東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/02/22

ルカ22章31-34節 「イエスの祈りに支えられて」

*** 2/21(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカ22章31-34節 「イエスの祈りに支えられて」

 コロナウイルスが始まった頃、とにかく未知の世界で必死にオンライン対応などをしました。それはそれで大変な中にも新しい発見がありました。しかし、ここまで長期化し、今後もまだ続くということを思う時に、ジワジワとボディブローのように効いて来るなという感覚があります。

2021/02/01

ルカの福音書22章24-30節「治める者こそ仕える者に」

 *** 1/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

You raise me upという曲があります。フィギュアスケートの荒川静香さんがトリノ五輪で用いた曲です。そこから日本でも一躍有名になりましたね。この曲の歌詞の起源は正確には分かりませんが、聖書を知る人が歌詞を味わうと非常に聖書的な内容であることにすぐに気づきます。

2021/01/11

ルカ22章1-23節 「過ぎ越しの食事」

*** 1/10(日)主日礼拝 説教概略 ***

 緊急事態宣言が再び出されました。
 またまた皆さんとの食事の交わりが遠ざかったかと思うと、とても残念です。クリスマスの持ち寄りの食事も毎年楽しみにしていただけに、非常に残念でした。あれを目当てに来られる方もいらっしゃるんじゃないかと思えるほどです。
 でも、私たちは待たされた分だけ、再びできる時の喜びや感謝が爆発すると思うのです。今は感染を爆発させずに、忍耐の後に喜びと感謝を爆発させたいと思います。

2020/12/23

クリスマスメッセージ ルカ2章1-12節「イエス様を心に」

*** 12/23(水)祈祷会 クリスマスメッセージ概略 ***

 皆さんは自分の誕生日を家族や大切な人から忘れられたことがあるでしょうか?
 自分の誕生日を忘れられるということは、やっぱり悲しいですよね。しかし、このクリスマスはイエス様のご誕生をお祝いする時なのに、しばしば主役のイエス様が忘れられてしまうことがあるのは、やはりとても悲しいことです。

2020/11/23

ルカ21章29-38節 「目を覚まして祈り備えよう」

*** 11/22(日)主日礼拝 説教概略  ***

 茶道をテーマにした映画で「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という作品を鑑賞したことがあります。樹木希林さんがお茶の先生を演じていらっしゃいました。その中で主人公の女の子のお父さんがある時、突然亡くなってしまいます。それは主人公が一人暮らしをするようになり、忙しい日々を過ごしていた時のことでした。

2020/11/09

ルカの福音書21章5-19節 「終わりの時への備え」

*** 11/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

 大学生の時アメリカに3週間ほど行きました。その時にある宣教師がホワイトボードに端から端まで線を引きました。そして「これが神の永遠を表すとしたら、私たちの人生はどう表せる?」と。彼はごく小さな点を打ちました。100年生きられても永遠の中ではこの小さな見えないような点に過ぎないと彼は言いました。

2020/10/26

ルカ20章45-21章4節 「見える栄、見えない栄」

*** 10/25(日) 礼拝説教概略 *** 

VRゴーグルというのをご存知でしょうか。VRはバーチャルリアリティ(仮想現実空間)の略ですね。それを装着するとまるで3Dの別世界にいるかのように体験できるというものです。最近の技術はすごいものですね。

で、私はまた変なことを思いつきまして、神様目線で見られるというVRゴーグルがあったら面白いなと。名付けてGEG(Gods Eye Gogle)です。人間の目で見るのとは全く異なる神様目線での人間の世界の景色。それを私たちが見られるとしたら。もしかしたら、美しい人が美しく見えず、見栄えのしない方がものすごく美しく見えるかも知れません。心の思いが表面化して見えるといった感じでしょうか。それで見る時に、私たち自身の姿はどう見えるのでしょうか。人の前には美しく立派に飾ることができても、神様の目に美しく飾られているかは全く別ですよね。

2020/10/12

ルカの福音書20章41-44節「われらの主キリスト」

 *** 10/11(日)礼拝説教概略 ***

 大学時代にイエス様を信じ受け入れるお祈りをした時に、教えられるままにこのように祈りました。「イエス様、私の罪のために十字架で死んでくださり感謝します。今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の人生を導いてください。」 
 おおむねこのようなお祈りだったと思います。

 特に重要なのは、イエス様を「罪からの救い主」つまり「キリスト」であると信じること。そして、もう一つは、私の人生を導く「主」であると告白することです。

2020/08/31

ルカの福音書20章27-40節「上を向いて生きよう」

*** 8/30(日) 主日礼拝 説教概略  ***

 昨今の歩みの中で、もはやコロナ問題は短期で終わることは難しく、長期化を受け入れざるを得ない状況となっています。Withコロナ」と言われますように、コロナがあることを前提にどう生きていくのかという事と、そろそろ向き合っていかなければと私も思っています。もちろん早期の完全収束を願う者ではありますが、現実を受け入れて工夫していくことも必要ですよね。

ですから「いつまで我慢すればいいのか?」と下を向いてばかりいるのではなく、この状況の中でどう生きていくのか問われています。

今日私たちは「上を向いて生きよう」というテーマで教えられます。

2020/08/10

ルカの福音書20章20-26節「神のものは神に返す」

*** 8/9(日) 礼拝説教概略 ***

半沢直樹というTVドラマをご存知でしょうか?
池井戸潤という方の小説をもとにドラマ化されたものです。

7年ほど前に放送され、平成で第一位の視聴率を記録した人気ドラマで、最終回の平均視聴率は40%超えという人気ぶりでした。今はその続編が放送されていますが、内容自体は結構難しくて、銀行融資や証券取引などの専門用語が連発されています。

それでも惹きつける魅力に、練られた脚本、役者の演技力、そして・・・

2020/07/14

ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」

*** 7/12(日) 礼拝説教概略 ***

ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」

日本の国会図書館のカウンターには聖書のみことばが掲げられています。
「真理はあなたがたを自由にする」。ヨハネ8:32のみことばが日本語とギリシャ語で記されています。そして、国会図書館法にはこの図書館の使命が次のように記されています。「真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」

2020/06/23

ルカの福音書19章45-48節「祈りとみことばの家」

*** 6/21(日) 主日礼拝説教概略 ***

 ルカの福音書 19章45-48節「祈りとみことばの家」

 教会は何を期待される場でしょうか?

 人は何を求めて教会に来るのでしょうか?

2020/03/29

ルカ19章28-36節「主がお入り用なのです」

*** 3/29(日)礼拝説教概略 ***

 皆さんお元気でしょうか。新型コロナウィルスの問題は日に日に深刻さを増しており、本当に大変な状況になってきました。私も礼拝をどうすべきかについてここまで悩んだのは「初めて」です。非常に悩ましいものがありましたが、本日はインターネット動画を用いて、皆さんが家庭におられながら「少しでも礼拝できるように」と試みています。どうか皆さんの心が守られ、その信仰が励まされ、心も体も免疫力も強められますように。  

2020/03/22

ルカ19章11-27節「主人を信頼する忠実なしもべ」

*** 3/22(日) 礼拝説教概略 ***

 以前、ユースの働きについてお話をさせていただいた時にお伝えした一つのことは「信頼なくして指導なし」という事です。
 信頼関係が築かれないと、なかなか指導のことばが届かないのです。

仮にある人が全部正しいことを言ったとしても、その人に対して信頼がなければ、何を言っても受け取ってもらえないと思います。

でも、反対に深い信頼関係があるならば、先が見えない中でも、その人のことばに従って躊躇なく行動できるのではないでしょうか。

2020/03/08

ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


ルカ18章35-43節「惨めな人生から喜びの人生へ」


コロナウィルスは、コウモリやラクダなどにおもに感染するウイルスだそうです。今回もコウモリが感染源ではないかという情報もありますね(現時点では正確なことはわかっていないようです)。どちらの動物も聖書に記載があります。レビ記11章では、興味深いことに「食べてはいけない動物」として分類されています。おそらく昔からこれらの動物は体内に様々な病原菌を宿す動物だったのでしょう。当時のイスラエルの民が、神様の教えに従って歩むことで、これらのウルスから守られたのだと改めて思わされます

2020/01/26

ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 


ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 


子育ての学びのテキストにこのようなことがありました。
小さな子どもであっても、あらかじめ予定を伝えてあげることが、その子の人格を尊ぶことになるという内容です。
急に出かける!というのではなく、何時になったらお出かけするから、その前に準備できるようにしましょうと。これから起こること、これからしようとしている事をあらかじめ相手に伝えておくというのは、相手への敬意であり信頼の証しであると思います。

イエス様も弟子たちに対して、彼らがなかなか理解できない(あるいは理解しようとしない)にも関わらず、大切なことを分かち合い予告をしておられました。

そして私たちに対しても神様は、聖書を通して神様のご計画を伝え、しっかり信じて備えるようにと語り続けておられます。そこにどんな神様のお心があるのでしょうか。十字架の予告をなさったイエス様と弟子の姿から教えられます。

 

1. 理解できない弟子  
 
 イエス様はずっと聖書に預言されてきたことが、いよいよ実現することを弟子たちに告げました。今日の場面では、イエス様が人々からどのような苦しみを受けて死んでいくのかをハッキリと語っています。
 
32節 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33節 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 
 キリストの十字架は突然訪れた出来事ではありませんでした。思いも寄らぬ急な出来事ではなかったのです。キリストは十字架の苦しみを知った上でそこに向かって歩んでおられました。自分の歩む先に恐ろしい苦しみが待っている。孤独、痛み、侮辱、死が待っている。それをわかった上で、そこに向かって一歩、また一歩と進んでいかなければならない。崖がそこにあるのに、そこに向かって進む使命のようです。
 
そこに、どれほどの心の戦いがあることでしょうか。
イエス・キリストはご自身が弟子に裏切られ、不当な裁判を受け、暴行され、罵倒され、侮辱されることを具体的に知っておられました。
罪人を救うため、辱めを受け十字架で無残に殺される事実です。
 
弟子たちからすると耳を疑うような内容です。
34節にあるように、残念ながら弟子たちはイエス様のおっしゃっている真意を何一つ理解できなかったのです。なぜなら、弟子たちが期待していたのは、イエス様が権力のある王・英雄として勝利することでした。ローマの支配を力で打ち砕き、ユダヤ人の王国を再建することでした。今の弟子たちには、イエス様がこのような苦しみに遭うとは、全く理解できないことだったのです。

 弟子たちのこの無理解な姿は、私たち自身の姿に重なります。しばしば私たちは自分の先入観や勝手なイメージを持って神のことばを聞くことがあるのではないでしょうか?

 以前、ある方が証しをしてくださいました。
自分は神様に対する勝手なイメージを強く持ちすぎていた。そのために勝手に神様に失望していたと言うのです。
しかし、ある時気づかされたのです。自分が失望した理由は、神様を知らな過ぎたからだと。自分が勝手に「神様はこういうお方だ」と決めつけることで、その「自分の神イメージ」と本当の神様の姿が大きく異なることによって、勝手に失望していたのだと。
 
弟子たちがイエス様の道を理解できなかったのと似ていますよね。皆さんも勝手に自分を物凄くいい人にイメージされると「しんどい」のではないでしょうか?何を言っても怒らない人だとか、聖書のこともなんでも知ってると思われたら困りますよね。


 また、私たちは自分の心配に大量の時間とエネルギーを注いでいますが、主イエス様の友(協力者)として歩むことにどれほど心を注いでいるでしょうか? 
 
 弟子たちが理解できなかった背景にも、主イエス様への関心よりも自分自身への関心が強かったことが影響していたと言えるでしょう。
 
マタイ、マルコの福音書では今日の記事のすぐ後に、イエス様の王座の右と左に座らせて欲しいといった弟子のやりとりがあります。自分の立場に強い関心があったと言えます。
 
そうではなく、イエス様に目を向けたいのです。
主イエス様はご自身が苦しいはずなのに、ご自分のことではなく弟子たちを思われました。かえって弟子の信仰を心配し彼らが倒れてしまわないようにと気遣ってくださいました本来ならば、弟子たちこそは主イエス様の苦しみをよく理解し、良き助け・良き励まし、良き協力者になるべきですよね?
「キリストの苦しみを少しでも担いお手伝いしたい。」と思うべきです。
けれど、実際はどうだったでしょうか?弟子たちは自分の心配ばかりです。だから弟子たちはイエス様のことばを少しも理解できません。しかし、キリストはいつでもご自分のことを後回しにして、目の前の一人を愛しておられます。

 

2. 理解できない弟子なのに  
 
 では、このように理解できない弟子たちに、なぜ主イエス様は、ご自身の十字架の苦しみについて話されたのでしょう?
私たちがイエス様の立場ならばどうでしょう?理解できない弟子たちに話をしたところで、時間の無駄だと思うのではないでしょうか?なぜイエス様は彼らが理解できないにも関わらず、前もってこれを語られたのでしょうか? 
 
 それは、イエス様が弟子たちを愛しておられたからです。理解の遅い、未熟な弟子であることは重々承知の上です。それでも弟子たちを友として愛し、一緒に歩みたいと願う。だからこそ、分かち合ってくださるのです。
もちろん、そこには弱い彼らがつまずかないようにとの配慮もあったでしょう。備えのためであり覚悟をもって歩んでほしいからでもあったでしょう。
 
しかし何よりも、頼りない弟子であっても、主イエス様は彼らを大切な友、大切な仲間だと尊んでくださった証拠なのではないでしょうか。「どうせわからないから伝えない」というのではありません。やがて真理を理解する者となれると期待して、愛のゆえに忍耐深く伝えているのです。

 今ここにおられる皆さんに対しても同じようにイエス様はお考えのはずです。
いつでも主は、私たちを「神の協力者」として期待し信頼を置いてくださっているのです。

 神様からみれば、私たちはいつも「わからずや」です。神様のお心をなかなか理解できません。しばしば的外れであり、文句ばかり言います。
 
神様がおひとりでぜーんぶやった方が早くて完璧なのです!それでも神様は私たちに語る事をやめません。愛するわが子と思ってくださっているからです。
 
 ある家のお父さんと小さな息子が飼っている犬の小屋を一緒に作ることになりました。息子は金槌を持つのも初めて、ノコギリも初めて。経験のあるお父さんが全部やった方が早いし綺麗にできます。でもお父さんは息子のために一緒にやるのです。慣れない手つきの息子に注意を払いながら一緒に小屋を作ります。未熟な息子の作業は欠けだらけです。ギザギザになっている部分、歪んでいる部分をお父さんが息子のプライドを傷つけないように繕いながら・・・。かえって大変です。こんな事なら一人でやった方が・・とも思うことでしょう。それでもお父さんは息子と一緒にこれを作ることを大切にしました。息子はまるで自分がやったかのように、ママ、ぼく犬小屋を作ったんだよと誇ります。息子はお父さんの役に立てた!自分にもこんな良い働きができたと思うのです。お父さんはそんな息子の笑顔を見て、一緒にやって良かったと心から思うでしょう。 
 
 神様が未熟でわからずやな私たちをパートナーとしてくださるのは、まさにこのお父さんのようです。自分でやった方が早いし完璧です。でも、神様の願いは愛するわが子と一緒にやることです。だから、前もって伝え、何度も伝え、ともに歩んでくださるのです。
 
旧約時代はそれこそ、一体何人の預言者が遣わされたことでしょうか?数えきれないほど遣わされ、何度となく神様は御心を伝え続けました。悔い改めず、忠告を無視することを繰り返しているのに。何度も何度も。
アモス書3:7 まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者に示さずには、何事もなさらない。 

神様は勝手になさる権利がある。人に断りを入れる必要さえない。しかし、主は私たちに語りかけ伝えてくださるのです。あなたを神の協力者、パートナーとして選んだのだと。

 今日、神様はあなたに語っておられます。「わたしがあなたを選んだのだ。だからわたしはあなたに隠さず語る。真理を伝える。あなたに知ってもらい、あなたと共に神の国を築き上げたいのだ」と。今日の弟子たちの姿のように、神のみこころを全然理解できていない私たち。自分が一番かわいい自己中心な私たち。臆病で心配症で怖がりです。

でも、主なる神様はそんな私たちに「あなたが必要だ」と親しく声をかけてくださるのです。

主なる神様のこの声に聞いてどう応答するでしょうか。十字架の苦しみを弟子たちに分かち合われたイエス様のお心、それを少しでも理解できる者にならせていただきましょう。それが本当の弟子への道ではないでしょうか。





2019/11/20

野の花を見なさい

ルカの福音書12章27-28節より

27節  草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 
28節  今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。 

普段から花を見ながら過ごせるのはとても良いことです
 
実にイエス様も、野に咲く草花を見て考えなさいと言われています。
 

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