東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 3月 2020

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/03/31

メッセージと祈祷課題


本日の教会での祈祷会は中止となりましたが、ぜひ一人一人が主の前に静まりみことばを味わい、祈りましょう。

祈祷会メッセージ
ヨシュア記5章12-15節 「今置かれている戦いは主の戦い」

音声配信は終了いたしました。

献金をささげたい方は、礼拝の時と同様に封筒・袋等をご自身用意し、心を込めて神様におささげください。

音声のみとなっています。
音量が小さいと思われる場合は、各自でボリューム調整をお願いします。



*** 祈祷課題 ***

1.コロナウィルスの終息のため、感染者のいやしのために。大切な方を失った方々への神様からの慰めや励ましがありますように祈りましょう。

2.日本中、世界中の教会のために。私たちだけでなく、礼拝を持てないでいる教会も多数あります。動画配信もできない教会もあると思います。主が支えて下さるように祈りましょう。教会の財政面も覚えてお祈りください。どの教会も多くの集会が中止になっている影響は小さくありません。

3.闘病中の方々のために祈りましょう。コロナウィルスだけでなく、様々な過酷な病と闘っている方々がいます。主のいやしを求めて祈りましょう。肉体だけでなく、内なる人を主が強めてくださるようにも祈りましょう。

4.お互いの信仰が弱ってしまわないように祈りましょう。交わりが希薄になり、連絡が取りにくい状況ですが、この時にかえってますます、お互いを思いやり積極的に声掛けできるように祈りましょう。

5.福音自由教会協議会の働きのために。また、無牧の教会のために祈りましょう。


可能な方はLINEやメール、電話などでお互いの近況や主から与えられている恵みを分かちいましょう。

    
*** メッセージ ***

ヨシュア記5章12-15節「今置かれている戦いは主の戦い」

日曜日に引き続き、インターネットを用いてということで皆さんのお顔を拝見できないのがとても残念です。

一方で神様の思いもよらぬ恵みもありました。初めての動画配信で戸惑い、作業が完了するまでにだいぶ時間を要してしまいましたが、多くの方からレスポンスがありました。

ご自宅で持たれたゆえに、普段は礼拝に参加されていないご家族が一緒に動画を見ることができたという声、また礼拝には来られていない方の中からも、動画を視聴し礼拝に参加されたとの声もありました。とても心に染みましたという声もいくつか頂戴しました。

悪いことばかりではなく、この機会に教えられることや、この時だからこそ与えられる恵みもあるのだなと感じています。神様のなさることは不思議です。

一方で目の前の現実は甘くはありません。東村山市民ならば誰でも知っている志村けんさんが、コロナウィルスが原因で亡くなられました。本当に残念です。また長い戦いになるとの専門家の意見もあります。やはり人と触れ合うことができず、コミュニケーションが十分にできないことは、人間として非常にストレスですし、弱さを覚えますね。こうした状況の中、主は私たちに何を語っておられるのでしょうか?

今日はこのみことばから、「今置かれている戦いは主の戦い」であることを教えられてまいります。

 今日の場面、イスラエルの民がヨルダン川を渡り終え、ようやく約束の地に到達しました。12節を見ると、荒野で神様が降らせてくださっていた食べ物マナが止まったことが分かります。それ以降、彼らがマナを得ることはもうなかったと語られています。なぜでしょう?12節後半にあるように、「その年、彼らはカナンの地で収穫した物を」食べられるようになったからです。長い荒野の旅路にも終わりがあったのです。そして、この地で収穫できた物を初めて食べられた時に、イスラエルの民の喜び感動はどれほどだっただろうかと想像します。今、私たちは共に集まることの制限を受けています。しばらくの忍耐が必要です。長丁場になるとの見方もあります。でも、会えない状況を通して、共に集まり顔と顔とを合せられることが当たり前ではなく、神様の恵みなのだということを身に染みています。私たちに「当たり前」はないですね。

 さて、カナンの地に入ったとは言っても、この地に安住するためにはまだ大きな試練がありました。この地には神の忍耐を超えるほど罪深い民、目に余るほど罪深い民が住んでおり、ある意味神のなさるさばきの手としてイスラエルの民が彼らと戦っていく必要があったのです(もちろんそれは主が直に命じられた時のみ限定のことです)。

しかし、現実的には目の前の民族は野蛮で、非常に強く、イスラエル人たちはとても敵わないと怯えている者が多くいたほどです。ですから、リーダーであったヨシュアの心は穏やかではなかったでしょう。彼自身不安であり、頭を悩ませていたはずです。13節を見ると、ヨシュアはエリコの町まで行っていることがわかります。その城門は堅く閉ざされていますから、それより手前の方で、これからどうやってエリコを攻略するべきか思案していたのでしょう。

 すると、13節にあるように、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていることに気が付きました。ヨシュアはその姿を見て、新改訳2017の訳では「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」と尋ねたとあります。冷静に穏やかに話している印象ですが、相手は剣を抜き身で持っています。つまり、鞘に納めておらずいつでもヨシュアに切りかかれる戦闘態勢です。

この緊迫した状況で「あなたは味方ですか?それとも敵なのですか」とのんびり尋ねるのは変です。むしろ「お前は味方か?敵か?」といったニュアンスでしょう。戦々恐々と言ったらいいでしょうか。

結局この人は何者だったのでしょう?14節 彼は言った「いや、わたしはの軍の将として、今来たのだ」と。なんと「主の軍」の将軍として来られたのです!!それは天使で構成される神の大軍勢の「大将軍」です。もしかしたら、受肉前のイエス様であったかも知れません(そういう解釈もあります)。

きっとヨシュアは「ひぃ~失敗したぁ~」と焦ったことでしょう。顔面蒼白でしょう!自分は神様の名代として来られた方に向かって「お前は味方か敵か?」と偉そうに言ってしまったのですから。

でも、これが人の弱さではないでしょうか?私たちは不安と恐れに支配される時に、本来敵ではない人をさえ敵として見てしまいます。自己中心に陥ると周りが見えなくなります。
恐れと緊張のあまり「敵か」「味方か」という枠でしか見えなくなってしまうのです。神の民のため、助けるために来られた主の将に、失礼にも「敵か味方か」と尋ねてしまう。それは私たち自身の姿かも知れませんね。

志村けんさんが亡くなった時、中国人に向けてのヘイトスピーチも起こったそうです。コロナウィルスをもたらした「中国人が憎い」というコメントも多く発信されたそうです。

しかし、コロナウィルスが命を奪ったのであって、人ではないことを覚える必要があります。中国人でも亡くなっている方、苦しんでいる方が大勢います。同じように痛み苦しんでいる人々です。

これは大事なことで、これから感染者、重症者、死亡者が増えるにしたがって、コロナウィルスではなく人間を恨む、憎むということが起こりかねません。
ですから、私たちはこの目の曇りを神様に取っていただきましょう。目の前に主がおられることを見失ってはいけません。コロナウィルスで傷つき、亡くなって行く人々を見て、主イエス様は涙されているのではないでしょうか。ラザロが死んだ時に涙されたように。イエス様はそういう方ですよね。

ヨシュアは「はっ」として、すぐに顔を地に付けて伏し拝み、なんとか「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と質問しました。これに対する主の軍の将の答えは不思議です。15節です。  ・・・

どうでしょう?一見するとヨシュアの質問に何も答えているようには見えません。でも、これがヨシュアに「最も必要だった答え」なのです。「ここは聖なる場所、ああなたの足の履物を脱ぎなさい。」と。 

この短い答えの本質はこういうことではないでしょうか?

「あなたは何を自分で偉そうに戦略を立て、攻略を考え、自分一人で戦おうとしているのか?なぜ、あなたはこれまで神が救い、神が助け、神が必要を与え、神がここまで導き入れたことを忘れた者のように振舞っているのか?なぜ、私に聞かないのか? これは主の戦いである!まずは、あなたの自身の罪深い汚れきったその履物を脱ぎなさいここが聖なる神の御前であることを忘れてはいけない。これは主の戦い、主の前にまずへりくだり、主を仰ぎ見よ!」 

コロナウィルスとの戦い、それは見えない戦いです。顕微鏡で見れば見えますよ!という話ではありません。本当の敵はコロナウィルスですらないのではないでしょうか。
もっと深い人間性を問われる戦いであると私は思います。

 ひとりひとりが自分の欲のままに行動することをやめ、弱い人に配慮して、隣人をどう愛すべきかを問われながら歩むべき時なのです。自分のために手洗いをするのではなく、自分のためにマスクをするのではなく、自分のために外出を控えるのではないのです。隣人を助けるため、病を抱える人や免疫力の低い人、心が破れそうな人、そうした弱い人を守り支えるためにこれらをするのです

 必要以上に買い占めを行わないのも、知り合いに見つからなければイイというものではなく、必要としている他の方の手に行き渡りますようにと願ってのことです。

これらはまさに、見えない戦いです。

自分の欲との戦いであり、恐れに支配される自己中心との戦い。

それこそ、主の将軍が先頭に立って、みことばを示しながら導いてくださらなければ勝利できない、見えない信仰の戦いではないでしょうか。

この戦いは主の戦いであり、主が将軍であり、この方の声に忠実に従って、ここに勝利してまいりましょう。



2020/03/30

志村けんさんの訃報


東村山市の名産は何かありますか?
何か有名なものはありますか?
特徴は?

そう尋ねられた時に・・・ 

黒焼きそば、となりのトトロの舞台となった場所がある、都会+田舎=「とかいなか」、多摩湖は結構いいところ・・・色々考えてみても正直パっとしません。

やっぱりなんだかんだ言っても 志村けん さんで有名なんですよね。

東村山市出身で最も有名な芸能人と言えば、志村けんさんでした。

実際とはちょっと違うけれども、「東村山音頭」を世間に広めたのは志村けんさんです。

「だいじょぶだぁ饅頭」というものが売られていますが、これも志村けんさんのコントから生まれたもの。

市報にも、市長と志村けんさんが握手している写真が掲載れていることもありました。

その志村けんさんがコロナウィルスに感染し、日曜夜遅くに亡くなられたとのこと。

東村山市民としては、皆さん少なからずショックを受けていることと思います。ヘビースモーカー、お酒を多く呑まれるということはあったものの、持病のようなものはなかったとも聞きました。

先ほど、だいじょぶだぁ饅頭のお店の前を通りましたら、テレビでしょうか?取材班が来て撮影のようなものをしておりました。

同じ東村山市内にある教会として、とても残念ですし、ご家族やご友人の皆様、ファンの方々に神様からの慰めと励ましがありますようにお祈り申し上げます。


そして、今週さらに都内の感染拡大が進むことを懸念しています。
若い方が都心に遊びに行く姿を多く見ますが、自分が感染して大丈夫だということではなく、自分を通して多くの人の命が危険にさらされる可能性があることを厳粛に受け止め、お互いを思いやりながら行動していかれますようにと願います。

日本は「外出禁止命令」を出すことが原則できない国です。
そういう意味で「自由な国」であり、そこがすばらしい面であります。
だからこそ「自由」を守るためにも、各人が自覚的に行動することが必要です。

もちろん、あらゆる世代の人がこの時、自分のしたいことを少しばかり我慢して、隣人のために配慮する愛、思いやりを持てるようにできたらと願います。

ガラテヤ 5:14  律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。



2020/03/29

ルカ19章28-36節「主がお入り用なのです」

*** 3/29(日)礼拝説教概略 ***

 皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。  

2020/03/27

3/29(日)の礼拝について(3/28朝 更新)

3/29(日)の礼拝について

大変悩みましたが・・・

「礼拝堂での礼拝中止:一律インターネット礼拝」 

とさせていただきます。

※LIVE配信ではありませんが、聖日の朝に収録して10:30~11:00頃ココにUPされます。
できるだけ、日曜の午前の同時刻に視聴いただけるようお願いします(動画自体は日曜日中は見られるようにします)。

 TVのニュースにおける週末自粛の促し、「STAY HOME」と訴え続ける世界の人々の様子、大切な家族を失った方々の必死の訴え・・・それらを拝見しながら、また信徒の皆さんが置かれている状況(未信者のご家族がおられる方々、持病をお持ちの方、年配の方、とてもまじめな方、心の弱い方etc。。。)を考えつつ、苦慮の末この決断に至りました。

理由は以下の通りです。

主はあなたの神を心から愛せよと教えられ、
同時にあなたの隣人を愛せよと教えられました。

礼拝を大切にすることは、主を愛することだと確信します。
しかし、今のままでは、礼拝堂に来る方がご家族の制止を振り切って来られ、あるいは他の人に感染させていないかと心配しながら来られ、あるいは近隣に気を遣いながら来られる等、どこかに罪悪感を持ちながらの礼拝になってしまうのではないかという懸念があります。また、家庭で礼拝する人も自分だけが礼拝堂に行かなかったのではないか、不信仰なのではないかというやはり罪悪感に似たものを持ちながらになるのではないかと懸念するのです。

私も散々悩みましたので、皆さんも非常に悩まれ葛藤し、どちらを選択してもどこかに不安や罪悪感を感じながらになり、心から礼拝できないのではないかと示されたのです。

それならばいっそ集いたくても一律インターネット礼拝になったので無理でした」いうやむを得ぬ状況にし、皆さんが罪悪感を持たずに等しく家庭で礼拝していただくという方が主を愛し、隣人を愛する道ではないかと思うに至りました。

情報が二転三転して大変申し訳ありません。
ご理解いただければ幸いです。


ただし、分かち合ってきましたように安息日を覚えて聖なる日とせよ」ということは、インターネットで礼拝するにしても大事にすべきことです。主の日を聖なる日、喜びの日、栄えある日として過ごしていただきたいと切に願います。インターネットだからと軽んじることなく、心から礼拝して欲しいのです。


動画の配信について

当ページからyoutubeでメッセージ動画が見られるようにリンクを設置予定です。

3/29(日)の朝10:30頃に見られるようにと考えています。



そして、できるならば平日においても可能な限り3密を避けることを皆様にお勧め申し上げています(若者のLINEグループでも呼びかけました)。

休めるならばアルバイト等も無理しないことをお勧めします(しなければ生活できないのならば仕方ありません)。

皆で協力して、コロナウィルス感染拡大予防に努めたいと思います。


わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。(Ⅱ歴代誌7章14節)

このみことばをもとにした賛美「ニッポン」 ぜひ聞いてください。
今、私たちキリスト者こそ日本のため、世界のためにへりくだって祈りたいと思います。

(seseragi worship さん)

民がへりくだり祈り 主の御顔を慕い求め
立ち返るなら あなたは
    罪ゆるし この地いやす(2番 親しく 聞いてくださる)

※繰り返し 
わたしの国 このニッポンを 生まれそして育った ふるさとを
わたしの家族を友だちを 主よ救ってください




2020/03/26

東京都知事の緊急記者会見を受けて

3/25(水)20時から東京都の小池都知事が緊急の記者会見を開きました。
25日の1日だけのコロナウィルス感染者数が41名となったことを受け、「感染爆発(オーバーシュート)の重大な局面」であると発表しました。そして、都市封鎖(ロックダウン)を避けるために、在宅ワークの要請、夜間外出の自粛、3密(密閉、密集、密接)を避けること、週末の不要不急の外出自粛要請が出されました。

私たちにとって礼拝は非常に大切なものであり、決して不要不急ではないと考えます。しかしながら、この都知事の要請を真摯に受け止め、これまでよりも一段強い要請と理解し、東村山福音自由教会における3/29(日)の日曜礼拝をどうすべきか現在協議中です。

願わくば、全知全能の創造主なる神からの良い知恵が与えられ、心より祈りながら感染予防の一助となりつつ、神のご栄光を現す道を決断していきたいと考えています。明朝3/27(金)の朝までには当ホームページにて最終決定をお知らせいたしますので、皆様のご加祷をぜひともお願い申し上げます。

2020/03/24

諸集会についてのお知らせ(3/24更新)


新型コロナウィルス感染予防に配慮して、礼拝と諸集会の開催について下記のようにしております。
黒字:実施予定  赤字:中止、延期

3/29(日)礼拝堂での礼拝は中止:インターネット礼拝

4/1(水)祈祷会(朝/夕)検討中 朝:10:00~、夕:19:00

4/4(土)召天者記念礼拝(墓前礼拝)延期 
     

4/5(日) 中止 ⇒ 聖餐式 礼拝、教会学校は検討中
 

4/8(水)祈祷会(朝/夕)実施 朝:10:00~、夕:19:00

4/12(日)SJC(小学科)/JYLC(中高科) 9:45~10:10 ※短縮にて実施 
    イースター礼拝 10:30~ 
    中止 ⇒ イースター祝会


これ以降のことは、随時検討してまいります。

集会時には、配慮事項として以下のことをご協力願います。
・手洗い・アルコール消毒をお願いします。特に手洗いは丁寧にお願いします。
・体調の悪い方、熱が37.5度以上ある方は無理せず、ご自宅で療養ください。
 後でホームページにてメッセージの概略がUPされます。そちらを味わってください。
 朝、検温していただけるようお願いします。
 また、熱がなくても具合の悪い場合は無理せずお休みください。
・通常、礼拝ではマスクはしませんが、例外的に可能な限りマスク着用をお願いします。
 教会には配布用マスクがいくらかございます。
・聖餐式はしばらく延期といたします(コロナウィルスが落ち着いてから行います)。
・席には余裕をもってお座りくださり、密集状態にならないようご注意ください。
・換気も十分に行いつつ実施します。ご協力ください。
※当教会堂は大きな窓も多く、吸気口、換気扇もしっかりと完備されており、集会前後には換気を十分行っております。手洗いソープ、消毒ジェルも備え付けております。


なお、東北医科薬科大学医学部 感染学教室 特任教授である賀来 満夫先生が中心になって監修している「市民向けハンドブック」がPDFファイルにて手に入ります。
http://www.hosp.tohoku-mpu.ac.jp/info/information/2326/
賀来先生は感染学の専門家でこのわかりやすく読みやすい内容ですのでご参照ください。

※賀来満夫(かく・みつお)氏について

 大分県の生まれ。長崎大大学院医学研究科博士課程修了、同大学病院講師、聖マリアンナ医科大助教授、東北大医学系研究科教授などを経て2019年より東北医科薬科大 医学部 感染学教室 特任教授に着任。プロ野球・Jリーグによる「新型コロナウイルス対策連絡会議」の専門家チーム座長。

一日も早い終息を主に祈りつつ。
皆様も心と体の健康にご留意ください。
主の恵みと祝福が皆様の上に豊かにありますように。

東村山福音自由教会

2020/03/22

ルカ19章11-27節「主人を信頼する忠実なしもべ」

*** 3/22(日) 礼拝説教概略 ***

 以前、ユースの働きについてお話をさせていただいた時にお伝えした一つのことは「信頼なくして指導なし」という事です。
 信頼関係が築かれないと、なかなか指導のことばが届かないのです。

仮にある人が全部正しいことを言ったとしても、その人に対して信頼がなければ、何を言っても受け取ってもらえないと思います。

でも、反対に深い信頼関係があるならば、先が見えない中でも、その人のことばに従って躊躇なく行動できるのではないでしょうか。

2020/03/15

レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」


レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」



今日のみことばは、今の時ほど心に染る時はないように思えます。


祭壇の火を燃え続けさせること。


この火は消してはいけませんでした。


祭司が責任をもって、燃え続けさせるのです。この火が祭壇の上に絶えずあり、燃え続けている。それはイスラエルの民にとって、いつでも神様との交わりを覚えるものであり、神による救いの恵みがそこにあることを意識できる「目に見えるしるし」でありました。


私たちの信仰の火も消してはいけません。燃え続けさせる必要があります。

私たちが掲げるキリストの十字架も人々から見えなくしてはいけません。いつでも高く掲げ続ける必要があります。神の聖さにあずかる罪のゆるしときよめ。この福音の「炎」を燃え続けさせ、人々から見えるようにしていなければなりません。祭壇の火を消してはならないのです。

新型コロナウィルスの感染は拡大を続けています。WHOが「パンデミック」宣言を出しました。つまり、「世界規模での危険な感染症の流行」であると宣言したということです。

このような状況で、私たちは集まることについて制限の中にあり、時には反対の声もあるのではないかと意識しながら、それでも主のみことばがヘブル10:25「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」と語っていることから、ともに集まっているのです。

ある姉妹が、先週は家から出ずにインターネットを用いての礼拝をささげました。それも確かに感謝な時であったと言われました。けれど「やっぱり教会に行って皆さんと礼拝したいです」とおっしゃられました。私はそのことばだけで、どれほど励まされたことでしょうか。

色々な判断があります。何か一つが正解ではないでしょう。集まっての礼拝を中止せざるを得ない方々もあり、他人事ではありません。祈らされます。

でも、できるうる限り私は皆さんに、祭壇の火がここで燃え続けていることをお見せしたいと思うのです。この祭壇の炎が消えないように燃やし続けることが、私の使命であると思っているのです。

そして、薪は1本ではあまり燃えません。長く燃えず、火も大きくなりません。

けれど小さな細い薪でも、ともに集まり合わされば大きな火となり、より長く燃えることができるのです。

本日は祭壇の火を燃え続けさせるとは、現代を生きる私たちにとってどういうことなのか。ともに教えられたいと思います。



1.祭壇の火を燃え続けさせる意義

6:9 「アロンとその子らに命じよ。全焼のささげ物についてのおしえは次のとおりである。全焼のささげ物そのものは、一晩中、朝まで祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火をそこで燃え続けさせる。 


今日の場面は再び「全焼のささげ物」の話に戻っています。「全焼のささげ物」自体の意味は「自分自身を献げる=献身」の意味がありました。イスラエルの民が神様に受け入れられるように動物の犠牲をささげます。まさに「礼拝」行為であったと言うことができます。


ただ、その時に大きな妨げになるものがあります。何でしょうか?


私たちのうちにある「罪」や「汚れ」です。


神様にささげる時、私たちのうちにある罪を神様は喜ばれませんし、それは受け取られませんよね。ですから、この罪を取り除くことが必要でした。


そこで、必要なのが「火」でありました。

聖書において火の一つの役割は罪を燃やし尽くす「きよめ」でありました。


マタイ3:11-12ではバプテスマのヨハネがキリストを指してこう言っています。開きましょう。「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」


イエス様がもたらす炎によって「きよめ」がなされ、罪や汚れといった不要なものが燃やされます。キリストの十字架こそ、罪を焼き滅ぼす炎と言えるでしょう。


レビ記に戻りましょう。祭壇の上で燃え続ける「火」にはささげた者たちの罪や汚れを取り除き、神に受け入れられるものとする大切な働きがありました。

反対に、この炎なしには、罪や汚れを除かれることもなく、従って神に受け入れられるささげ物となることはできませんでした。


 それゆえ、この火は燃え続けさせるべきものとして命じられていたのです。12-13節

12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、その上に薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする。13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。 


正直くどいと思えるほど強調して祭壇の火を燃え続けさせよと命じられています。祭司は朝も夜も、夜中もこれを見張り燃え続けるように心を割かなければなりませんでした。そう思うと私にはちょっと無理そうだなと思ってしまいます。けれど、それほど燃え続けさせることが大切だったのです。


なぜなら、常に祭壇の火が燃やされているということこそ、神の聖なる炎によって常に「きよめ」がなされているという「しるし」だったからです。いつでもそこに行けば「罪の赦しの救い」が確かにあるという「証し」だったからです。


人が自分の罪深さに押しつぶされ絶望しそうな時、神に見捨てられたのではないかと不安に思う時、この燃え続ける祭壇の炎を見るならば、ああ主は生きておられる!主は見捨てることなく絶えず私たちの罪と悪を滅ぼし、私たちを受け入れておられる!あそこに救いがある!と人々は意識することができたのです。






2.現代を生きる私たちにとって


 現代を生きる私たちはどうでしょうか?


「万人祭司」ということばが示すように、すべてのクリスチャンが祭司の役目を担っています。私たちが受けた救いの炎を、消してはならずまた隠してはなりません。それが人々にとって希望の炎だからです。


教会に与えられている「祭壇の火」を消してはなりません。いつでも私たちがここで主を賛美し、ともに祈り、神のいのちのみことばに生き抜き、ここに「神の救いの炎」があることを絶えず示し続ける使命を担っているのです。


主は命じておられるのです。

祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。

火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。



 教会はどんな時でも、人々が逃れて来ることができる逃れの場でありたいと願います。海を照らす灯台の灯りを頼りに、多くの船が港にたどり着くことができたように、私たちもこの地で灯台となって、彷徨っている多くの人々を導きたいのです。ここに「救いの港」があることを示し続ける使命を帯びているのです。




苦しんでいる人々にここにいやしと慰めがあることを示さなければなりません。


見捨てられている人々に、ここには決して見捨てられることのない神の愛があることを示す使命があります。


真理を求める人々に、真理の光がここにあることを見えるようにしておかなければなりません。


確かに私たちには具体的に助けになれず、無力さを感じることも多くあります。

金銭を求めて来られる方もいらっしゃいます。ペテロが言ったように確かに金銀は私たちにはほとんどありません。


介護の苦しみを抱えて来られ、助けて欲しいと言う方に、確かに代わりに介護をして差し上げることもできません。


コロナウィルスを前に、特効薬を開発する力もないでしょう。私たちは無力だと思うかも知れません。




しかし、私たちは無力でも、私たちには指し示すことのできる「祭壇の火」があります。


「祭壇の上で燃え続ける火」を指し示すことができるのです。


 すなわち、神の救い、罪の赦し、キリストの十字架です。そこにある慰め、いやし、平安、希望です。



それしか出来ないと考えるでしょうか?


それとも、それを指し示せることが何にも優るものと考えるでしょうか?


皆さんはどちらでしょう?

 

もちろん後者ですよね。

なぜなら、すべての苦しみ、すべての困難、すべての悩みの根底には、必ず「罪」の問題があるからです。人間のあらゆる不幸の根底に「罪」という問題があるからです。マスクも日用品も足りなくなるのは、まさに自己中心の罪の問題です。差別が起こるのもコロナウィスルが原因ではなく、人の心に潜む差別意識が表面化しただけの話で、元々あるものです。むしろ、人の心の奥に潜む闇が、コロナウィルスをきっかけにして表面化したに過ぎないのです。


そして、ある人はコロナウィルスさえ無くなればともう安心だと思うでしょうか。


残念ながらまた別のウィルスが私たちを苦しめるでしょう。


私たちの根本的な問題の解決には、魂の救い、全人格的な救いが必要なのです。一つの危機が去れば安心というのは、その場しのぎに過ぎず、去った時には既に次の不安におびえているのです。


 この根本的な問題への唯一の解決こそ、祭壇の火であるイエス・キリストの十字架です。私たちはあらゆる時代の、あらゆる問題の根にある「罪」という死に至る病に対して、「最高の特効薬」を手にしているのではないでしょうか。


この世のあらゆる悪人もウィルスも、災害もせいぜい私たちの肉体までしか滅ぼせません。たましいを滅ぼし、たましいを生かす力を持つ神様を味方とできる良き知らせ、福音を私たちはゆだねられているのです。


 この困難な状況において私たちがすべきことは何ですか?何ができるのでしょうか?他の人々と一緒に怯えて隠れて祈ることでしょうか?それはイエス様を信じていない人でも誰でもしていることです。私たちがすべきは何でしょうか?


 祭壇の火を与えられた者として、火を燃え続けさせ、人々にここに救いがあることをお知らせすることではないでしょうか。死の恐怖に対する最大の解決は「死への勝利」しかありません。


 新約時代の祭壇の火、すなわち「キリストの十字架」こそ、私たちがいつでも燃やし続け、人々に示し続ける炎です。


10代の娘が、教会の年配の姉妹を見て言うのです。「自分は年をとったら、〇〇さんのように、ああいうおばあちゃんになりたい」と。


普通、今どきの女子高生が言うでしょうか?


多くの女子高生は、お年寄りを見て「ああはなりたくない」と言います。


でも、彼女は教会で若々しく、いつも神様を賛美しながら感謝にあふれて生きているおじいちゃん、おばあちゃんを見ているのです。すばらしいモデルが教会にいらっしゃる。良い目標、良いモデルです。そこに熱い信仰の火が燃えているからです。


 蒔が一本ではすぐに消えてしまいます。でも、蒔が多くくべられるほどに火は大きく、長く続きます。この時こそ、この火に皆で薪をくべ続け、暗闇の世界に灯りをともし続けましょう。





2020.3.15 礼拝メッセージ概略

2020/03/13

コロナ不安の中で、地に足をつけて歩む


心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。(箴言3:5)

 
新型コロナウィルス関連の情報は、週ごと、あるいは日ごとに変化しており、対応の難しさを感じています。2週間の自粛要請と思っていたら、10日間の延長をお願いするという情報。そして今後もまた変化していくことでしょう。

いつまで自粛すべきなのか、どこまで自粛すべきなのか。難しいところです。
ただでさえ消費税で冷え込んでいる消費が、この影響でますます冷え込み、日本の経済に深刻なダメージをもたらす危険も感じます。

また、過剰な対応によって人が傷ついているケースも少なくありません。
感染した人は被害者でもあるのに、同時に加害者とされ、行動を明らかにされ制限され、あるいはバッシングを受けて、プライバシーや人権を失いかねません。

職場において、少し体調が悪いというだけで出社することを拒まれ、新型コロナの検査結果が出るまで身動きできないという状況もあるようです。当然ながら仕事を失っては家族を養えませんから、体調が悪くても無理をして「元気です」と偽って働く人が続出することでしょう。

それは結果として企業にとっても、社会にとっても大きなマイナスではないでしょうか。
どんな時でも見誤ってはいけません。

大切なのは「人」であり、人の幸せのために設けられた「ルール」が人以上にならないようにと願います。

聖書にもこうあります。

わが子よ、見失ってはならない。知性と思慮をよく見守れ。(箴言3:21)


知性と思慮深さから離れ、獣のようにわきまえもなく感情的にならないようにと願います。恐れと不安から取り返しのつかない言動、決断をすることがありませんように。

もちろん、安易でゆるすぎる対応もまた責任を問われることであり、知恵をもって対処しなければなりません。気をつけるべきことは慎重に気をつけ、クラスターとならないように細心の注意が必要ですが、バランスを失わないようにしたいものです。

そこですべきことは「心を尽くして主に拠り頼むこと」です。
「わかったつもり」の「自分の悟り」ではなく、すべてをご存じの神にこそ拠り頼み、上からの知恵をいただく必要があります。

上からの知恵をいただく者は、謙虚さを学び、孤独にならず人々からも学ぶ姿勢を持つことになります

自分勝手な判断に陥らないように祈り、主のみことばからともに教えられましょう。主のもとにこそ、確かで安からな道が備えられています。主にあって冷静に、祈りつつ歩みましょう。


また、新型コロナウィルスの影響による「うつ」の発症、深刻化もあるようです。当然のことと思います。見えない不安、外出に神経を使い、マスク・日用品が手に入りにくい状況。残念ながらTVやインターネットでも、あまり前向きな情報がなくかえって不安が煽られそうな日々に思えます。そうした心のケアも大切な対策の一つであると思います。

みことばにこうあります。

ヤコブの手紙4章13-15節
13 「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
14 あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。
15 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。


3日先のことを心配すれば3日分心配増えます。10日先なら10日分心配が増えます。
半年先、1年先、3年先・・・その分多くの心配が増し加わります。

しかしながら、ここにあるように私たちの存在は神の前には「霧」のように、すっと現れては、すっと消えていく者であることを覚えるとき、歩み方が変わります。

朝、目覚めた時に「ああ、今日も生かされている。この1日、神様のみこころに沿って充実した良い1日を過ごそう。神様、どうかお守りください。」と祈る者とされるのです。

神のみこころであれば、この日も生かされます。

来年生きていることは当たり前ではありません。
けれども、当たり前に生きている大前提で心配しすぎている私たちではないでしょうか。
備えは大切であり、蓄えも必要です。

けれども、将来を心配することに多大なエネルギーを使って、今日という1日を大切に生きられないとしたら、なんと残念なことでしょうか。

どうか、皆様の1日1日が充実した良いものとなりますように。


教会としての集会中止情報などは随時更新されています。
コチラをご参照ください。



※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。


2020/03/08

ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


コロナウィルスは、コウモリやラクダなどにおもに感染するウイルスだそうです。今回もコウモリが感染源ではないかという情報もありますね(現時点では正確なことはわかっていないようです)。どちらの動物も聖書に記載があります。レビ記11章では、興味深いことに「食べてはいけない動物」として分類されています。おそらく昔からこれらの動物は体内に様々な病原菌を宿す動物だったのでしょう。当時のイスラエルの民が、神様の教えに従って歩むことで、これらのウルスから守られたのだと改めて思わされます

2020/03/06

心が騒ぐその時に

心が騒ぐその時に



新型コロナウィルスのこと、日常品の品薄、経済的なダメージ、先行きの不安・・・

日々の歩みの中で、私たちは今恐れと不安に取り囲まれています。
人は恐れや不安の中にあると、防衛本能として誰かを攻撃してしまう危険も高まることを覚えていきたいものです。

東京事変というバンドがライブを予定通りに行い、多くの批判も寄せられたようです。その後の講演は中止にするという判断をなさいました。XJAPANのYOSHIKIさんは、ファンの安全を大事に考えることを発信し、様々なイベントの中止や延期を訴えました。

東京五輪についても延期や他の場所での開催の声もあがる中、IOCは予定通り開催する意志であることを発表しています。

学校も異例の休校要請が出され、多くの学校はお休みにしましたが、一部の学校はそうしませんでした。学童はいつも通りに・・・という矛盾とも思われる要素、親が仕事で家にいない中、小学校低学年の子たちが家に一人でいる危険。大切な節目のイベントである卒業式に、親や親族が参列できない悲しさ。どれも判断が難しいものです。

教会の集会も中止にしたものもあれば、注意して行うものもあります。その判断も教会によって、あるいは各人によって異なります。


このような時に本当に注意し慎まなければいけないことは、さばき合うことです。


1. さばき合わず、受け入れ合う


どの判断が100%正しく、どの判断が100%間違っていると誰が言えるのでしょうか。
SEKAI NO OWARI というバンドの歌には、人にはそれぞれの「正義」があり、僕の正義が彼を傷つけていたといった内容の歌詞がありました。

神のことばである聖書にも、このように記されています。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その人をさばいてはいけません。(ローマ14:1)

・・・食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:6)

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(ローマ14:15)

興味深いことに、同じ「神様のために」という視点に立っても、判断が分かれるものがあるのです。
ある事やある日を特別だとする人も神様のためにそうしていますし、ある事もある日も特別なんかじゃなく、いつも同じなのだと言う人も神様のためにそう考えているのです。

コロナウィルスの影響で一切外出をしないという人も、経済的な破綻への配慮からいつも通りに買い物をしたり、外食したりする人もいます。

自分の正義で、他の異なる正義を持つ人を断罪することについて、私たちは冷静に愛をもってよく考える必要があるのだと気づかされます。

注意をして礼拝に集う人も、この時は我慢して礼拝に集わないという選択をする人も、それぞれが神様に祈りながら、神様の御心は何だろうかと求めながら判断していると思います。一方が正しく、一方が正しくないといった考え方ではなく、神のみことばの権威に生きるならば、その判断が信仰から出ているならば、互いにさばかず認め合い、そのようにして「神の愛」とはこういうものであると証しすべきではないかと思います。


その上で、どうしても暗い気持ちになりがちな現状の中で、私たちはそこから得られる恵みにもしっかりと目を向けていきたいと思うのです。



2. 神のなさることに目を向ける


確かに困難な状況です。でも、現状はすべて悪いことだらけなのでしょうか?

その困難を通しても教えられ学ぶべきことがあり、普段考えてもいなかったことに気づかされることもあるのではないでしょうか。

普段、あまりにも忙しくて休みが取れない方が、この機会に半強制的に休みが増えて、経済的には大変だけれど、肉体的には少し楽になった。そういうケースがあるのではないでしょうか。


「コロナウィルスよりも人間の方がこわい」という記事を見かけました。

ドラッグストアの店員さんが、マスクや消毒液のことでお客さんからクレームや嫌味を言われ、一日に何度も何度も謝罪をする日々だそうです。頑張ってもどうにもならない部分で批判を受けなければならないのは本当に大変です。

こうした時に、人の罪深さ、自己中心性が現れます。そこから私たちは学び、自分の心の中に巣くう闇に光を当てたいと思うのです。

創世記にヨセフという人物が登場します。
彼は父からの偏愛を受けていたので、兄たちに妬まれ憎まれ、結局エジプトに奴隷として売られてしまいます。それからの日々は祝福もありましたが、孤独と多くの困難に見舞われました。無実であったのに牢獄にまで入れられてしまいます。彼も兄たちを憎んだり、恨んだりする心が確かにあったと思います。

けれどより大きな困難が訪れます。7年に渡る大飢饉です。

しかし、この大飢饉において神の民を救う役目を担ったのがこのヨセフでした。
彼は牢獄での苦労もありましたが、忠実でまじめに働き、神の祝福を受けていたので、やがてエジプト王ファラオに認められ、最終的にはエジプトの総理大臣、宰相の地位につきます。ファラオの次に権限を持つ立場です。彼は神様からの知恵によって、この困難に活躍し、エジプトもそして神の民イスラエルをも救う立役者になりました。

そのプロセスで、自分を売りとばした兄たちに出会います。
彼はそこで兄たちに、こう言っています。

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。(創世記45:8)

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。(創世記50:20)

ヨセフは実際に自分を売ったのは兄たちだとしても、すべては神のなさったみわざなのだと受け入れていました。

人の悪い「謀略」さえも、神の良い「計画」とされるのだと教えられます。

目の前にある困難は、すべて悪いことなのか?苦しい時にこそ、私たちは問い直す必要があります。悪く見えることの中に、神のご計画を見出し、希望と信頼をもって歩みましょう。

信仰から出ていない人間的な罪深い応答によって、他の人を傷つけたり争ったりすることは神様が悲しまれることです。

そこから離れ、神様の良い計らいを信じて歩んでいきましょう。



余談ですが・・・

新型コロナウィルスの感染源はコウモリやラクダだそうです。
実はどちらも聖書に登場しており、レビ記11章ではどちらも「食べてはいけない」と規定されています。おそらくこうしたウィルスを体内に宿している動物であり、医療も食品衛生面も未熟な時代にあって、疫病などで滅びることがないための神様のご配慮もあったのだろうと思われます。


※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。
※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。

2020/03/01

レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」


レビ記6章1-7節「赦しとつぐない」


おそらく多くの教会で、メッセージの導入部はコロナウィルスの話題が語られているのではないでしょうか?私たちもコロナウィルス対策はしっかりと行うべきと思いますが、対策が必要なのは何も肉体面だけのことではありません。私たちの大きな課題は、「心の中のウィルス」をどう取り扱うかという問題ではないでしょうか。

コロナウィルスの影響はあるものの、各地で起こっている差別や風評被害、買い占めによる品薄等の問題は、実はコロナウィルスのせいではなく、また政府のせいでもなく、人の罪から発している問題ではないでしょうか。

横浜ではマスクを巡って男性が殴り合うという前代未聞の事件が起こりました。ヨーロッパではアジア人への差別が強まっています。ここ数日は、偽りの情報の流布によってティッシュやトイレットペーパーさえも品薄となっています。

しかし、実はどれもお互いに愛し合い、助け合い、譲り合えば改善していく課題ですよね。

ある方がこんな事をおっしゃっています。

「自分が他の人にうつしてしまうとしたら本当に申し訳ない。でも、よく考えると、自分の心の中にある罪や汚れという名の醜悪なウィルスを、これまで多くの人にまき散らしてきた自分ではないかと、改めて思わされている」と。

コロナウィルスは確かに危険なウィルスです。けれども、私たちのうちにある罪という醜悪なウィルスもまた、人を死に至らしめる危険なウィルスです。

今日、私たちは心に巣くう深刻な罪というウィルスについて、神様から治療の道を教えていただきたいと思います。そして、不安と恐れのある日々ですが、神様の深いご愛の中に励まされながら歩ませてきただきましょう。  

 人はどのような罪であっても悔い改めるならば赦していただけます。それが神様の圧倒的な赦しの力です。なんとすばらしいキリストの十字架でしょうか!しかし、みことばに聞く時、それだけでは終わらない神様の恵みに気づきます。  

 今日のみことばは、「代償のささげもの」もしくは「償いのささげもの」についての規定です。神様や人の所有物に対して損害を与えた場合には、通常の罪とは区別して「償いや補償をなす」ことが教えられています。

 実はこの話は5章14節から始まっていまして、最初は神様の聖なる所有物に対して害を与えた場合の規定になっています。

 さらに、今日のみことばの場面では、隣人の持ち物に対して害を与えてしまった場合に、同じものを返すだけでなく20%を上乗せして償うことが教えられているのです。不当に奪った物を持ち主に返すというのは当然のことですが、聖書はそれ以上のことを教えているのです。  
5節にこうあります。 
5節 あるいは、それについて偽って誓った物をすべて返さなければならない。元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。  

 元の物を償うだけでなく、それに五分の一相当を加えるように教えられています。それで終わりではありませんでした。6節を見ると、こうも語られています。
6節 その人は羊の群れから、傷のない、代償として評価された雄羊一匹を、主への自分のための代償のささげ物として、祭司のところに連れて行く。   

 人に対して償ってお終いではなく、神様に対しても「代償のささげ物」の雄羊をささげよと教えられていたのです。一見すると、色々やらなければ罪が赦されないのか?とも見えてしまうでしょう。でも、そうではないのです。主なる神様は「罪は赦した。それで終わり」という機械的な対応をなさらないお方なのです。  

 罪を犯したことによって傷ついた部分、傷ついた心の回復、復帰にまで心をさいてくださっているのです。 

具体的にどのような回復・復帰のことでしょうか?

1. 隣人との愛の交わりの回復  


 他の人の所有物について、特にウソを用いて自分の物にしてしまった等の場合、やはり相手の人を傷つけている面が少なからずあります。単に勘違いで自分の物にしてしまっていたというのと、意図的に自分の物にしているのでは意味が違いますよね?  

 そこで神様は、誠意をもって相手に償って返すだけでなく、プラス5分の1つまり20%上乗せするようにと教えられたのです。それは相手の人への謝罪の意味でもあり、思いやりでもありますよね。物さえ返ってくればいいのではなく、それを失った喪失感や様々なダメージが考えられます。

 神様は隣人への愛の現し方をこうして具体的に教えてくださっているのです。もし、あなたが誰かの所有物に害を与えてしまったのならば、同等の物を返すだけでなく、プラスして「思いやり」を加えることによって、相手の気持ちに寄り添うことができるのではないでしょうか? 

神様はそれを喜ばれ、優先的にするよう教えておられます。

今日のみことばの書かれている流れ、順番を意識してください。

最初に損害を与えてしまった相手に償いをし、それから神様に償いのささげ物をするという順番です。  

イエス様もマタイ5章23-24節のところで、このように語っておられます。
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

 神様が喜ばれるのは、私たちのまっすぐな心です。ですから、隣人を愛し、人と和解をして交わりを回復していくこと自体を主は喜ばれるのです。


2. 主との信頼関係の回復  


今日のみことばは神様に対してではなく、直接的には人に対して損害を与える罪のみに限定されています。それにも関わらず、2節の冒頭にこうあるのです。

「人が罪に陥っていて主の信頼を裏切るとき」 

直接的には隣人への損害を与える行為にも関わらず、それは主の信頼を裏切る行為であると語られているのです。有名な十戒の中に、「盗んではならない」とか「隣人の物を欲しがってはならない」という禁止命令がありますよね。

翻訳の限界があり禁止命令の場合「~してはならない」という言い方になってしまいます。
しかし、これらの禁止命令の主旨は、「私が愛するあなた方なのだから、盗むなんてことあってはならないよね。他の人の物を欲しがるなんてあってはならないよね」といったニュアンスであって、そこには教えを守ることを期待する主の思いがあるのです。

どうせ守れないだろうから、厳しく言っておくぞ!という意図ではなく、「わたしの民、わたしの子であるあなたがたなのだから、盗むとか他の人の物を欲するなんてことあるはずないですよね?」といった期待と信頼が込められているのです。

神様は、罪深い人間であるにも関わらず、人が神の教えに喜んで従うことを期待して、信頼をもってこれらの教えをくださっているのです。ですから、「うっかり」ではなく、うまいこと騙してごまかして自分の物にするという行為は、何よりも神様の信頼を裏切る行為なのです。私たちは、人に罪を犯したと同時に、神様に対しても信頼を裏切り、悲しませたということを覚えたいのです。

知人が小学生の時に万引きをしてしまったそうです。やがてその罪の重さに耐えかねてお母さんに告白し、お母さんと一緒にお店の人に物を返し謝罪に行きました。彼はお店の人に対して罪を犯し謝罪をした。けれど、彼は同時にもう一つのことに気づいたのです。万引きなんてするはずがないと自分を信頼してくれていたお母さんを深く悲しませたという事です。お母さんは涙ながらに一緒に悔い改めのお祈りをしてくれたそうです。それによってかえって、自分はお母さんを裏切り、深く悲しませたのだと子どもながらに罪というものを理解したと言っておられました。  

6-7節にあるように、神様に前に出て行き、代償(償い)のささげ物をし、罪の赦しをしっかりと自分のものにしつつ、裏切ってしまった神様の信頼に対して、謝罪とやり直す決意をさせていただきましょう。「悔い改め」は「悔い」て終わりではなく、「改める」ことを含みます。それが信頼に対して応えていくということではないでしょうか。



3. 罪を犯した本人の回復  


このささげ物にはもう一つ重要な意味があります。
最後の回復は、罪を犯した本人の回復です。

6節にこういう表現あることに注目してください「主への自分のための代償のささげ物」 。「主への」と最初にあり、神様にささげる物であることが示されていると同時に、「自分のための」ということばも含まれているのです。

続く7節でもこうあります。
7節 祭司は主の前でその人のために宥めを行う。彼は、自分が行って責めを覚えるようになったどのことについても赦される。  

神様が償いをあえてさせるのは、実に罪を犯した本人のためでもあるということなのです。

その人自身が実に傷ついています。

他人に対して害を及ぼした罪限定の話であるにも関わらず、その人のための宥めであり、その人が自分を責めてしまうすべての事について赦されると宣言されています。

ここに神様の愛があります。  

私たちが誰かに罪を犯して、その人を傷つけてしまった時、もちろん神様に祈り罪を告白して、その赦しを受け取ります。それでも、しばしばその相手から長期に恨まれ憎まれることがあります。また、自分の中でも長らく引きずってしまう傷があるものです。

私は子どもの頃に、知人の飼っていたインコを誤って踏んでしまいました。故意ではなかったのですが、歩いて追いかけて来るインコがすばやく私の足の下に入り、結果として踏みつけてケガを負わせてしまったのです。命に別状がなかったのが幸いでしたが、その時のことが忘れられず、今でもその場面が心に残っています。

案外、他の人を傷つけてしまったという事実は、自分の中に深く重たく残り引きずるものです。
それをご存知の神様が、このような教えをくださっているのだと気づきます。

一見面倒なほどの手続きに見えます。でも、その主旨が何よりも罪を犯した人の回復、復帰を目的としたものであると気づかされるのです。

罪を犯された人を守るのは当然なのですが、罪を犯した本人にまで主のあわれみは尽きないのです!  

悔い改めの機会を提供し、赦しを与え、さらに償いを行うことによって関係の回復、さらには自分自身の罪悪感へのいやしまでも意識されているのです。  

心に巣くう罪という名のウィルス。そこからの完全な回復は神様の恵みの教えに生きることにあると教えられました。何よりも私たちに代わって最高の償いを父なる神にしてくださった十字架のキリストが私たちには与えられています。

キリストこそ、隔ての壁を打ち砕き、人々との関係を回復させてくださる方。

キリストこそ、父なる神と私たちの信頼関係、深い交わりを回復してくださる方。

キリストこそ、私たち自身を深い傷の痛みから回復してくださる方。

このすばらしい恵みに歩んでまいりましょう。

2020.3.1 礼拝メッセージ

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