエス・キリストがくださる「永遠の愛」というプレゼントです!キリストは、迷子の羊をどこまでも捜し求め、暗闇、恐れ、不安、絶望、孤独から救うために来られました
 

2019/12/22

捜して救う神


イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10) 

今、もしあなたが、肩書も財産も体力も見栄えのする容姿も失ったとしたら・・・それでもあなたを見捨てないで、あなたとともに歩みたいと言ってくれる人がいらっしゃるでしょうか。

私たちは見捨てられ不安をいつも抱えながら、人々から自分の価値を認められたいという承認欲求を抱きながら「いいね」の数を気にして歩んでいる者たちではないでしょうか。

さらに、私たちの心には人には見せられない暗闇が誰にでもあります。

私たちの闇までも知った上で、なお私たちを愛し受け入れてくれる存在があるでしょうか。

イエス・キリストこそ、まさにあなたのすべてを知り、あなたの付属品なしに「いいね」をくださるお方です。

神の愛から離れ孤独な自己愛に生きている者たちを、神は「失われた者」としてあわれみ、捜し出し救ってくださる愛のお方です。

そのために御子キリストが十字架にいのちをささげられました。

この神の永遠に変わらない無条件の愛こそが、真のクリスマス・プレゼントなのです。

むなしく消える物でなく、永遠の贈り物をぜひ受け取ってください。

2019/12/15

心を分かち合える友を得る



 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。(ルカ1:39-40) 

未婚で男性を知らない処女が、神の聖霊によって救い主を妊娠した。
マリアの身に起こったこの出来事はあまりにも驚くべきことで、他の人々には理解されがたいものでした。

しかし、神はにわかには信じがたい奇跡を経験し、それを信じるに至っている親類のエリサベツを良き理解者として備えていました。

ですから、マリアはそれを知りエリサベツに急いで会いに行ったのです。

マリアは決して孤独ではありませんでした。

エリサベツは一切疑うことなく、マリアの身に起こったことを理解し受け入れ、むしろ幸いなことだとマリアを励ましてくれたのです。

誰にも理解してもらえない。そんな孤独が私たちを絶望させることがあります。

しかし、信仰生活は孤独な戦いではないのです。
ともに喜びともに悲しむ交わりによって歩むもの。分かち合い祈り合って歩むものなのです。

キリスト者の強さは個人の信仰の強さではありません。

私たちの弱さを知った上で導かれる主と、重荷を一緒に担う信仰の友たちの存在によって強くしていただけるのです。

神はそのような友をあなたに備えておられます。

あなた自身もまた、他の人にとって心を分かち合える友となっているか?問われるのではないでしょうか。どうか、私たちひとりひとりが、神が望まれる良き友となれるよう神の愛を学び、みことばをもって人と関わる者とならせていただきましょう。

2019/12/08

なぜ、マリアは受け入れることができたのか?


マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38

まだ10代の若者、そして処女であったマリアにとって、それはあまりにも唐突な話でした。目の前に天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産む。名をイエスとつけよ」と言われます。

男性を知らないマリアにとって、ありえない話に思えたはずです。

しかも、その子はいと高き者、この地の支配者、その支配が終わることはないとまで言われるのですから、信じがたい話です。

けれども、彼女は自分の心の「ありえない」という声にではなく、天使が告げた神のことばに耳を傾けました。

「親類のエリサベツを見なさい」とのことばに、神の優しさを感じます。

エリサベツは不妊症かつ高齢でした。
二重の意味で妊娠が不可能と思えました。

しかし、事実妊娠6か月目を迎えていたのです。

神がすでに奇跡を身近でなさり「神には不可能なことはない」という宣言が確かな根拠の中で語られていると気づくのです。

信仰生活とは、一人ぼっちで自分の信仰で何でも乗り越えていくものではありません。

マリアがエリサベツ夫妻に起こった奇跡によって励まされたように、私たちも自分が信じきれない時、弱さを覚える時に、周りで信仰をもって歩んでいる兄姉の姿にどれほど励まされることでしょうか。

人の常識の檻から出て、神のみわざの確かさに立つ時、「おことばどおり、この身になりますように」と信じて歩む者とされ、大いなる恵みを受けるのです。




2019/12/01

ベツレヘムという町


「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりに小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ5:2) 

キリストが生まれた地はベツレヘム(名前の意味は「パンの家」)という小さな町でした。

エフラテと付けてあるのは、当時「ベツレヘム」という地名が他にもあったので区別するためでした。

どこにでもありそうな小さな町ベツレヘムで、救い主がお生まれになるという不思議。

それは神が昔から定めておられたご計画でありました。

人の予想、人間的な期待を見事に裏切るような神の深いご計画がそこにあったのです。

多くの人は聖なる都エルサレムこそメシヤが生まれるのにふさわしいと考えたでしょう。他にももっと大きな都市が選ばれてしかるべきだと考えたことでしょう。

しかし、この救い主は小さな取りに足りない者にさえ目を留め、救ってくださるお方です。

お金持ちや地位の高い者だけでなく、小さな弱い者にさえ栄誉をくださるすべての人の主です。そして、このあまりにも小さな町だったベツレヘムですが、救い主が出た町として大きな栄誉を受けました。

それはキリストを心に持つに至った者の人生を象徴しているのです。

小さい者、弱い者、取るに足りない者と思うならば、ぜひこのキリストを知ったゆえに、神の前にもはや小さな者ではないことを覚えましょう。



2019/11/24

子どものように受け入れる


まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18:17) 

神の国は不思議です。経済力や発言力、権力や知名度などは、そこに入るために一切役に立たないのです。それでいて、無力で弱くて誰かの世話にならなければ生きていけないような、小さな幼子たちの方が神の国に入りやすいのですから。この世のあり方とは全く異なる世界なのだと気づかされます。

私たちは大人になるにつれて色々なものを持ちすぎてしまっているのかも知れません。

地位や名誉、財産、様々な責任、重荷。

あまりにも背負い過ぎてそれが神の国に入るのに妨げになっているのです。

戦国時代に盛んになった茶室の交わり。面白いことにその茶室には「にじり口」という小さな入口があります。

あえて入り口を小さくしてあるので、武将たちも鎧や刀を身に着けたままでは入れませんでした。
また立ったままでは入れず、身をかがめ小さくして入るものでありました。

神の国はそれに似ていると思います。

色々な物をまだ背負ってなかった子ども時代。
あの頃のように小さな者となって入るのです。
神の前には誰も自分を誇ることなどできないのですから。

背負っている物、自身を守るための鎧、人を傷つける刀を後にして、ありのままのあなたで神の国に入らせていただきましょう。

2019/11/20

野の花を見なさい

ルカの福音書12章27-28節より

27節  草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 
28節  今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。 

普段から花を見ながら過ごせるのはとても良いことです
 
実にイエス様も、野に咲く草花を見て考えなさいと言われています。
 

2019/11/17

高くする者は低くされ、低くする者は高くされる


一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:13-14) 

最も深刻な罪は、自己正当化の罪だと言えます。

自分はいつも正しいと信じきっているので、罪を認めることができず、悔い改めができないのです。

自分を正しいとする者には、キリストの十字架は不要となってしまいます。神の赦しを必要としないのです。


そのように自分を高く正当化する者はそのままでは救いに導かれることができないので、神はその人を砕き罪に気づかせようとなさいます。それもまた「神の愛」から出ているのです。

私たちがしばしば砕かれるのは、自分の高慢や正当化する罪に気づき、この取税人のようにへりくだって、神にあわれみを乞う者となれるようにするためです。

神の国は、そのように自分を低くする者に開かれます。

自分で必死になって上を目指さなくても、神がその人を高くしてくださるのです。

自力で高く大きくして誇る者は、その門をくぐれません。神の力を拒絶してしまうのです。

神の前に謙虚になりゆだねましょう。必要な時に神が高くしてくださいます。

2019/11/10

次世代へ語り継ぐもの


これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。(申命記6:7) 

申命記は、約束の地へ入る手前で、モーセが死を目前にして語った告別のメッセージです。

自身はカナンの地に入ることができず、その前で天に召される。

そんな状況の中で、次世代の民へと伝えたいものがあったのです。

それは、あなたの神、主を愛することです。

カナンの地には偶像礼拝、異教の文化の誘惑が多分にありました。しかし、そこで流されることなく、みことばに立って、主だけを生涯愛して仕えるようにと伝えたかったのです。

 
私たちも、次世代に何をどのように伝えたいのでしょうか。

教会学校で子どもたちが教えられ、育てられることはすばらしいことです。ぜひ、子どもたちを教会学校に参加させていただきたいと心から思います。

一方で、教会学校で見てあげられる時間はわずかです。週1回の限られた時間で伝えられるものは多くありません。ですから神は民に対して、それぞれの家庭、日常生活の中で子どもたちによく教えるように言われました。

家でゆっくり座っているとき、道をともに歩いているとき、寝るとき起きるときも・・・。
日常のあらゆる場面で子どもたちに神を心から愛して歩むことを教えよと命じられました。

子どもたちは、大人が普段の生活の中でどのように神とともに歩んでいるかを見て、神の偉大さやすばらしさを知ります。

改まった機会にではなく、つくろった外側ではなく、毎日の歩みの中で親や大人たちから学びます。

子どもたちの祝福を心から願うならば、私たちはこの責任を祈りのうちに全うすべきでしょう。

神はこれを大切なこととして「聞け!イスラエルよ」と注意を呼びさましながら示されたのです。

2019/11/05

子育て「お母さんも安らがないと!」


 お母さん自身のケアも大切です。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。(Ⅰテモテ4:16

聖書にこうあるように自分自身にもよく心を配り、ケアされていないと良い子育ては難しいですよね。特に子育ては24時間営業の一大事業です!
親は親としてだけの働きじゃありません。お仕事や家事、ご主人の助けなど色々あるわけです。その中での過酷な働き!重労働。大変です。

2019/11/03

神に近づく道


その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥(なだ)めとなり、彼は受け入れられる。(レビ記1:4) 

実はレビ記の本来のタイトルは「レビ記」ではなく、「そして彼は呼んだ」というヘブル語一語とされています。

出エジプト記の最後で幕屋が完成しましたが、神の栄光が満ちておりモーセは中に入れませんでした。

それで、レビ記の最初ではその幕屋から主なる神がモーセに呼びかけ語ってくださったのです。

いつでも神の招きが先にあり、招かれて初めて私たちは神のもとへと近づくことができるということを教えられます。


ここで語られたことは、幕屋でどのようにして神礼拝をなすのかということでした。

神に受け入れられる道筋が教えられているのです。

礼拝の初めに「招きのことば(招詞)」というものが読まれます。

それは、神がまず私たちを御前に召してくださるということであり、それなしには礼拝をささげることすらできない私たちなのです。

圧倒的な聖、輝かしい栄光の前に、人は本来そのままの姿で神に近づけば自ら滅ぶことになります。しかし、神が備えられた道、すなわち罪のきよめのささげ物を通して神のあわれみのうちに受け入れられていくのです。

罪ある人間が滅びずに聖なる神に受け入れられるために、動物のささげ物の頭の上に手を置いて祈ることを主は教えておられます。傷のない動物が選ばれ、私たち罪ある人間の身代わりとしてささげられるのです。 


これはまさに神の子羊イエス・キリストの雛型(ひながた)です。

神が聖なる方であるように、私たちもキリストの十字架の贖いによって罪赦され、聖なる者とされて神に大胆に近づけるようにされたのです。

このために神が払われた尊い犠牲に感謝します。

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