東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2023年度メッセージ
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/11/13

第一ヨハネ3章19~24節「心安らかな人生」

 *** 11/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ3章19~24節「心安らかな人生」


 おそらく世界中の誰もが「心安らかな人生」を求めていることと思います。平安に満ち、恐れに支配されず、希望や喜びを抱いて生きていきたいのです。では、「心安らかな人生」は、どのようにして得られるのでしょうか。

2023/11/10

マタイ16章24-26節「人の心を動かすもの」

 *** 11/8(水)祈祷会 説教概略 ***

 サバティカルの恵みについて、祈祷会でも少しお分かちしたいと思っています。
 私自身が興味を持っていたことは、16世紀に起こった「戦国時代における福音宣教」についてでした。実に、戦国時代の日本のクリスチャン人口は推計75万人、人口全体の約5%ほどでした。日本は今でも人口の1%にも満たないと言われますから、数字だけ見ればすごいことです。

2023/11/06

伝道者の書4章13-16節「良き王を求めて」

*** 11/5(日)主日礼拝 説教概略 *** 

伝道者の書4章13-16節「良き王を求めて」


 サバティカル研修休暇をいただき、皆さんのご協力とお祈りに心から感謝いたします。この期間にいくつか初めての教会で、会衆側の席で礼拝する機会がありました。それはとても有意義なものでした。やはり説教奉仕で礼拝に伺うのとは全然違います。一人の聴衆として礼拝に出席する場合、右も左もわからないまま臨むわけです。ゆえに戸惑い、場合によっては礼拝の流れについていけないという経験もしました。置いて行かれたような感覚です。ただ、この感覚、この視点、とても大切だなと感じました。


2023/09/25

第一ヨハネ3章11~18節「愛しましょう」

*** 9/24(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ31118節「愛しましょう」

 私たち夫婦は、明日からサバティカルを迎えます。約40日、牧会のお働きから離れます。こんなに長い期間、教会を離れることは、20年の牧会生活で初めてのことです。楽しみでもあり、さみしくもあり・・。といった心境です。その際に10月の5回の礼拝で、お忙しい中、ご奉仕くださる先生方にも本当に感謝です。心からの敬意と祈りをもってお迎えしていただければと思います。

2023/09/22

ヨハネ4章27-35節「霊的な関心を持つ」

*** 9/20(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨハネ427-35節「霊的な関心を持つ」

 悪魔の誘惑に遭ったイエス様はおっしゃいました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。』と書いてある。」と。人は肉の糧だけではなく、霊的な糧として「神のみことばを味わい、みことばに生きていくこと」が必要であるということです。 

2023/09/19

伝道者の書4章7-12節「二人は一人にまさる」

 ***9/17(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書4章7-12節「二人は一人にまさる」


 コロナウイルスというパンデミックのダメージは、まだ継続中であるように感じています。各教会での青年会やJYLCなども、縮小傾向となり、そこからの回復が簡単ではないように思います。しかし、そういう中でも、私たちの教会の青年たちが、キャンプや交わりで励まされています。そして、それぞれに新しい決心をし、責任ある立場を引き受け、多方面で活躍していることは本当に嬉しいことです。若い青年たちが決心し、勇気をもって主のために踏み出しているのに、より上の世代が弱腰でいる場合ではありません。私も、彼らの献身の姿に大いに励まされ、一つ「祈って欲しい」と頼まれている「新しい責任」を引き受けることを導かれています。

2023/09/14

ローマ書2章17~24節「自分自身を教えること」

*** 9/13(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書21724節「自分自身を教えること」

 今日学ぶべき大切な真理は「自分自身を教えること」です。他人を教えることに夢中になっていて、自分自身に教えていないという問題が起こります。しかし、本来は、人に教える立場の者こそ、誰よりもみことばから「教えられやすい器」であることが求められています。神様に喜ばれる人は、自分にみことばを聞かせる人です。

 

2023/09/12

子育て講演「子は親に似る!」

*** 9/12(火)ママ’sカフェ 講演概略 *** 

「子は親に似る!」だから・・・

なぜ、子は親に似るのか?

2つの理由

2023/09/08

ローマ書2章12~16節「神の前に正しく生きる」

*** 9/6(水)祈祷会 説教概略 ***

「ナルニア国物語」の原作者、CS・ルイスは、人の心に与えられている「良心」こそ、私たちが神様に造られた大きな証拠だと言いました。聖書を学んでいなくても善悪を判断する心が人にはありますまた、悪いことをすれば心が痛むので、それが悪いことなのだと分かりますよね。法律や道徳を勉強したから身についたのではなく、生まれながらに人には「良心」というものがあるのではないでしょうか。これこそ人が神に造られた証拠でしょう。

2023/09/04

第一ヨハネ3章4~10節「変えられた私たち」

*** 9/3(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ3410節「変えられた私たち」


「私はイエス様を信じているのに、以前と少しも変わっていない」

 そう思っているクリスチャンも少なくないことと思います。変わらない自分を見て、半分あきらめてしまっているということもあるでしょう。「変われない」という信仰を持ってしまっているかも知れません。罪深い自分の姿に失望している方もいるでしょう相変わらず同じ弱さや欠点が改善されていない自分に、ガッカリしてしまうこともあります。

2023/08/30

ヨハネ13章34-35節「愛に根ざした伝道」(共同体としての愛の伝道)

 テーマ説教 ヨハネ13:34-35「愛に根ざした伝道」

(共同体としての愛の伝道)

当教会では、キリストの愛に根ざして宣教することを教会理念としている。
愛のない伝道。愛を伝えない伝道は、神の喜ばれるものではないと考える。

確かに「みことばを宣べ伝えなさい」と語られている。
でも、そのみことばは「文字」やうわべの「ことばだけ」を伝えるのではない。
中身のないものは、人のハートには届かない。
みことばは、神の愛に満ちている。

2023/08/24

ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」

*** 8/23(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書2611節「神の公正なさばき」


ここでは「交差並行法(キアスムス)という構造が用いられています。
「並行法」というのは、詩篇等でよく用いられており、同じ内容をおもに二行に分けて表現する方法です。例えば、アモス書1:2では「①主はシオンからほえ、②エルサレムから声をあげられる」と二行に分けて語られています。①一行目も②二行目も「同じ内容」ですが、「異なることば」で表現することで、意味の厚みや豊かさをもたらしています。」

2023/08/21

伝道者の書4章1-6節「一握りの静けさ」

*** 8/20(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書41-6節「一握りの静けさ」

 夏期休暇にて家族でゆっくり過ごすことができ、本当にありがとうございます。皆さんのお祈りと主の支えに感謝しています。私は常に頭の中で考えているタイプなので、そこから自由になり、静かな時を過ごせることはとても重要だなと思わされます。

2023/08/13

第一ヨハネ2章28節~3章3節「私たちは神の子どもです」

*** 8/13(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ2章28節~3章3節「私たちは神の子どもです」

 揺るぎない確かな土台があること。そこに確信があることは、どんなにか私たちを強くすることでしょうか。私がクリスチャンになって感じた恵みは、自分の中に確かな土台ができたと思えたことでした。

2023/08/10

ローマ書2章1~5節「さばくのではなく・・・」

 *** 8/9(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書215節「さばくのではなく・・・」

 先日の礼拝説教でも少しお話しましたが、私たちは他人の問題を見つけ、さばいてしまうことは電光石火のごとく早いように思われます。しかし、今日のみことばを味わうなら、それはまず自分自身に向けられるべき視線であることを教えられます。

1節 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
2節 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
3節 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。

 他の人がしている罪深い行い。不従順、不信仰の姿。それらに対して、私たちはとても敏感に、さばく思いを持って見つめてしまいます。2節と3節にある「そのようなことを行う者たち」とは、直前の28節以下に登場した様々な罪を行う者たちでしょう。

 彼らに「真理に基づいた神のさばき」が下ることを私たちはよく知っているとパウロは言います。しかし、他人の罪の問題にはよく気づき、そこに神のさばきがあると知っているのに、自分の姿については、どうしても見えにくい、気づきにくいのだということです。

 特に、「選ばれた民」という意識を持つユダヤ人たちは、異邦人に対して上から目線で厳しくさばきつつ、実は自分たちも同じ罪の性質を持っていることを棚に上げてしまっていました。しかし、みことばは、1節にあるように「すべて他人をさばく者よ」と語ります。

 それは、ユダヤ人に限らず、これを読むあらゆる者に向けられた主のメッセージだと受け止めましょう。これはいつの時代でも起こることです。

 旧約のわかりやすい例は、ダビデと預言ナタンのやり取りでしょうか。第二サムエル記12をお開きください。預言者ナタンはダビデにあるお話をします。貧しい家にて家族同然に過ごしていた「たった一匹の子羊」を、多くの家畜を持つ富豪が、自分の家畜を惜しんで奪ってしまったという話でした。それを聞いたダビデの反応が5節から語られています。 

5節 ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。
6節 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」 

 義にもとる行為だ!!神の前に罪深いことだ!!ダビデは激しく正義の怒りを燃やし、この富豪をさばきました。

 しかし、7節でナタンはこう言います。「あなたがその男です」と。これはダビデに、自分の姿を客観的に教えるための話でした。

 私たちもまた「あなたがその人です」とみことばから語られる必要があります。

 このみことばをあの人に聞かせてあげたいと、他人にみことばを適用する習性はないでしょうか。気持ちはわかりますが、まず自身が主のみことばの前にまっすぐに立つことが大切ですよね。

 イエス様も山上の説教の中で明確にこう言われました。マタイ7:1-2 
7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

 今日のローマ書の2:1でも、他人をさばくことは、自分自身にさばきをくだすことだと教えられています。私たちに必要なことは、さばくことではなく、自分自身を振り返り、悔い改めながら生きていくことです。

 また、他の人が罪を犯しているのなら、その人のために自分自身のこのように祈るべきでしょう。そして、御霊の助けのうちに、柔和な心で正すようにと、ガラテヤ書では教えられていますよね。柔和な心とは、自分を他の人の上に置かない姿勢です。むしろ、へりくだって自分を弱くし、小さくし、その人の立場や目線に立ってということです。

 誰かが罪に陥った時に、自分にも同じ弱さがある、自分も同じ罪人なのだという「徹底したへりくだり」の中で関わる必要があります。それがあって、初めて柔和な心で他の人を良い道に連れ戻せるのです。

 私もこの点で至らなかったことがあり、悔い改めさせられたことがあります。先日のキャンプにおいて、十字架につけられたイエス様とその両隣にはりつけにされた二人の囚人の話をしました。それを聞いたあるスタッフが分かちあってくれました。自分はこれまで一人目の囚人が、イエス様をののしって、お前が本当にキリストなら、自分と俺たちを救え!と言う姿を見て、ひどいやつだとさばいてきた。でも、今回、自分の中にも似たものがあることに気づいた。自分たちは、どこかで救われるのが当然のこのように思っているんじゃないか。愛の神なら人を救って当然かのように考えている。しかし、むしろ、救われてはいけないほどの罪人であることが事実なのだと。本当は、もう一人の囚人が言ったように、自分たちは、その報いとして、むしろ十字架にはりつけにされることが当然の側なのだと気づかされたと言います。

 実際のその場面のみことばを開きましょう。ルカ2341-42節 

23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 

本当にその通りです。私たちは、自分の犯し続けている罪を考えたら、十字架にはりつけにされることの方が「当たり前」なのです。だから、「自分と私たちを救え」と主に命じるなんてとんでもない。まして、他の人をさばく立場にはないのです。

ですから、この囚人は「救ってください」とさえ言わなかった。救われるのに相応しくないとわかっていたから。ただ、このような取るに足りない者ですが、私を思い出してくださいと。それで十分だという謙虚さ、彼なりの信仰でした。

彼に対して主がなんと言われたのでしょうか。

23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 さばく心ではなく、砕かれ悔いた心を主が喜ばれることがよくわかります。

 ですから、さばくことができる側の人間ではないのだという自覚が必要です。他人をさばいていながら、自分がその報いを受けていないとしたら、それは主のいつくしみ深さのゆえ、忍耐と寛容のゆえです。私たちは主のこうしたあわれみと寛容さに、心から感謝をしたい。滅びないで済んだことは、ただ主のあわれみ以外の何物でもないと受け止めたいのです。4-5節をご覧ください。 

4節 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
5節 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。

 他人をさばいてばかりいて、自分が真摯に悔い改めないなら、それは神の審判の日に向かって、自分への神の怒りを蓄えていることなのだと語られます。神様のいくつしみ深さ、忍耐、寛容をあなたがたは軽んじているのではないかと語られています。

実は「神の怒り」が私たちを心からの悔い改めに導くのではありません。怒りは確かに私たちに恐れを与え、私たちを砕くかも知れません。でも、そこから主のふところに大胆に飛び込めるようにされるのは、主のいつくしみがあるからです。主が怒るに遅く、あわれみ深く、いくつみと忍耐、寛容さに満ちているからです。

どんな罪を犯そうとも、一日に千回ひどい罪を犯そうとも、なお赦すことができる忍耐と寛容をお持ちだからです。愛のお方だからです。

だから、私たちは悔い改め、悪の道から方向転換し、主のもとに飛び込めるのです。そうであるなら、他の人を主の道に立ち返らせることは、「さばく」ことではなく、その人を愛することでしょう。

その人の姿を見て自身の罪に涙し、一緒に悔い改めていくことでしょう。

 神様の豊かないつくしみ、忍耐と寛容を心より感謝します。


2023/08/09

伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」

*** 8/6(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」

 申命記29:29にこうあります。

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」 

「隠されていることは主のもの、現わされたことは私たちのもの」 

 今日の説教のヒントになるみことばかなと思います。

2023/08/02

ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」

*** 8/2(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」

26  こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27  同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。 

 ここでは、神様によってデザインされた本来の良い関係を不自然なものに替えてしまったことが語られています。特にここでは「同性愛の肉体関係」の問題を語っています。これは実に、当時のローマ社会で、蔓延していた問題でした。

2023/08/01

第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」

*** 7/30(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」

 今日のテーマは「とどまる」ということですが、残念ながら我が家のベランダの鳩は、とどまることなく、つい昨日、巣立っていきました。約2か月、我が家のベランダで同じ屋根の下暮らしてきましたので、少しさみしい気もします。

 さて「とどまる」ってどういうことなのでしょうか。「とどまる」とは、「同じところに居続ける」という事です。

2023/07/28

使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」

*** 7/26(水)祈祷会 説教概略 ***

使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」

 本日は「祈りの備え」の大切さを教えられて参ります。
 このみことばの背景を少し確認いたしましょう。どのようなタイミングの出来事だったのでしょうか。9節をご覧下さい。 

2023/07/24

第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」

*** 7/23(日)主日礼拝 説教概略 *** 

第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」

 子どもの頃の話になりますが、イエス・キリストとは、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っていたことがありました。しかし、実は、聖書の時代のユダヤ人たちは、基本的に苗字というものがないのですよね。ですから「だれだれの子」と親の名前で区別したり、「マグダラのマリア」のように地名を入れたり、あるいは「大工のヨセフ」のように職業で区別したりしていました。実はイエスという名も一般的な名前なので、ナザレに住んでいたことから「ナザレのイエス」と呼ばれました。

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