東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 3月 2020

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

2020/03/31

メッセージと祈祷課題


本日の教会での祈祷会は中止となりましたが、ぜひ一人一人が主の前に静まりみことばを味わい、祈りましょう。

祈祷会メッセージ
ヨシュア記5章12-15節 「今置かれている戦いは主の戦い」

音声配信は終了いたしました。

献金をささげたい方は、礼拝の時と同様に封筒・袋等をご自身用意し、心を込めて神様におささげください。

音声のみとなっています。
音量が小さいと思われる場合は、各自でボリューム調整をお願いします。



*** 祈祷課題 ***

1.コロナウィルスの終息のため、感染者のいやしのために。大切な方を失った方々への神様からの慰めや励ましがありますように祈りましょう。

2.日本中、世界中の教会のために。私たちだけでなく、礼拝を持てないでいる教会も多数あります。動画配信もできない教会もあると思います。主が支えて下さるように祈りましょう。教会の財政面も覚えてお祈りください。どの教会も多くの集会が中止になっている影響は小さくありません。

3.闘病中の方々のために祈りましょう。コロナウィルスだけでなく、様々な過酷な病と闘っている方々がいます。主のいやしを求めて祈りましょう。肉体だけでなく、内なる人を主が強めてくださるようにも祈りましょう。

4.お互いの信仰が弱ってしまわないように祈りましょう。交わりが希薄になり、連絡が取りにくい状況ですが、この時にかえってますます、お互いを思いやり積極的に声掛けできるように祈りましょう。

5.福音自由教会協議会の働きのために。また、無牧の教会のために祈りましょう。


可能な方はLINEやメール、電話などでお互いの近況や主から与えられている恵みを分かちいましょう。

    
*** メッセージ ***

ヨシュア記5章12-15節「今置かれている戦いは主の戦い」

日曜日に引き続き、インターネットを用いてということで皆さんのお顔を拝見できないのがとても残念です。

一方で神様の思いもよらぬ恵みもありました。初めての動画配信で戸惑い、作業が完了するまでにだいぶ時間を要してしまいましたが、多くの方からレスポンスがありました。

ご自宅で持たれたゆえに、普段は礼拝に参加されていないご家族が一緒に動画を見ることができたという声、また礼拝には来られていない方の中からも、動画を視聴し礼拝に参加されたとの声もありました。とても心に染みましたという声もいくつか頂戴しました。

悪いことばかりではなく、この機会に教えられることや、この時だからこそ与えられる恵みもあるのだなと感じています。神様のなさることは不思議です。

一方で目の前の現実は甘くはありません。東村山市民ならば誰でも知っている志村けんさんが、コロナウィルスが原因で亡くなられました。本当に残念です。また長い戦いになるとの専門家の意見もあります。やはり人と触れ合うことができず、コミュニケーションが十分にできないことは、人間として非常にストレスですし、弱さを覚えますね。こうした状況の中、主は私たちに何を語っておられるのでしょうか?

今日はこのみことばから、「今置かれている戦いは主の戦い」であることを教えられてまいります。

 今日の場面、イスラエルの民がヨルダン川を渡り終え、ようやく約束の地に到達しました。12節を見ると、荒野で神様が降らせてくださっていた食べ物マナが止まったことが分かります。それ以降、彼らがマナを得ることはもうなかったと語られています。なぜでしょう?12節後半にあるように、「その年、彼らはカナンの地で収穫した物を」食べられるようになったからです。長い荒野の旅路にも終わりがあったのです。そして、この地で収穫できた物を初めて食べられた時に、イスラエルの民の喜び感動はどれほどだっただろうかと想像します。今、私たちは共に集まることの制限を受けています。しばらくの忍耐が必要です。長丁場になるとの見方もあります。でも、会えない状況を通して、共に集まり顔と顔とを合せられることが当たり前ではなく、神様の恵みなのだということを身に染みています。私たちに「当たり前」はないですね。

 さて、カナンの地に入ったとは言っても、この地に安住するためにはまだ大きな試練がありました。この地には神の忍耐を超えるほど罪深い民、目に余るほど罪深い民が住んでおり、ある意味神のなさるさばきの手としてイスラエルの民が彼らと戦っていく必要があったのです(もちろんそれは主が直に命じられた時のみ限定のことです)。

しかし、現実的には目の前の民族は野蛮で、非常に強く、イスラエル人たちはとても敵わないと怯えている者が多くいたほどです。ですから、リーダーであったヨシュアの心は穏やかではなかったでしょう。彼自身不安であり、頭を悩ませていたはずです。13節を見ると、ヨシュアはエリコの町まで行っていることがわかります。その城門は堅く閉ざされていますから、それより手前の方で、これからどうやってエリコを攻略するべきか思案していたのでしょう。

 すると、13節にあるように、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていることに気が付きました。ヨシュアはその姿を見て、新改訳2017の訳では「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」と尋ねたとあります。冷静に穏やかに話している印象ですが、相手は剣を抜き身で持っています。つまり、鞘に納めておらずいつでもヨシュアに切りかかれる戦闘態勢です。

この緊迫した状況で「あなたは味方ですか?それとも敵なのですか」とのんびり尋ねるのは変です。むしろ「お前は味方か?敵か?」といったニュアンスでしょう。戦々恐々と言ったらいいでしょうか。

結局この人は何者だったのでしょう?14節 彼は言った「いや、わたしはの軍の将として、今来たのだ」と。なんと「主の軍」の将軍として来られたのです!!それは天使で構成される神の大軍勢の「大将軍」です。もしかしたら、受肉前のイエス様であったかも知れません(そういう解釈もあります)。

きっとヨシュアは「ひぃ~失敗したぁ~」と焦ったことでしょう。顔面蒼白でしょう!自分は神様の名代として来られた方に向かって「お前は味方か敵か?」と偉そうに言ってしまったのですから。

でも、これが人の弱さではないでしょうか?私たちは不安と恐れに支配される時に、本来敵ではない人をさえ敵として見てしまいます。自己中心に陥ると周りが見えなくなります。
恐れと緊張のあまり「敵か」「味方か」という枠でしか見えなくなってしまうのです。神の民のため、助けるために来られた主の将に、失礼にも「敵か味方か」と尋ねてしまう。それは私たち自身の姿かも知れませんね。

志村けんさんが亡くなった時、中国人に向けてのヘイトスピーチも起こったそうです。コロナウィルスをもたらした「中国人が憎い」というコメントも多く発信されたそうです。

しかし、コロナウィルスが命を奪ったのであって、人ではないことを覚える必要があります。中国人でも亡くなっている方、苦しんでいる方が大勢います。同じように痛み苦しんでいる人々です。

これは大事なことで、これから感染者、重症者、死亡者が増えるにしたがって、コロナウィルスではなく人間を恨む、憎むということが起こりかねません。
ですから、私たちはこの目の曇りを神様に取っていただきましょう。目の前に主がおられることを見失ってはいけません。コロナウィルスで傷つき、亡くなって行く人々を見て、主イエス様は涙されているのではないでしょうか。ラザロが死んだ時に涙されたように。イエス様はそういう方ですよね。

ヨシュアは「はっ」として、すぐに顔を地に付けて伏し拝み、なんとか「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と質問しました。これに対する主の軍の将の答えは不思議です。15節です。  ・・・

どうでしょう?一見するとヨシュアの質問に何も答えているようには見えません。でも、これがヨシュアに「最も必要だった答え」なのです。「ここは聖なる場所、ああなたの足の履物を脱ぎなさい。」と。 

この短い答えの本質はこういうことではないでしょうか?

「あなたは何を自分で偉そうに戦略を立て、攻略を考え、自分一人で戦おうとしているのか?なぜ、あなたはこれまで神が救い、神が助け、神が必要を与え、神がここまで導き入れたことを忘れた者のように振舞っているのか?なぜ、私に聞かないのか? これは主の戦いである!まずは、あなたの自身の罪深い汚れきったその履物を脱ぎなさいここが聖なる神の御前であることを忘れてはいけない。これは主の戦い、主の前にまずへりくだり、主を仰ぎ見よ!」 

コロナウィルスとの戦い、それは見えない戦いです。顕微鏡で見れば見えますよ!という話ではありません。本当の敵はコロナウィルスですらないのではないでしょうか。
もっと深い人間性を問われる戦いであると私は思います。

 ひとりひとりが自分の欲のままに行動することをやめ、弱い人に配慮して、隣人をどう愛すべきかを問われながら歩むべき時なのです。自分のために手洗いをするのではなく、自分のためにマスクをするのではなく、自分のために外出を控えるのではないのです。隣人を助けるため、病を抱える人や免疫力の低い人、心が破れそうな人、そうした弱い人を守り支えるためにこれらをするのです

 必要以上に買い占めを行わないのも、知り合いに見つからなければイイというものではなく、必要としている他の方の手に行き渡りますようにと願ってのことです。

これらはまさに、見えない戦いです。

自分の欲との戦いであり、恐れに支配される自己中心との戦い。

それこそ、主の将軍が先頭に立って、みことばを示しながら導いてくださらなければ勝利できない、見えない信仰の戦いではないでしょうか。

この戦いは主の戦いであり、主が将軍であり、この方の声に忠実に従って、ここに勝利してまいりましょう。



2020/03/30

志村けんさんの訃報


東村山市の名産は何かありますか?
何か有名なものはありますか?
特徴は?

そう尋ねられた時に・・・ 

黒焼きそば、となりのトトロの舞台となった場所がある、都会+田舎=「とかいなか」、多摩湖は結構いいところ・・・色々考えてみても正直パっとしません。

やっぱりなんだかんだ言っても 志村けん さんで有名なんですよね。

東村山市出身で最も有名な芸能人と言えば、志村けんさんでした。

実際とはちょっと違うけれども、「東村山音頭」を世間に広めたのは志村けんさんです。

「だいじょぶだぁ饅頭」というものが売られていますが、これも志村けんさんのコントから生まれたもの。

市報にも、市長と志村けんさんが握手している写真が掲載れていることもありました。

その志村けんさんがコロナウィルスに感染し、日曜夜遅くに亡くなられたとのこと。

東村山市民としては、皆さん少なからずショックを受けていることと思います。ヘビースモーカー、お酒を多く呑まれるということはあったものの、持病のようなものはなかったとも聞きました。

先ほど、だいじょぶだぁ饅頭のお店の前を通りましたら、テレビでしょうか?取材班が来て撮影のようなものをしておりました。

同じ東村山市内にある教会として、とても残念ですし、ご家族やご友人の皆様、ファンの方々に神様からの慰めと励ましがありますようにお祈り申し上げます。


そして、今週さらに都内の感染拡大が進むことを懸念しています。
若い方が都心に遊びに行く姿を多く見ますが、自分が感染して大丈夫だということではなく、自分を通して多くの人の命が危険にさらされる可能性があることを厳粛に受け止め、お互いを思いやりながら行動していかれますようにと願います。

日本は「外出禁止命令」を出すことが原則できない国です。
そういう意味で「自由な国」であり、そこがすばらしい面であります。
だからこそ「自由」を守るためにも、各人が自覚的に行動することが必要です。

もちろん、あらゆる世代の人がこの時、自分のしたいことを少しばかり我慢して、隣人のために配慮する愛、思いやりを持てるようにできたらと願います。

ガラテヤ 5:14  律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。



2020/03/29

3/29(日) 主日礼拝


本日は礼拝堂での礼拝は行いません。
下記の動画を再生いただき、心を合わせて礼拝いたしましょう。
※LIVE配信ではありません。


礼拝動画は終了いたしました。


メッセージ原稿は こちら をクリック


ルカ19章28-36節「主がお入り用なのです」


 皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。  
 今の時、私たちは「厳しい状況」ばかりを見て、毎日感染者何人という数字に囚われ、主イエス様を見つめることを忘れてしまいがちです。主の弟子ペテロたちも嵐の湖で「風」や「波」を見て怖くなり、イエス様から目を離し恐れに支配されてしまう場面があります。その時イエス様は「信仰が薄いのはどうしたことか?」と弟子たちを叱りました。

  まさに私たちは今、コロナウィルスばかりを見て「信仰が薄いのはどうしたことか」と主に語られているのではないでしょうか? 

 今回この状況の中で、私は3.11東日本大震災を思い出し、その時の説教原稿を読み返してみました。あの時も大変でした。こんなことが記されていました。
「何が起こるかわからない世界です。死への備え、大丈夫でしょうか?こういう時こそ、すべてをご存知の神様を信頼している強さ発揮したいですね。また、こういう時こそ、主の福音をしっかり人々に伝えていくべき使命を思わされます。私も子供たちに、ちゃんとイエス様を信じるんだよ!そしたら、何かあっても天国で逢えるからね!と念を押しました。」と。

 
実はこの時、小学生だった長女が確信をもってイエス様を信じる機会になったことを覚えています。何があるかわからない世界だけど、行きつく先は天国!と約束しました。イギリスでは21歳の持病のない女性がコロナで亡くなりました。元気な若い人でも危険があることがわかります。ある意味誰もが、死と命に真剣に向き合う機会ではないでしょうか。

天国でお互いにしっかり再会できるよう、魂の備えをしておきたいのです。ですから、私たちは困難な時に下を向いているだけで終わってはいけません。この時に、神の民の使命は何かということを覚えたいのです。しっかりと危機意識を持ちながら、天国行きのチケットを大切な人々に届けたい。そして、今日のみことばにあるように、私たちにはこの状況において「主がご入用なのです」と語られていることを受け止め、この日本、この世界のためにどうか私を用いてくださいと祈る者となりましょう

 

本日のみことばは、イエス様が十字架に向かって歩みを進め、エルサレムに入城される場面です。来聖日が「しゅろの日曜日」で、35-36節に触れられているように人々がイエス様のエルサレム入城を歓迎し、自分たちの服を地面に敷いて、あるいはしゅろの葉を掲げて歓迎する場面です。しかし、その際にイエス様が必要とされた乗ることが出来る動物がいます。

何でしょうか??久しぶりの3択クイズです(動画配信記念)。 

①だちょう ②わに ③ろば 正解はろばです。
 

29-30節 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

 誰も乗ったことのない「子ろば」でした。イエス様はあそこの村から、子どもろばを連れてきなさいと弟子に頼んだのです。ただ、31節にあるように誰かが「どうして、ろばの縄をほどくのか」と聞いてきたら、こう答えよと言われました。

どう答えるのでしょう?

 「主がご入用なのです」です。すごい答えだと思いませんか。「主がご入用なのです」コレだけです。これで十分だとイエス様は教えておられたのです。

 

これがイエス様の権威です。私たちがお従いしているイエス様は、この世界のまことの王なのですから!

なぜ連れていくのか?主が必要とされているからです。なぜ奉仕するのか、主が必要とされているから。なぜ私のような罪深い愚か者が語り続けるのか?主がこんな者でも必要だと言ってくださるからです。それ以外ない。なぜ生きるのか?主があなたを必要だと言われるからです。私たちはこの一言で十分ではないでしょうか。


 このろば以上に、神様はあなたを必要としています。そうでなければ、どうして自分の大事な子をあなたの代わりに十字架にささげるでしょうか。あなたの髪の毛の数までご存じの神は、あなたを愛し必要としています


 
ワンピースという有名な漫画の名ゼリフを以前若者向けのメッセージのために勉強しました。時間の関係で要約しますが「人はいつ死ぬのか?ピストルで撃たれた時か?不治の病に侵された時か?毒キノコを食べた時か?いや違う。人から忘れられた時さ」 肉体の死よりも深刻な死は、誰からも心配されない、誰からも求められない、誰からも必要とされない事。


肉体は生きていても、愛されること必要とされることを知らない人は「生ける屍」のようです。ですから私たちが、この世界の造り主から必要とされ、お役に立てるとしたら、なんと幸いでしょうか。以前、祈祷会で小さな子どもたちが献金袋を回す役をしてくれていました。献金袋を回すお手伝いができたときの子どもたちの嬉しそうな顔が忘れられません。「お役に立てた!」その喜びです。イキイキしてきます!

 
 でも、疑問があります。なぜイエス様が必要とされたのは馬ではなくろばだったのでしょうか。馬の方がかっこいいでしょう。


第一の理由は、旧約聖書において預言されていた神のご計画だったからです。 ゼカ 9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。 「子ろば」に乗ってエリサレムの入る事は、はるか昔からの神の約束(ご計画)でした。しかし、ろばに乗った王など聞いたことがありません。「王様の耳はろばの耳」ならありますが、「ろば乗った王様」は聞かない。普通、王様は馬に乗ります。立派な馬に乗るでしょう。それは王の権威を示すためでもあります 一方ろばは戦いではほぼ役に立たないし見栄えがしません。しかも子どものろば、小さなろばです。けれどそこにイエス様のご性質を示す意味がありました。  
第二の理由は、イエス様のご性質や使命を最もよく示すのに「ろば」が最適だったということです。ろばは温厚で働き者です。平和の用向きに用いられます。それは、イエス様が柔和で謙遜で誰よりもへりくだる「愛の王」「平和の王」であることを示しています私たちはイエス様の乗られるこのろばのようでありたいと思うのです。

  ろばのようにイエス様を人々のもとに運んでいく者でありたい。ろばのように争わず、平和のご用に用いられたい。馬のように速く走ることができないかも知れません。馬のように足も長くない。見栄えも良くないかも知れない。でも「主がご入用なのです」と主が必要ならば、それだけで誇らしい。それだけでいい。いや、それだからいいのです。むしろ立派な馬ではないからこそ、主イエス様に人々の目が注がれるのかも知れません


 私たちは今、あまり経験したことがないような状況に置かれています。閑散としたイタリア、スペイン、フランスの街並みに驚き、NYの静けさに目を丸くします。この東京でも急激に感染者が増え、ニュースを見るのが段々嫌になってきました。でも、見て把握していないと正しい対処ができない。疲れますよね。でも、この時に「主がお入り用なのです」と私たちは語られました。ロープで縛られつながれたままでは役に立ちません。恐怖に怯えて囚われたままでは、用いられません。しかし、主が必要だと言って、その縄をほどいてくださるのです。主イエス様をお乗せする者になりませんか?


 
 今の時に示されたみことばを分かち合い終わります。

第二歴代誌7:13-14 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。 

 
新型コロナウィルスも疫病の一つと言えるかも知れませんね。その時に、神の民はどうすべきなのか問われています。神の民だからこそできること、すべきことが語られているのです。主は言われます。「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、主の御顔を慕い求めてその悪から立ち返りなさい」と。

これが、私たちに今求められていることではないでしょうか。

 キリストの名で呼ばれているキリストの民、クリスチャンである私たち。世の中の人に「へりくだれ」と言う前に、神の民がまず神の前にへりくだる必要があるのです。強いられてではなく「自ら」です。へりくだる者は主にみこころを求め、主の助けなしには生きられないので、心から祈り、主の御顔を慕い求めます。主の御顔を慕い求めるとは、神様がどのようなお方であるかを知ろうと一心に努め、神様と心の通う親しい交わりを持とうとすることです。神様のお心を理解する交わり、生きた交わりを持ち続けることです。

 主はこの祈りにこそ聞いて、罪の赦しと、この地の癒しを与えてくださるのです。

 

 今回、礼拝をどうするか・・・本当に悩み主の御顔を求めて祈りました。みことばを求めました。それでも、これが正解かわかりません。ただ必死に格闘したことで教えられることがありました。それは「礼拝をした(できた)」という事実や記録が大事なのではなく、「ひとりの人が心から主を礼拝すること」が大切なのだと

 

 礼拝の場に行った、参加した、何回通った、何人集まったという記録ではなく、その人が心から主を礼拝できるか・・・そこが大事です。それを考えた時、今回皆さんが、外出自粛要請の中、感染者急増の中、礼拝に集まるのにさえ迷いや罪悪感を持つ。証しにならないのではないか、迷惑をかけるのでは?と。そして、家庭で礼拝することを選んでも「礼拝に行っている人がいるのに、自分は不信行なのでは」と孤独感や罪悪感を持つ。

 
行っても辛い、行かなくても辛い。どちらもモヤモヤしたまま礼拝するぐらいなら、「礼拝に行きたかったのに、牧師が礼拝を中止にし来るなと言ったので教会に行けなかった。仕方ない、置かれた場で心から礼拝するか」と皆さんに迷いなく礼拝して欲しいためでした。 私は皆さんにお会いできないのはやはりさみしいです。主が下さった礼拝堂に人がいないのは悲しいです。でも、集まれなかったことを通して、大切なことを主から教えていただいていると信じます。

そして、今日はお会いできず、離れていても、私たちは同じ主を見上げている。離れていても、同じ主の民、神の家族であることを信じます。





 

2020/03/27

3/29(日)の礼拝について(3/28朝 更新)

3/29(日)の礼拝について

大変悩みましたが・・・

「礼拝堂での礼拝中止:一律インターネット礼拝」 

とさせていただきます。

※LIVE配信ではありませんが、聖日の朝に収録して10:30~11:00頃ココにUPされます。
できるだけ、日曜の午前の同時刻に視聴いただけるようお願いします(動画自体は日曜日中は見られるようにします)。

 TVのニュースにおける週末自粛の促し、「STAY HOME」と訴え続ける世界の人々の様子、大切な家族を失った方々の必死の訴え・・・それらを拝見しながら、また信徒の皆さんが置かれている状況(未信者のご家族がおられる方々、持病をお持ちの方、年配の方、とてもまじめな方、心の弱い方etc。。。)を考えつつ、苦慮の末この決断に至りました。

理由は以下の通りです。

主はあなたの神を心から愛せよと教えられ、
同時にあなたの隣人を愛せよと教えられました。

礼拝を大切にすることは、主を愛することだと確信します。
しかし、今のままでは、礼拝堂に来る方がご家族の制止を振り切って来られ、あるいは他の人に感染させていないかと心配しながら来られ、あるいは近隣に気を遣いながら来られる等、どこかに罪悪感を持ちながらの礼拝になってしまうのではないかという懸念があります。また、家庭で礼拝する人も自分だけが礼拝堂に行かなかったのではないか、不信仰なのではないかというやはり罪悪感に似たものを持ちながらになるのではないかと懸念するのです。

私も散々悩みましたので、皆さんも非常に悩まれ葛藤し、どちらを選択してもどこかに不安や罪悪感を感じながらになり、心から礼拝できないのではないかと示されたのです。

それならばいっそ集いたくても一律インターネット礼拝になったので無理でした」いうやむを得ぬ状況にし、皆さんが罪悪感を持たずに等しく家庭で礼拝していただくという方が主を愛し、隣人を愛する道ではないかと思うに至りました。

情報が二転三転して大変申し訳ありません。
ご理解いただければ幸いです。


ただし、分かち合ってきましたように安息日を覚えて聖なる日とせよ」ということは、インターネットで礼拝するにしても大事にすべきことです。主の日を聖なる日、喜びの日、栄えある日として過ごしていただきたいと切に願います。インターネットだからと軽んじることなく、心から礼拝して欲しいのです。


動画の配信について

当ページからyoutubeでメッセージ動画が見られるようにリンクを設置予定です。

3/29(日)の朝10:30頃に見られるようにと考えています。



そして、できるならば平日においても可能な限り3密を避けることを皆様にお勧め申し上げています(若者のLINEグループでも呼びかけました)。

休めるならばアルバイト等も無理しないことをお勧めします(しなければ生活できないのならば仕方ありません)。

皆で協力して、コロナウィルス感染拡大予防に努めたいと思います。


わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。(Ⅱ歴代誌7章14節)

このみことばをもとにした賛美「ニッポン」 ぜひ聞いてください。
今、私たちキリスト者こそ日本のため、世界のためにへりくだって祈りたいと思います。

(seseragi worship さん)

民がへりくだり祈り 主の御顔を慕い求め
立ち返るなら あなたは
    罪ゆるし この地いやす(2番 親しく 聞いてくださる)

※繰り返し 
わたしの国 このニッポンを 生まれそして育った ふるさとを
わたしの家族を友だちを 主よ救ってください




2020/03/26

東京都知事の緊急記者会見を受けて

3/25(水)20時から東京都の小池都知事が緊急の記者会見を開きました。
25日の1日だけのコロナウィルス感染者数が41名となったことを受け、「感染爆発(オーバーシュート)の重大な局面」であると発表しました。そして、都市封鎖(ロックダウン)を避けるために、在宅ワークの要請、夜間外出の自粛、3密(密閉、密集、密接)を避けること、週末の不要不急の外出自粛要請が出されました。

私たちにとって礼拝は非常に大切なものであり、決して不要不急ではないと考えます。しかしながら、この都知事の要請を真摯に受け止め、これまでよりも一段強い要請と理解し、東村山福音自由教会における3/29(日)の日曜礼拝をどうすべきか現在協議中です。

願わくば、全知全能の創造主なる神からの良い知恵が与えられ、心より祈りながら感染予防の一助となりつつ、神のご栄光を現す道を決断していきたいと考えています。明朝3/27(金)の朝までには当ホームページにて最終決定をお知らせいたしますので、皆様のご加祷をぜひともお願い申し上げます。

2020/03/24

諸集会についてのお知らせ(3/24更新)


新型コロナウィルス感染予防に配慮して、礼拝と諸集会の開催について下記のようにしております。
黒字:実施予定  赤字:中止、延期

3/29(日)礼拝堂での礼拝は中止:インターネット礼拝

4/1(水)祈祷会(朝/夕)検討中 朝:10:00~、夕:19:00

4/4(土)召天者記念礼拝(墓前礼拝)延期 
     

4/5(日) 中止 ⇒ 聖餐式 礼拝、教会学校は検討中
 

4/8(水)祈祷会(朝/夕)実施 朝:10:00~、夕:19:00

4/12(日)SJC(小学科)/JYLC(中高科) 9:45~10:10 ※短縮にて実施 
    イースター礼拝 10:30~ 
    中止 ⇒ イースター祝会


これ以降のことは、随時検討してまいります。

集会時には、配慮事項として以下のことをご協力願います。
・手洗い・アルコール消毒をお願いします。特に手洗いは丁寧にお願いします。
・体調の悪い方、熱が37.5度以上ある方は無理せず、ご自宅で療養ください。
 後でホームページにてメッセージの概略がUPされます。そちらを味わってください。
 朝、検温していただけるようお願いします。
 また、熱がなくても具合の悪い場合は無理せずお休みください。
・通常、礼拝ではマスクはしませんが、例外的に可能な限りマスク着用をお願いします。
 教会には配布用マスクがいくらかございます。
・聖餐式はしばらく延期といたします(コロナウィルスが落ち着いてから行います)。
・席には余裕をもってお座りくださり、密集状態にならないようご注意ください。
・換気も十分に行いつつ実施します。ご協力ください。
※当教会堂は大きな窓も多く、吸気口、換気扇もしっかりと完備されており、集会前後には換気を十分行っております。手洗いソープ、消毒ジェルも備え付けております。


なお、東北医科薬科大学医学部 感染学教室 特任教授である賀来 満夫先生が中心になって監修している「市民向けハンドブック」がPDFファイルにて手に入ります。
http://www.hosp.tohoku-mpu.ac.jp/info/information/2326/
賀来先生は感染学の専門家でこのわかりやすく読みやすい内容ですのでご参照ください。

※賀来満夫(かく・みつお)氏について

 大分県の生まれ。長崎大大学院医学研究科博士課程修了、同大学病院講師、聖マリアンナ医科大助教授、東北大医学系研究科教授などを経て2019年より東北医科薬科大 医学部 感染学教室 特任教授に着任。プロ野球・Jリーグによる「新型コロナウイルス対策連絡会議」の専門家チーム座長。

一日も早い終息を主に祈りつつ。
皆様も心と体の健康にご留意ください。
主の恵みと祝福が皆様の上に豊かにありますように。

東村山福音自由教会

2020/03/22

ルカ19章11-27節「主人を信頼する忠実なしもべ」


以前、ユースの働きについてお話をさせていただいた時にお伝えした一つのことは「信頼なくして指導なし」という事です。
信頼関係が築かれないと、なかなか指導のことばが届かないのです。

仮にある人が全部正しいことを言ったとしても、その人に対して信頼がなければ、何を言っても受け取ってもらえないと思います。

でも、反対に深い信頼関係があるならば、先が見えない中でも、その人のことばに従って躊躇なく行動できるのではないでしょうか。

「信仰」とは、より分かりやすい言葉で言うと「信頼すること」だと言えます。
神様の存在を信じてはいても、神様を信頼していないというケースも少なくありません。

信仰の確信がない、信じているのに喜びや感動がない・・・それは「信じている」とは言いながらも、「信頼して歩めていない」という事かも知れません。

イエス様は言われました。「わたしが来たのは羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と。豊かに得るために来てくれたのに、豊かに得ていないのなら、もっとイエス様に信頼して豊かに得させていただきましょう!


1.すべてのキリストに等しくゆだねらている1ミナ

 イエス様はあるたとえ話をされました。
12節 イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。
13節 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 

この身分の高い人とはイエス様のことです。イエス様は遠くに行ってしまいます。それは十字架の死後、天に昇るということ。
そして「王位を授かって戻って来る」とは、世界の真の王として終わりの日に再臨されるということです。

その時まで、キリストの弟子たちに働きをゆだね、私が帰るまでしっかりと神の国のために働きなさいということです。

 そんな中、14節では反対者のことにも触れられています。
14節 一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。

「イエス様が王となることなど、俺たちは望まないぞ!」と言う人々がいるということです。イエス様を妬ましく思っていた宗教指導者、律法学者などです。イエス様を救い主だとは認めない人々です。

ただ、認めないのは自由ですが、王に平然と逆らう者はその身を滅ぼすことも知っておかなければなりません。27節にある通りです。

さて、話は戻りますが、この主人は全員に1ミナずつを与えて旅立って行きます。ちなみに1ミナは、約100日分程度の収入です。現代で言えば日給1万円換算で100万円ほど預けられたということです。

 実は、このたとえ話と似た話がマタイの福音書にもあるのですが違いがあります。マタイでは、最初にあずけられる額に違いがあり、賜物の違いを意識しています。

しかし、ここでは全員に同じ額をあずけています。すべてのキリスト者に平等に同じだけ与えられているものが、この1ミナだということです。

それが具体的に何かは書いてないのですが、キリスト者に等しく与えられていて、それを用いて豊かに増やすべきもの(増やせるもの)。 

それは「救いの恵み」、「福音」ではないでしょうか?

救いの恵みは分かち合うほどに豊かにされ、救われる者が起こされ増えていき、決して減ることはないでしょう。与えられた福音は、分かち合うほどに自分も豊かになり、人々に喜びをもたらし神の国を拡大しますよね。神様から「救い、福音」を受けた者として、どう生きるかが問われているのです。


2. キリストの再臨の時に 

 話は進み、イエス様が王として帰って来られる時の話になります。終わりの時です。

イエス様はそれぞれのしもべ、弟子たちに様子を聞きます。私がいない間どうだったのかと。大変でしたか?辛いこともあったでしょう?そういう中でよく忍耐して頑張りましたねと労っていただけたら幸いです。

私たちにとって、これは本当に慰められる嬉しい時ですよね。

最初のしもべは、預かった1ミナを用いて10ミナに増やしました。忠実なしもべです。

17節で主人のことばをいただいています。

17節 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』 

また、別のしもべも預かった1ミナを5ミナに増やしました。この人も5倍に増やしたので、5つの町を治める者になりなさいと、より大きなことを任せられます。

ただ、もう1名しもべが登場しますよね。20節です。 

20節 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。

もうこれ「アカンやつや」とすぐに分かりますね。何のために任されたのか分かりません。せめて銀行に預けてお金を少しでも増やせば良かったのにと言われます。この当時はいわゆる銀行はないものの、金貸し業はありました。何もしないよりは、金貸しに預けて少しでも増やした方がマシだと言うのです。

私たちはここからどう受け止めるべきでしょうか。少なくとも最後の布に包んでおいただけの「しもべ」にはなりたくないですよね。この者は取り上げられてしまいます。

そうではなく、最初の二人のしもべのようでありたいのです。イエス様とお会いする日、「あなは本当によくやりましたね。忠実な良いしもべですね。御国ではさらに豊かなものを与えましょう」とおほめの言葉をいただきたいのです。

そんなことばをいただける程、自分は忠実ではないなと思わされます。

でも、すばらしい恵みをもらったのだから、ほんの少しでも多くの人に分かち合い、5倍10倍になるために祈り仕えたいと思うのです。

そのためにも、なぜ、この最後のしもべは、何もせず布に包んでいたのかを知ることがヒントになります。


3.主を信頼して踏み出していくこと

なぜ、この人はこんなことをしたのでしょうか?

理由が21節にあります。

21節 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』 

ご主人、あなたが厳しく不条理な方だから、「怖くてできませんでした」という言い分です。ようはご主人様を信頼して行動できなかったということです。
 
私たちには「怖くて一歩を踏み出せないこと」がしばしばあるのではないでしょうか。

私自身は「厳しい助言」を申し上げるのが苦手なんだなと思うことがあります。
中には「ウソでしょ?」と思われる方もあるかも知れませんが、本当です。

厳しいことと言うのは、もちろん聖書が語っている真理のことです。それが正しい事、良い事なのがわかっており、その人に必要なことだとわかっている。そこまで分かっていてさえ、恐れて言えないと思ってしまうことがあるのです。

相手の方が受け止められないかも知れない。これを言ったらもう教会に来ないかも知れない。もう私の話に耳を貸さないかも知れない。そう思うと言えなくなります。自分がそれを言うことで、この人が神様から離れたら自分のせいではないか?1ミナを増やすどころか、マイナスにしてしまうのではないか?と「恐れる」のです。
 
でも、この恐れは結局、神様を信頼していないゆえに起こる「恐れ」であり、まったき愛から出ていない「恐れ」です

その人を愛するならば、その人を大切に思うならば、言わなければいけないこと、伝えなければいけないことがあります。嫌われる勇気をもって言わなければならない時があります。とても勇気が必要で、出来るなら逃げたくなります。自分の代わりに誰かが言ってくれればいいのに。そうすれば、自分はその責任を負わないで済むのにと思います。

でも、ここで逃げる限り1ミナを包んでいるだけの人になる。私は主からそう問われています。皆さんはどうでしょうか?

信仰歴が長くなって無難な信仰生活は送れるかも知れません。でも同時に踏み出さない歩みに慣れてしまってはいないでしょうか。1ミナを包んでいるだけの歩みになってはいないでしょうか?

私たちは主を信頼して、このリスクの中に一歩踏み出す必要があります。リスクのない投資はないと言われるように、豊かになるためにはリスクは当然あるものです。

しかし、もう一つ当然にあるものを忘れてはいけません。

そのリスクさえも益に変えることのできる主の守りも確かにあるのです。

ピンチをチャンスに変えてくださる主の恵みのわざです。

私たちの言葉の足りなさ、私たちのタイミングの悪さ、私たちの配慮の欠け、そうした破れをすべて繕って、1ミナを豊かに増やしてくださるのは主ご自身なのです。

1ミナを10ミナにした人はどういう人なのでしょう。
増やさなかった人より能力があるということでしょうか?優れていたのでしょうか?

イエス様が能力の話をしているはずがありません。この人は主人を信頼して踏み出した人なのです。

 ゼカリヤ書にもこうあります。4:6「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は言われる。 

権力じゃない。能力でもない。ただ主の御霊の力によってなす。

それは主に信頼して歩む人の特権ですよね。

自分の能力を超越した部分で、主の助けが働くことを信じて歩むのです。誰もが怖いのです。しかし、見えないリスクだらけの中を主が共におられるからと踏み出していくのが主を信頼して忠実に従う人の歩みではないでしょうか。

聖書には1ミナを何倍にも増やした信仰者が語られています。

 行くべき場所がわからないけれど、主が行けと言われたから旅立ったアブラハムのように。王族であったのにエジプトの誉れや宝を捨てて、神の民ともに苦しむことを選んだモーセのように。強大な敵があふれかえる約束の地カナンに、主を信頼して踏み入ることを進言したヨシュアとカレブのように。

身を守ることばかり考え1ミナを布に包んでおくのはやめましょう。与えられた「救い」「良き知らせ」「真理」を大切な人にしっかり伝えましょう。恐れないで主の教会に招きましょう。終わりの日の主のことばを楽しみにして!

19章17節 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』


2020.3.22 礼拝メッセージ概略





2020/03/15

レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」


レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」



今日のみことばは、今の時ほど心に染る時はないように思えます。


祭壇の火を燃え続けさせること。


この火は消してはいけませんでした。


祭司が責任をもって、燃え続けさせるのです。この火が祭壇の上に絶えずあり、燃え続けている。それはイスラエルの民にとって、いつでも神様との交わりを覚えるものであり、神による救いの恵みがそこにあることを意識できる「目に見えるしるし」でありました。


私たちの信仰の火も消してはいけません。燃え続けさせる必要があります。

私たちが掲げるキリストの十字架も人々から見えなくしてはいけません。いつでも高く掲げ続ける必要があります。神の聖さにあずかる罪のゆるしときよめ。この福音の「炎」を燃え続けさせ、人々から見えるようにしていなければなりません。祭壇の火を消してはならないのです。

新型コロナウィルスの感染は拡大を続けています。WHOが「パンデミック」宣言を出しました。つまり、「世界規模での危険な感染症の流行」であると宣言したということです。

このような状況で、私たちは集まることについて制限の中にあり、時には反対の声もあるのではないかと意識しながら、それでも主のみことばがヘブル10:25「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」と語っていることから、ともに集まっているのです。

ある姉妹が、先週は家から出ずにインターネットを用いての礼拝をささげました。それも確かに感謝な時であったと言われました。けれど「やっぱり教会に行って皆さんと礼拝したいです」とおっしゃられました。私はそのことばだけで、どれほど励まされたことでしょうか。

色々な判断があります。何か一つが正解ではないでしょう。集まっての礼拝を中止せざるを得ない方々もあり、他人事ではありません。祈らされます。

でも、できるうる限り私は皆さんに、祭壇の火がここで燃え続けていることをお見せしたいと思うのです。この祭壇の炎が消えないように燃やし続けることが、私の使命であると思っているのです。

そして、薪は1本ではあまり燃えません。長く燃えず、火も大きくなりません。

けれど小さな細い薪でも、ともに集まり合わされば大きな火となり、より長く燃えることができるのです。

本日は祭壇の火を燃え続けさせるとは、現代を生きる私たちにとってどういうことなのか。ともに教えられたいと思います。



1.祭壇の火を燃え続けさせる意義

6:9 「アロンとその子らに命じよ。全焼のささげ物についてのおしえは次のとおりである。全焼のささげ物そのものは、一晩中、朝まで祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火をそこで燃え続けさせる。 


今日の場面は再び「全焼のささげ物」の話に戻っています。「全焼のささげ物」自体の意味は「自分自身を献げる=献身」の意味がありました。イスラエルの民が神様に受け入れられるように動物の犠牲をささげます。まさに「礼拝」行為であったと言うことができます。


ただ、その時に大きな妨げになるものがあります。何でしょうか?


私たちのうちにある「罪」や「汚れ」です。


神様にささげる時、私たちのうちにある罪を神様は喜ばれませんし、それは受け取られませんよね。ですから、この罪を取り除くことが必要でした。


そこで、必要なのが「火」でありました。

聖書において火の一つの役割は罪を燃やし尽くす「きよめ」でありました。


マタイ3:11-12ではバプテスマのヨハネがキリストを指してこう言っています。開きましょう。「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」


イエス様がもたらす炎によって「きよめ」がなされ、罪や汚れといった不要なものが燃やされます。キリストの十字架こそ、罪を焼き滅ぼす炎と言えるでしょう。


レビ記に戻りましょう。祭壇の上で燃え続ける「火」にはささげた者たちの罪や汚れを取り除き、神に受け入れられるものとする大切な働きがありました。

反対に、この炎なしには、罪や汚れを除かれることもなく、従って神に受け入れられるささげ物となることはできませんでした。


 それゆえ、この火は燃え続けさせるべきものとして命じられていたのです。12-13節

12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、その上に薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする。13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。 


正直くどいと思えるほど強調して祭壇の火を燃え続けさせよと命じられています。祭司は朝も夜も、夜中もこれを見張り燃え続けるように心を割かなければなりませんでした。そう思うと私にはちょっと無理そうだなと思ってしまいます。けれど、それほど燃え続けさせることが大切だったのです。


なぜなら、常に祭壇の火が燃やされているということこそ、神の聖なる炎によって常に「きよめ」がなされているという「しるし」だったからです。いつでもそこに行けば「罪の赦しの救い」が確かにあるという「証し」だったからです。


人が自分の罪深さに押しつぶされ絶望しそうな時、神に見捨てられたのではないかと不安に思う時、この燃え続ける祭壇の炎を見るならば、ああ主は生きておられる!主は見捨てることなく絶えず私たちの罪と悪を滅ぼし、私たちを受け入れておられる!あそこに救いがある!と人々は意識することができたのです。






2.現代を生きる私たちにとって


 現代を生きる私たちはどうでしょうか?


「万人祭司」ということばが示すように、すべてのクリスチャンが祭司の役目を担っています。私たちが受けた救いの炎を、消してはならずまた隠してはなりません。それが人々にとって希望の炎だからです。


教会に与えられている「祭壇の火」を消してはなりません。いつでも私たちがここで主を賛美し、ともに祈り、神のいのちのみことばに生き抜き、ここに「神の救いの炎」があることを絶えず示し続ける使命を担っているのです。


主は命じておられるのです。

祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。

火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。



 教会はどんな時でも、人々が逃れて来ることができる逃れの場でありたいと願います。海を照らす灯台の灯りを頼りに、多くの船が港にたどり着くことができたように、私たちもこの地で灯台となって、彷徨っている多くの人々を導きたいのです。ここに「救いの港」があることを示し続ける使命を帯びているのです。




苦しんでいる人々にここにいやしと慰めがあることを示さなければなりません。


見捨てられている人々に、ここには決して見捨てられることのない神の愛があることを示す使命があります。


真理を求める人々に、真理の光がここにあることを見えるようにしておかなければなりません。


確かに私たちには具体的に助けになれず、無力さを感じることも多くあります。

金銭を求めて来られる方もいらっしゃいます。ペテロが言ったように確かに金銀は私たちにはほとんどありません。


介護の苦しみを抱えて来られ、助けて欲しいと言う方に、確かに代わりに介護をして差し上げることもできません。


コロナウィルスを前に、特効薬を開発する力もないでしょう。私たちは無力だと思うかも知れません。




しかし、私たちは無力でも、私たちには指し示すことのできる「祭壇の火」があります。


「祭壇の上で燃え続ける火」を指し示すことができるのです。


 すなわち、神の救い、罪の赦し、キリストの十字架です。そこにある慰め、いやし、平安、希望です。



それしか出来ないと考えるでしょうか?


それとも、それを指し示せることが何にも優るものと考えるでしょうか?


皆さんはどちらでしょう?

 

もちろん後者ですよね。

なぜなら、すべての苦しみ、すべての困難、すべての悩みの根底には、必ず「罪」の問題があるからです。人間のあらゆる不幸の根底に「罪」という問題があるからです。マスクも日用品も足りなくなるのは、まさに自己中心の罪の問題です。差別が起こるのもコロナウィスルが原因ではなく、人の心に潜む差別意識が表面化しただけの話で、元々あるものです。むしろ、人の心の奥に潜む闇が、コロナウィルスをきっかけにして表面化したに過ぎないのです。


そして、ある人はコロナウィルスさえ無くなればともう安心だと思うでしょうか。


残念ながらまた別のウィルスが私たちを苦しめるでしょう。


私たちの根本的な問題の解決には、魂の救い、全人格的な救いが必要なのです。一つの危機が去れば安心というのは、その場しのぎに過ぎず、去った時には既に次の不安におびえているのです。


 この根本的な問題への唯一の解決こそ、祭壇の火であるイエス・キリストの十字架です。私たちはあらゆる時代の、あらゆる問題の根にある「罪」という死に至る病に対して、「最高の特効薬」を手にしているのではないでしょうか。


この世のあらゆる悪人もウィルスも、災害もせいぜい私たちの肉体までしか滅ぼせません。たましいを滅ぼし、たましいを生かす力を持つ神様を味方とできる良き知らせ、福音を私たちはゆだねられているのです。


 この困難な状況において私たちがすべきことは何ですか?何ができるのでしょうか?他の人々と一緒に怯えて隠れて祈ることでしょうか?それはイエス様を信じていない人でも誰でもしていることです。私たちがすべきは何でしょうか?


 祭壇の火を与えられた者として、火を燃え続けさせ、人々にここに救いがあることをお知らせすることではないでしょうか。死の恐怖に対する最大の解決は「死への勝利」しかありません。


 新約時代の祭壇の火、すなわち「キリストの十字架」こそ、私たちがいつでも燃やし続け、人々に示し続ける炎です。


10代の娘が、教会の年配の姉妹を見て言うのです。「自分は年をとったら、〇〇さんのように、ああいうおばあちゃんになりたい」と。


普通、今どきの女子高生が言うでしょうか?


多くの女子高生は、お年寄りを見て「ああはなりたくない」と言います。


でも、彼女は教会で若々しく、いつも神様を賛美しながら感謝にあふれて生きているおじいちゃん、おばあちゃんを見ているのです。すばらしいモデルが教会にいらっしゃる。良い目標、良いモデルです。そこに熱い信仰の火が燃えているからです。


 蒔が一本ではすぐに消えてしまいます。でも、蒔が多くくべられるほどに火は大きく、長く続きます。この時こそ、この火に皆で薪をくべ続け、暗闇の世界に灯りをともし続けましょう。





2020.3.15 礼拝メッセージ概略

2020/03/13

コロナ不安の中で、地に足をつけて歩む


心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。(箴言3:5)

 
新型コロナウィルス関連の情報は、週ごと、あるいは日ごとに変化しており、対応の難しさを感じています。2週間の自粛要請と思っていたら、10日間の延長をお願いするという情報。そして今後もまた変化していくことでしょう。

いつまで自粛すべきなのか、どこまで自粛すべきなのか。難しいところです。
ただでさえ消費税で冷え込んでいる消費が、この影響でますます冷え込み、日本の経済に深刻なダメージをもたらす危険も感じます。

また、過剰な対応によって人が傷ついているケースも少なくありません。
感染した人は被害者でもあるのに、同時に加害者とされ、行動を明らかにされ制限され、あるいはバッシングを受けて、プライバシーや人権を失いかねません。

職場において、少し体調が悪いというだけで出社することを拒まれ、新型コロナの検査結果が出るまで身動きできないという状況もあるようです。当然ながら仕事を失っては家族を養えませんから、体調が悪くても無理をして「元気です」と偽って働く人が続出することでしょう。

それは結果として企業にとっても、社会にとっても大きなマイナスではないでしょうか。
どんな時でも見誤ってはいけません。

大切なのは「人」であり、人の幸せのために設けられた「ルール」が人以上にならないようにと願います。

聖書にもこうあります。

わが子よ、見失ってはならない。知性と思慮をよく見守れ。(箴言3:21)


知性と思慮深さから離れ、獣のようにわきまえもなく感情的にならないようにと願います。恐れと不安から取り返しのつかない言動、決断をすることがありませんように。

もちろん、安易でゆるすぎる対応もまた責任を問われることであり、知恵をもって対処しなければなりません。気をつけるべきことは慎重に気をつけ、クラスターとならないように細心の注意が必要ですが、バランスを失わないようにしたいものです。

そこですべきことは「心を尽くして主に拠り頼むこと」です。
「わかったつもり」の「自分の悟り」ではなく、すべてをご存じの神にこそ拠り頼み、上からの知恵をいただく必要があります。

上からの知恵をいただく者は、謙虚さを学び、孤独にならず人々からも学ぶ姿勢を持つことになります

自分勝手な判断に陥らないように祈り、主のみことばからともに教えられましょう。主のもとにこそ、確かで安からな道が備えられています。主にあって冷静に、祈りつつ歩みましょう。


また、新型コロナウィルスの影響による「うつ」の発症、深刻化もあるようです。当然のことと思います。見えない不安、外出に神経を使い、マスク・日用品が手に入りにくい状況。残念ながらTVやインターネットでも、あまり前向きな情報がなくかえって不安が煽られそうな日々に思えます。そうした心のケアも大切な対策の一つであると思います。

みことばにこうあります。

ヤコブの手紙4章13-15節
13 「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
14 あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。
15 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。


3日先のことを心配すれば3日分心配増えます。10日先なら10日分心配が増えます。
半年先、1年先、3年先・・・その分多くの心配が増し加わります。

しかしながら、ここにあるように私たちの存在は神の前には「霧」のように、すっと現れては、すっと消えていく者であることを覚えるとき、歩み方が変わります。

朝、目覚めた時に「ああ、今日も生かされている。この1日、神様のみこころに沿って充実した良い1日を過ごそう。神様、どうかお守りください。」と祈る者とされるのです。

神のみこころであれば、この日も生かされます。

来年生きていることは当たり前ではありません。
けれども、当たり前に生きている大前提で心配しすぎている私たちではないでしょうか。
備えは大切であり、蓄えも必要です。

けれども、将来を心配することに多大なエネルギーを使って、今日という1日を大切に生きられないとしたら、なんと残念なことでしょうか。

どうか、皆様の1日1日が充実した良いものとなりますように。


教会としての集会中止情報などは随時更新されています。
コチラをご参照ください。








2020/03/08

ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


コロナウィルスは、コウモリやラクダなどにおもに感染するウイルスだそうです。今回もコウモリが感染源ではないかという情報もありますね(現時点では正確なことはわかっていないようです)。どちらの動物も聖書に記載があります。レビ記11章では、興味深いことに「食べてはいけない動物」として分類されています。おそらく昔からこれらの動物は体内に様々な病原菌を宿す動物だったのでしょう。当時のイスラエルの民が、神様の教えに従って歩むことで、これらのウルスから守られたのだと改めて思わされます

ある兄弟が分かち合ってくださいましたが、アメリカの医療従事者の統計で、教会に通う人とそうでない人の寿命の調査があったそうです。それによると平均寿命で7年、教会に通う人がそうでない人より長かったそうです。

聖書から人生を学び、知恵をいただき、心に励ましをいただいて生きる。その違いが現れているのだと思います。

困難な時だからこそ、信頼できる主のみことばに親しみ、キリストの十字架をますます近くで仰ぎ見て強められながら歩んでいきましょう。 

さて、今日みことばに登場するのは一人の盲人で。彼はイエス様が来られたのを知り、どのようにイエス様を求めたのでしょうか?イエス様はどのように応じられ、そこに何が起こったのでしょうか?


目が見えない彼はおそらく普段から道端に座って物乞いをする生活です。当時の盲人は、十分に学ぶ機会もなく教養も得られませんでした。差別と偏見に囲まれ、知識を得る機会もなく、人々からの施しで生きて来た人生。それは彼にとって「惨めな人生」であったことでしょう。

しかし、イエス・キリストを求める時、すべてが変わります。惨めな人生から喜びの人生へと導かれました。

彼は目が見えない分、音には敏感だったことでしょう。いつもとは比べものにならないほど多くの人がやってくる足音を聞いて、何事かと疑問に思い尋ねたのです。彼が聞いた情報では、ナザレ人イエスが目の前を通るのだというもの。情報自体は多くありません。しかし、この盲人にはそれで十分でした。彼はイエス様を呼び求め始めたのです!

38 彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

 目が見えませんから、イエス様がどのあたりにいるのか。遠いのか近いのか。具体的にはわかりません。ですから聞こえるように大声で言ったのでしょう。しかし、これに気づいて迷惑がる人もいました。幾人かの人たちは彼を黙らせようとしたのです。

39 先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。 

彼は注意され、怒られてしまったわけです。人々から注意され怒られれば、そこでやめる人が多いでしょう。私たちもたしなめられたら、心が折れて「もういいや」となる事が多いのではないでしょうか。「潔い」と言えばそうなのですが、あっさり引き下がるべきでないこともあると思います。

少なくともこの盲人は、この機会を逃したらもうイエス様に会えないかも知れない、今しかないと思ったのです。

だから注意されてもイエス様に叫ぶのをやめず、それどころかますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫びました。

実に38節のことばよりも、39節のことばは強さ、激しさを増しています。39節のことばは強い半狂乱のような獣のような叫びに用いることばです。それだけ彼は必死にイエス様を呼び求めたのです。もはや他の人の反応などどうでも良かったのです!



私たちは問われます。彼のようにイエス様を求める姿勢があるだろうか。彼のような情熱があるだろうか?他の人が止めたらあきらめる。それは確かに「聞き分けの良い優等生」です。波風立たせずに生きる道です。

一方でそこに「情熱」はあるのでしょうか?

情熱は英語で「passion」ですが、「passion」には「受難」という意味もあります。興味深いなと思います。

Passion of JESUS CHRIST」という映画がありました。「イエス・キリストの受難」とも、「イエス・キリストの情熱」とも訳せます。

映画を見た者としては二つの意味を持たせているように感じました。

私たちが真剣に「情熱」を傾けるのならば、それに伴う「受難」が必ずあります。
この盲人が情熱的にイエス様に叫んだことで、たしなめられるという受難が起こったように。そして聞き分けの良い優等生は確かに「受難」を通りにくいでしょうけれど、必死に神を求める「情熱」によって得られる恵みも得ることができないままかも知れません



では、イエス様は彼の半狂乱のような叫び、彼の救いを求める「passion」をどのように受け止められたのでしょうか? 

40-42節 40 イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」 

主イエス様は立ち止まって、彼を連れて来るよう命じ、彼の求めに応じて彼の目をいやされました。主は本気で求める者を止めたりなさいません。むしろ、喜ばれたのではないでしょうか?

ですからイエス様はこの出来事を「あなたの信仰があなたを救いました」と言われたのです。いやしてくださったのは当然父なる神様です。

けれど、あえて「あなたの信仰が」と言われました。それは主を求める熱心な信仰を喜ばれたということでしょう。神様の願いは「罪を一つも犯さない完ぺきな人生を送ること」ではありません。この盲人のように、人の目など気にしないで神様を心から求めることです。


クリスマスの時に話される有名なエピソードがあります。
ある国のクリスマス。知的なハンディキャップを抱えた子が、教会の降誕劇に参加することになりました。彼は宿屋の主人の役です。一晩泊めてくださいと来るヨセフとマリア夫婦に対して、「だめだ!部屋はない」と言って家畜小屋を指さす役です。彼は一所懸命練習し、いよいよ当日を迎えました。ヨセフとマリア役の子がベツレヘムに着き、「すみません。宿をお借りしたいのですが。」と言ってきた彼は練習通り「ダメだ、部屋はない。」と言って馬小屋を指差すことができました。大人たちもほっと胸をなでおろしたそうです。ところが次の瞬間、この子はワァッと声をあげて泣き走り出し泣きながらマリア役の子にしがみついたのです

そして言いました。「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋は、寒いから。イエスさまが風邪を引いちゃうから、馬小屋に行かないで、馬小屋に行かないで」劇は中断してしまいましたが、今までにないほど感動的な劇となったそうです。

 台本通りできなかったのに、私たちはこの姿に感動を覚えます。


 なぜ感動を覚えるのでしょうか?
 

 この子のイエス様に対するまっすぐな愛を感じるからです。


 Passionにあふれているからです。


 台本通りにせよという指導も、失敗しないようにと見守る大人たちの目も、彼のイエス様に対する熱い愛を止めることができなかったのです。

 この盲人も、人々の制止の声など無意味でした。他の人は「ナザレ人イエス」だと紹介したのに、「いや違う、ダビデ王の子孫、救い主イエス様」だと信じて疑わない姿勢です。黙れ、うるさい!という声があっても、ますます叫びイエス様を求める情熱です。



見える部分に従って生きている私たちにとって、とても考えさせられる場面です。他の人の評価に流されすぎる私たちにとって、目の見えない彼の姿勢から「純粋な信仰」を教えられるとは、神様はなんと不思議なことをなさるのでしょうか。
この時イエス様のまわりにいた誰よりもイエス様の本当の姿をハッキリ見ていたのがこの盲人でした。

よく「見せてもらえば信じます」という発想を私たちは持ちます。「目の前にイエス様が現れてくれれば」と。けれど、その言い訳は通用しないことがわかります。なぜなら、この盲人は見ずに信じたからです。文字通り見えないのです。

けれど、誰よりもイエス様を見ていたのです。誰よりもイエス様を見つめていたのです。誰が止めても無意味なほどに、彼は強く叫びイエス様の前に出たのです。

こうして彼はイエス様によるいやしを経験し新しい人生に歩み出します。
43 その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。 

 彼の信仰の情熱が本物だったことがここでわかります。見えるようになって終わりじゃないのです彼は神をあがめながら、イエス様について行きました新しい人生の始まりです。そこに真の喜びも感動もあったことは言うまでもありません。

 そして、この出来事によって、人々神様を賛美しました。
 今まで誰にも目を留めてもらえない惨めな人生でした。道の端っこで邪魔にならないように座り、皆さんに恵んでもらってどうにか生きる人生でした。でも、彼はこの瞬間、人々を神様へと導く、人が神様を賛美したくなる「信仰の証し」を成したのです。ものすごく大きなインパクトを与え、宣教のわざに参与したのです。彼の姿を通して、神の栄光が現されたのです。

 私たちもこの姿から教えられましょう。

 置かれた環境を嘆いていないでしょうか。

 大人しい優等生のような信仰で静かに人生を終えようとしていないでしょうか。

 イエス様を見ているようで見ていない。そんなむなしい信仰生活を送っていないでしょうか。

 イエス様が来られたのは、私たちが惨めな人生を送るためではなく、喜び溢れる人生を送るためではないでしょうか。あとは、私たちがイエス様熱心に求めるだけではないでしょうか?

むしろ、「人の目や評価に対してはまるで見えない人のように」さえなっていいのではないでしょうか?

そして「イエス様の姿に対しては、はっきり見える者、見続ける者」になりましょう。

2020.3.8 礼拝メッセージ概略

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7/5(日) 主日礼拝

主の日の礼拝を心からおささげしましょう。 教会堂にて礼拝がささげられていますが、教会に来られない方のためにしばらくはLIVE配信を行っています。 午前10時半より礼拝が始まります。祈りつつ備えましょう。 以下より礼拝にご参加ください。 →  礼拝動画 ※上記...