【だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
】マタイ6:25 本当に大切なモノって意外に大切にされないことがある。 かせぐために仕事をがんばり、体を壊し・・・
かせいだお金で健康を買い戻す。 家族のためにと時間を忘れて仕事をし続け・・・
気づいたら家庭が壊れている 健康のために何を食べようかとさんざん悩み・・・
悩みすぎて疲れてやけ食い(笑) 神さまのために!と奉仕を必死にがんばり・・・
疲れて教会に行けなくなる 大切なものを聖書からいつも気づかせてもらおう
【あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
】マタイ6:27
心配が趣味の人はいますか? え?心配が仕事? そんな人もいるかも知れない。 それぐらい私たちは心配しすぎている。
心配の大半が「不要な心配」だと言うのに・・・ 心配することで好転し、うまくいくならいい。 でも、たいていの場合心配することで、かえって悩みが増え、苦しみが増す。
どんなに心配しても、寿命を1分さえのばすことなどできないのだから 神さまにおゆだねしよう! 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。 」(Ⅰペテロ5:7)
【だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
】マタイ6:33
色々なものを求め過ぎるとしんどいよね。 ひとりの人ができることなんて限られている
神さまは、「あれこれ心が分かれたら大変だよ!心配しすぎだよ!」と 気づかせてくれるんだ。 だから、あれもこれもと思わないで
ただ神の国とその義を求めよう! それは、別の言い方をすれば、
イエス・キリストについて行くことだ。 神さまは多くを求めていない。これだけでいい。 そのとき、必要なものは神さまがぜ~んぶ与えてくれる。
神さまが保証してくれるんだから安心だ
【さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。】マタイ7:1-2
「あいつ下手だなぁ!」と言ったとき 「じゃぁ、お前やってみろよ!」と言い返され ハードルを上げてしまったことに気づく・・・
そんな経験はない? 誰かを批判し、誰かをさばくとは
自分も同じ基準でさばかれると言うことだ。 結局僕らは自分で自分のクビを閉めている。 さばくのは公平な神さまだけで十分。
ゆがんだモノサシでしか測れない僕らは あわれみの心で生きて行こう
【また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁(はり)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができま:す。】マタイ 7:3-5
人の悪いところはすぐに気づくけれど 自分の悪いところには気づかない私たち。 イエスさまによれば、他人の目の中にある小さな「ちり」には気づく。
でも、自分の目の中にある大きな木(梁:はり)には気づかないと言う。 そんなに大きなものが目に入っていたら、他の人を正しく見えるはずがない。
だから、私たちはまず先に自分の問題を神さまに取り扱ってもらおう! 目の中の大きなゴミが取れたら、他の人のこともまっすぐに見えるようになるから
【求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。】マタイ7:7-8
神さまは、あなたが自分から求めて来るのをいつも待っている。 そして求める者には、門を開いてたーくさん与えたいと思っておられる いつでもあなたの前に、門は開く用意ができている!
門が閉じているとしたら それはあなたの勝手な思い込み、あきらめの心が原因だ。
主は門をたたくどんな者にも、喜んで開いてくれる あきらめないで、本気で神さまに求めていこう!
【狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
】マタイ7:13-14
ひろ~~~い門は、探すまでもなく、この世の人の流れに乗ってさえいれば入ることができる。 見つけるのに何の苦労もせず 自由気ままに生きていれば誰でも気づいたら通っている門。
でも、中に入ってからは狭い、苦しいところ 悪魔が用意するものはそういうものだ。 ひろ~く口をあけて、いっぱい入れるように見栄えをよくしている。
でも、せま~~い門は、求めてさがさないと入れない。 だから、神さまは「求めなさい!さがしなさい!」とおっしゃった。 貴重な良いものは、苦労してさがさないと見つからないよね?
天へと続くいのちの門、そこは狭い門だけれど、中はとても豊かで美しい世界。 狭い門から入って、いのちへの道をあなたにも選んで欲しい
【わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。
】マタイ7:21
私たちの口は、いいことをいくらでも言える。 カッコいいことも、美しいことも言える。
だから、「愛してる」と毎日言えたとしても 困っている時に助けてくれず、大事してくれないなら そのことばは中身のない、からっぽなものだ。
神さまも中身のないからっぽのものを喜ばれない。 どんなに雄弁な人であろうと、天の神さまの願うことと正反対に生きているなら その人は天の御国から一番遠い人かも知れない。
逆に、ことばでは美しいカッコいいことを言えなくても その生き方が神さまの願うような愛と真実に満ちているなら その人は天の御国に最も近い人じゃない?
【だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。】
マタイ7:24-25
みことばを聞くだけで終わってしまうのはとても残念 それを聞いて、そのとおりに行うならば
岩の上に家を建てる人のようになれる。 どんなに建物がステキで、かっこよくても 土台がゆるゆるだと、とても弱い。
あなたはどう? 外見ばかり立派にしていても
あなたの中にしっかりとした柱はある? ゆるぎない土台を持っている? 最後まで残るのは、そうした芯(しん)がある人。
あなたもみことばに毎日生きて、しっかりした芯を持つ人になろう
【すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
】マタイ8:2
「ツァラアト」というのは、とても大変な病気。 医者もどうにもできないし、皮膚に病状が出るので
人々から隔離(かくり)され、その病気の人はとてもさみしい生活をしていた。 でも、この人はイエスさまに驚くべきことを言った!! 「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスさまが望みさえすれば、難病もいやしきよめてもらえる! この人はそのような信仰で、イエスさまにいやしてもらった。 神さまのおゆるしなしには、私たちは明日生きることもできない。
逆に、神さまが望んでおられるから、今日生かされているんだ。 「神さまのお心ひとつです!」 と祈りゆだねるとき、生きるのが少し楽になっていく
【イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
】マタイ8:7-8
多くの人がイエスさまに手を置いて欲しかった。 イエスさまに祈ってもらいたかった。
イエスさまのことばを直接聞きたかった。 でも、ローマの百人隊長は、イエスさまに家に入ってもらうことさえおそれ多いと本気で思った。 自分のような不信仰で、未熟な汚れた者の家にきよいイエスさまに来てもらうなんて申しわけないと思ったのかも知れない。 でも、それって実は信仰なのでは?? それほどイエスさまをすばらしいお方、聖なるお方、力あるお方と本気で思ってるから
おことだばけいただければ十分!と思ったんじゃないかな?
【すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
】マタイ8:24
舟が嵐にあい、大波をかぶる中で、弟子たちはおぼれてしまうのではないかととても恐ろしくなった。 そのときイエスさまは? なんと、グッスリと眠っておられたんだ。
僕らは大波や風を見てこわくなる 起こっている大変な出来事ばかりを見ているからこわい。
でも、それらのすべての背後には神さまがいるんだ。 イエスさまはそれをよくご存知だったから、グッスリと眠っていた これが「ゆだねる」ということだ。
外で大嵐が吹いていようと、お母さんの両腕の中に抱っこされている赤ちゃんは 安心してスヤスヤ眠れる。 それと同じように、嵐や大波が僕らを襲うとも
神さまの腕の中に身をゆだねているなら 何もこわくはない。しっかりと主の腕のぬくもりを感じて生きよう
【すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
】マタイ8:29
わめいた「彼ら」って誰だろう? 前後を読むと悪霊たちだとわかる。
悪霊でも、イエスさまのことを「神の子」だと言っている。 それどころか、イエスさまの力をよく知っていて、恐れているようだ。 ここから、イエスさまを信じるってどういうことだろうと考えさせられる。
「イエスさまは神の子です」と口先で言えても意味がないんだ。 悪霊になかったもの・・・ それは「信頼」じゃないかな?
イエスさまが力があるのは知っている。でも、イエスさまが愛と恵みに満ちたお方であると信頼することが彼らにはない。
僕らはイエスさまを信じよう それはただ「知っている」のでもなく、口先で「言える」のでもなく
心から信頼していくことだ
【すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。】マタイ9:3-4
私たちは見える部分でばかり生活をしている。 見えるところを一生懸命つくろって良く見せる。 髪型、服装、持ち物、みんなの前での笑顔やことば・・・
聖書の時代、律法学者たちは立派なすごい人だとみんなから「見られていた」。 見えるところでは、これ以上ないほど立派に見えた。 でも、心の中で神さまに喜ばれない、愛のない考えを抱くことも多かった。
イエスさまはそれを見て、こう言われたんだ 「なぜ、心の中では悪いことを考えているのか?」と。 隠れているものが、隠れたままであり続けることはない。
僕らはこの心を、イエスさまの愛で照らしてもらおう!
【イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ~中略~ わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」】マタイ9:12-13
イエスさまは人々から嫌われ、非難されている罪人たちと一緒に食事をしていた。
なぜ、あんな悪人と!? なぜ、あんな汚れた人と!?
人罪人と進んで交わりを持つイエスさまを人々はさばいた でも、正しい人などいるのだろうか? 罪のない人などいるのだろうか?
医者を必要とするのが病人であるように イエスさまの十字架を必要とするのは 自分が罪深い人間だと認めている人だ。
十字架を求めることができない人に救いはない。 他人をさばいて、自分を正しいとする人生は、かえって滅びへの道なのだ。 そうではなく、罪人のためにこそ来てくれたイエスさまに喜んで近づこう
【また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。】マタイ9:17
新しいぶどう酒は発酵(はっこう)する力が強いので、新しい皮袋に入れないと破れてしまう。
そうすると、ぶどう酒も袋もダメになってしまうよね? これは、私たちが古いままの考えにしばられていると より新しい良い教えを受け入れられず
良い教えもムダになってしまうということだ イエスさまによる救いの知らせ、新しい契約を、人々はなかなか受け入れられなかった。 神さまはあなたに、新しいことをなさろうとしている。 あなたの古い考えにこだわらず、神さまが今日なさろうとすることに目を向けてみよう
【すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。
】マタイ9:20-21
でも、ここに登場した病める女性は、イエスさまの着物のふさにでもさわれればきっと直ると考えた。 声をかけてもらう必要もない。 手を置いてもらう必要もない。
イエスさまに直接触れる必要さえない。 自分にはそんな資格すらないし、このお方の着物のふさで十分だ。 それは謙虚なだけじゃない。
とても大胆な信仰にも思える 着物の端にさわれれば十分いやされる!とは
それだけイエスさまを力あるお方だと信じているからだ。 主がついてれば十分だ。 祈れたから大丈夫だ。 みことばがあればやっていける! 私たちもこんな大胆な信仰で、自信をもって生きていこう
【イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。】マタイ9:23-24
群集たちは「あざ笑った」。 死んだ人がよみがえるなんて、ありえない! そう考えたからだ。これはごく常識的な、ふつうの考え方だ。
でもイエスさまは、目の前で息絶えている女の子を指して 「死んだのではなく、眠っているのだ」とおっしゃった。 聖書は、神さまを信じて亡くなった人たちのことを「眠っている人たち」とあえて表現している。
それは、死が終わりではなく、復活の希望が確かにあるからだ。 これを「わざ笑う」のか、それとも「信じて神の国に入る」のか。 あなたはどちらを選ぶ
【また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
】マタイ9:36
羊はとても弱く、自力では生き抜いていけない動物だ。 戦う武器を持たず、視力も弱く、おくびょうなんだ。
だから「羊飼い」がいないと、狼などに狙われ、迷子になって弱り果てる。 イエスさまは、人々を見てまるで羊飼いを持たない羊のようだと深くあわれまれた。 あなたはどう
ぼろぼろに弱り果てていないだろうか。 イエスさまは、そんなひとりひとりを導く羊飼いになろうとされた。 もうあなたが迷子にならず
孤独にふるえることなく 弱り果てないようにと。
わたしがあなたを抱きかかえ、あなたを守り支える。 大丈夫だ、安心して生きなさいと主は語りかけておられる
【あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。】マタイ10:8
神さまからのプレゼント。 それはイエスさまの十字架だ。 神の子イエスさまのいのちだ。
わたしたちはそこにある救いを得るために、何も支払っていない。 イエスさまはいのちを払ってくれたけど 私たちは代価を払うことなしに、タダでもらったんだ。
神さまからいただいているものは全部タダ しかも、タダなのに良いものばかり!! だから、私たちも喜んで、そして自分から・・・
他の人々にタダであげよう。 イエスさまの愛を分かち合おう。
救いの恵みをプレゼントしよう。 されて嬉しかったことを、見返りなしにしていこう
【いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。】マタイ10:16
新約聖書の時代、キリストを信じる者たちは多くの迫害と戦った。 喜んで素直に信じる人ばかりではなかった。 批判されたり、バカにされたり、否定されたり、ひどい目にあわされることもあった。
イエスさまはそんな状況に置かれる弟子たちに、派遣のことばを送った。 「蛇のようにさとく(かしこく)、鳩のようにすなおであるように」と。 何も知らない人でいてはいけない。
この世界の仕組みを学び、人々の心を理解し 知恵を使って、不要な争いをさけることも大切。 だから宿題もしっかりやろう!自分からも学ぼう!
一方、「すなおさ」とは「まじりけのない純粋さ」のこと。 イエスさまを信じる信仰においては、まっすぐでいたい 賢いのに、子どものようなまっすぐさを持つ人。
そういう人は本当に魅力的で、人々からも信頼される
【人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。】マタイ10:19-20
神さまは、キリストを信じるすべての者に御霊(みたま)をくださった。
クリスチャンは、この御霊によって生きるようにと聖書で教えられている。 御霊は意志をもって私たちをイエスさま中心の歩みへと導いてくれる。 祈りのことばを導いてくれたり、話すべきことばを与えてくれる。
だから、どんな状況にあっても恐れる必要はない ここにあるように、神の御霊が話すべき大切なことは示してくれる。 ことばが苦手だと思うなら、なおさら御霊にゆだねよう
【からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。】マタイ10:28
あなたにはこわいものはある? 「人間が一番怖い」と言う人もいる。 でも、本当に恐れるべきお方は、この世界を造られた方。
僕らの命だけでなく、たましいまでも滅ぼしつくせる力を持つお方。 確かに人に憎まれるのはつらい。 人に攻撃されるのはこわい。
でも、僕らの心やたましいにまで手を出すことは人間にはできない! 大きな番犬のこわさを知っているなら、普通の犬がほえてもあまりこわさを感じないよね? そのように、本当に恐れるべき神さまを恐れ始めると、人を必要以上に恐れなくて良くなる。 恐れるべき方を恐れ、うやまって歩んでいこう
【二羽の雀(すずめ)は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。】マタイ10:29-31
すずめは当時激安で売られていた。 1匹ではなく2匹でようやく「1アサリオン」という値段がついたぐらいだ。 10円で買えるようなものは、なくしてもそれほど気にならない。
けれど父なる神さまは、そんな小さなすずめの一羽さえも見失うことなく いつも心に留めておられるんだ。 まして「神のかたち」に造られたあなたを神さまが大切に思わないはずなどないんだ
あなたの髪の毛が一本抜けても、あなた自身も気づかないよね? でも、神さまはあなたの髪の毛の数までもいつも知っておられる。 さあ、今日もこの愛の中、恐れずに生きていこう
【わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
】マタイ10:42
旧約聖書の時代、ラハブという女性は神の民を危険をかえりみずに助けた。 外国人で、神さまの知識もなかったけれど
彼女なりの精いっぱいで神の人らを助けたんだ。 彼女はそれ以来、神さまから多くの祝福を受けた。 彼女の子孫としてイエスさまが生まれたことは、格別な祝福だろうと思う。
僕らのまわりにも、そういう人たちがいるはず。 信仰を持っていなくても、僕らを応援してくれたり、良くしてくれる人がいる。 正しく理解してもらえてなくてもいい。
学校、近所、職場で、聖書信仰に敬意をあらわしてくれる人がいたら 理解を示してくれる人がいたら まず心から感謝しよう 彼らの祝福のためにもぜひお祈りしよう
【そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。】マタイ11:25-26
ジョージ・ミュラーは、優秀だったが罪を繰り返していた若かりし頃、家庭集会である人の祈りを聞きこう思ったと言う。
「自分はこの人よりもたくさんのことを学んでいる。 でもこの人は、自分よりもずっとすばらしい祈りをしている」 その祈りは幼子のような祈りだった。
聖書の真実は、勉強ができる頭のいい人こそ発見できる・・・というものでは決してない。
「かしこい者や知恵ある者には隠して」とさえ語られている。 その代わりに「幼子」たちに現してくれたというのだ。 あなたが素直な心で求め、幼子のように小さな者となって神さまに求めるなら
神さまはあなたに最高の知恵、この世界の真理を教えてくれる
【すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 】マタイ11:28-30
キリストはこう言って僕らを招いている。
規則や評価で僕らを疲れさせたりするためじゃない。 プレッシャーを与えるためじゃない。 むしろ、僕らを休ませるためにイエスさまは招いてくれているんだ。
たましいに本当の安らぎを与えたいから 「わたしのところにおいで」と優しく語りかけてくれている だから、悩んでいないで、素直にイエスさまのふところに飛び込もう
【『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」
】マタイ12:7-8
人は自分には甘く、他人には厳しく批判する。 ルールを破った人がいたら、その背景や事情を無視して反射的に批判する。
約束の時間を守れなかった人がいた。 でも、それは困っている人を助けたためだったとしたらどう?
神さまは、あわれみを好むとおっしゃった。 ルールをカンペキに守ることより、大切なことがある。 神さまを愛することや人を愛することは、
杓子定規(しゃくしじょうぎ)にルールを守ることより美しい。 人を罪に定める生き方ではなく 人にあわれみをかけられる歩みをしたい
【イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
】マタイ12:11
当時の厳しいユダヤ人たちは、聖書の教えを人をさばく道具に変えてしまっていた。 安息日(当時の土曜日)には、どんな仕事もしてはならないと定めて
料理を作ることも、灯りをともすことも、 人をいやすこともしてはならないとまで考える人がいた でも、イエスさまは何のために「安息日」が造られたのかを教えられた。
人がゆっくり安息するために、週に一度は仕事を休みなさいと命じてくださったんだ。 だから、「どんな仕事もしない」ことが中心ではなく 神さまと共に、ゆったりと安らかに過ごすことが中心。
そのためにいやしが必要ならば、傷の手当てをしたり、病を治療したっていい。 神さまのメッセージの本質がわかると 本当にいやされ、なぐさめられる
【これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」】マタイ12:24
良いことをしている人がなぜか気に入らないことがある。 活躍して目立っている人をねたましく思うことがある。 当時、多くの人から称賛されたイエスさまは
同時に、多くの人からねたまれ憎まれた。 正しい愛のわざを行い、悪霊を追い出し、病をいやした。 だが、ねたましく見える人はこう批判した。
イエスは悪霊のボスを操って、悪霊の手下を追い出しただけだと! 正しい良いものさえも、ねたましく憎らしく思えてしまうとするならば それは僕らの罪が原因だ。
人の成功を喜べる愛の力を、どうか神さま僕らに与えてください
【まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
】マタイ12:34-35 「心にもないことを言っちゃった!ごめん!」 そんな風に謝ることがある。
でも本当に心に思っていないことは、とっさに口から出だりしない。 イエスさまが言うように、心に満ちていることを口が話すんだ。 家族などの近い関係の人に、僕らはついそういうことをやってしまう・・・
だから、心やたましいそのものがしっかりケアされ、 僕らの心が、良い物をたくさん貯蔵する倉庫になる必要がある! 言葉だけをどうにかするのではなく
心を神さまに整えていただこう
【ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
】マタイ12:41
ニネベの人たちは、罪まみれの人たちだった。 あまりにも罪深く、悪がはびこっている連中だったので、滅びは目前だった。
でも、やさしい神さまは、その前に悔い改めるチャンスを与えたんだ。 預言者ヨナを派遣して、自分の罪を悔いて神に立ち返れ!とヨナは語った。 後に、ヨナよりもずっと素晴らしいイエスさまが来られた。
イエスさまのメッセージを聞いてさえ、「ごめんなさい」が言えない人。 そういう人を救うことは不可能だ。 だから、今日イエスさまのことばを聞くなら、
自分の罪深さを素直に「ごめんなさい」と告白し、 イエスさまを心にお迎えしよう
【天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
】マタイ12:50
外国に行ったとき、同じ神さまを信じているというだけで 知り合ったばかりの人に「Brother!(兄弟)」と呼びかけてもらえた。 世代も国境もこえて、家族となれることは なんてうれしいことだろう
ここでイエスさまが教えてくれたように 血のつながりをこえた家族があるんだ。 神さまをお父さんとする子どもたち。
天のお父さんの心を理解して、それを大切に生きて行く者たち。 イエスさまは、彼らを兄弟・姉妹と呼ばれる 僕らのお兄さん、イエスさまと一緒に天のお父さんの守りの中で生きていこう
【まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
】マタイ13:17
「感謝の心」持ってる? 当たり前のことなんて本当はひとつもない。
聖書が自由に読めるのも当たり前じゃない。 読みたいと思っても、手に入れることすら難しい国もある イエスさまと出会えた人たち、聖書を自由に読める僕らは
実はとても恵まれているんだ。 見たいと願っても、知りたいと願っても見られなかった人たちがいる。
だからこそ、与えられているこのチャンスを大事にしたい。 聖書という宝石箱から自由に真理を学べるチャンスがある! 今のこの時に、心に永遠に残る宝物をしっかりたくわえよう
【御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
】マタイ13:19
「そんなこと、わかってるよ!」子どもの頃、親によく言ったセリフ。 けれど、親になって初めてわかることって少なくない。
僕らは表面的なことばだけを聞いて「うるさいな~わかってるって!」とつい答える。 でも、本当にわかってる すごく心配してもらってるってこと。
ことばの背後にある優しさ、温かさ、思いやりを・・・ 聖書のことばも同じ・・・ 表面的な文字だけ読んで意味がわかっても、そのことばに込められた神さまの愛に気づけないともったいない。
「聞いても悟らない」 それは、神さまのふか~い愛に心を向けてない時に起こる。
さあ、文字だけ読むのはやめよう。 そこに注がれた愛をしっかり受け取って歩んでいこう
【また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
】マタイ13:20-21
表面に土がかぶっている岩地では、種がまかれてもしっかり成長することは難しい。 岩には根を張れないからだ。
いい話だなぁと思える部分ばかりを受け入れる人は しっかりと根を張って強くなっていくことができない。 むしろ、僕らが本当に成長できるのは、
自分にとって「厳しいなぁ」って感じるメッセージを受け取った時だ。 受け入れにくいメッセージ・・・それを反射的に拒むのをやめてみよう。 「うっ」と思っても、静かに心におさめて思いめぐらそう。
きっとそこから、一歩成長していくことができるはずだから
【イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
】マタイ13:31-32
イエスさまはこの世界にあるものを用いて 「天の御国」のことを説き明かしてくれた。
それは「からし種」のようなものだと言う。 からし種は、どれぐらいのサイズだと思う? 米つぶの10分の1ぐらい。0.5mmぐらいなんだ。 そこにあることさえ気づかないほどの、小さな黒い点。 それなのに、そこにはいのちのパワーがある!
生長すると3~4mになるんだ だから、小さいから力がないなんて思わないで!!
あなたが愛のわざ、あなたの小さな祈りは、小さく見えても大きな力になるんだから
【それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
】マタイ13:35
新約聖書は旧約聖書を説き明かす書と言われることがある。 このみことばにあるように、旧約においては明らかにされていなかったことを
イエスさまが説き明かしてくれたからだ。 聖書はあるか所だけを読んでもわかりにくいことがある。 でも、他のみことばと合わせて理解すると真実が見えてくる!
とくにイエスさまは、たとえ話も用いて わかりやすく僕らに示してくれている。 旧約で語られていたことの多くが
イエスさまにおいて明らかになっている。 僕らもしっかりイエスさまを見つめて歩もう
【毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
】マタイ13:39-40
この世界には良い麦だけじゃなく、悪い毒麦がある。 そして、聖書ははっきり「悪魔」の存在を教えている。
悪魔が僕らを神さまから引き離し、毒麦にしようとささやきかける。 悪魔はたくみなゆうわくで、天国をからっぽにして、地獄を満員にしようとするんだ。 だから、だまされないで、良い麦となろう。
イエスさまこそがその道だから 恐れなくていい。
悪魔の最後は滅びであり、それは聖書があまりにもはっきり言っていること。 悪が永遠に残ることはない! 僕らはイエスさまの光に導かれて、永遠の喜び、天の輝く国へと歩んでいこう
【この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
】マタイ13:55-56
イエスさまの何者? イエスはナザレという町の「大工の息子」として育ち、弟や妹らもいた。
だから、イエスさまを小さい頃から知る故郷の人は 大工の息子で教育などもきちんと受けてないのに、何で色々知ってるの? これらの知恵をどこから得たの?
・・・とふしぎに思った これらの人にいのちを与える知恵、希望を与える知恵は
すべて上から来る。父なる神さまがイエスさまにくださったもの。 「まことの人」そして「まことの神」であるイエスさまだからこそ 人の弱さを身にまといつつ、神の知恵で人を励ますことができるんだ
【そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。】マタイ13:58
神さまは僕らを無視しない。 だから、祈っても祈らなくても同じという状況にはしない。 信じても信じなくても同じにはなさらない。
だから、「主に信頼せよ!」「求めなさい」「絶えず祈りなさい」と 語りかけておられるんだ。 このみことばにあるように、信じようとしない者たちの間では
多くの奇跡は影をひそめてしまう だから
僕らがもっと祈り求めていたならば・・・ もっと信じてついて行っていれば・・・ もっともっと神さまは素晴らしい事をなさったんじゃないか?
そんな風にも思う。 せっかく用意してくれている恵みのプレゼント、もっと信じて祈り求めていこう