2019/04/20
2019/04/17
子育ては見方を変えると楽しくなる!
1. 知ることで劇的に変わる
知ること=子ども達の行動の背景を理解するのに役立つ
子育ては「知る」ことが大事。
それが見えてくると、意識的に少し甘えさせてあげよう。上の子にも関心を向けて、大げさに可愛がってあげよう!そうすると、愛のタンクが満たされてくる・・・それに、なんだ可愛いわね!と楽しむ余裕まで出て来ることもあるでしょう。
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知ること=子ども達の行動の背景を理解するのに役立つ
子育ては「知る」ことが大事。
知らないと本当に苦労する・・・
だから、まずは知りましょう!
例1)
赤ちゃん返り → 「あの頃は良かったなあ症候群」
二人目が生まれた時に、上のお子さんが赤ちゃん返りをすることがあります。親としてはとても大変です。ただでさえ、生まればかりの赤ちゃんの世話に忙しいのに、上の子まで赤ちゃんのように甘えて来るともう手がいっぱいです。
お母さんも余裕がなくなってしまいますよね?
でも、その背景や理由が見えると、対策ができるのです。
赤ちゃん返りは、簡単に言えば「あの頃は良かったなあ症候群」
赤ちゃんだった時はママを独占できていた。泣けばすぐに抱っこして、甘えさせてくれていた。でも・・・自分がお兄ちゃん、お姉ちゃんになった時は、ガマンさせられる。ママを赤ちゃんに取られた!!さみしさが出るのは当然ですよね。それでお母さんの愛情欲しさに、自分も赤ちゃんのようになって関心を引きたいのです。
私たちは理由がわかると気持ちも整理できるのではないでしょうか。
例2)
反抗期 → 「成長期」と理解する
反抗期ほど、親にとっての試練はありませんね。でも「反抗期」という表現自体、表面的な現象を現しているに過ぎず、中身を正しく現わす表現ではないことに気づきましょう。
では、実際に起こっている中身とは何でしょうか?
それは・・・子どもが自分の意志を表し、親の言う通りにロボットのようにはしたくないという主張です。それは自我の芽生えであり、色々助けは必要だけども自分の思うとおりにやってみたいという気持ちの表れです。
ですから、これは単純な反抗ではなく「成長のしるし」なのです。
むしろ・・・成長しているんだな~と楽しむことさえできるのです。それにこの中身を理解して、対応すると個人差はあるものの、反抗をあまり経験しないで子育てすることも可能です。子どもだって「反抗」が目的ではないからです。
このように見方を変えると、つまりもっと本質を知ると、子育ても楽しむことができるようになってきます。心にゆとりが生まれるからです。
真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)
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聖書から学ぶ子育て
子育て支援サークル『ママ'sカフェ』にて、話されててきたお話しです。
以下のテーマで、子育てを励ますメッセージを随時UPする予定です。
「思春期と向き合う」
「時には嫌われても・・・」
「今あるものを豊かに」
「子どものストレスケア」
「子育てと目的意識」
以下のテーマで、子育てを励ますメッセージを随時UPする予定です。
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「思春期と向き合う」
「時には嫌われても・・・」
「今あるものを豊かに」
「子どものストレスケア」
「子育てと目的意識」
「子どもの孤独」
「反抗期は成長期」
「わが子に対する読解力」
「怒りではなく懲らしめ(叱ること)」
「お母さんも安らがないと!」
「共育ということ」
「わが子への信頼を伝える」
「自己管理」
「ワンオペ育児、インスタント育児の課題」
「心のゆとり、遊び心を持とう」
「隠れた怒りに気を付けて」
「子どもと向き合う」
「反抗期は成長期」
「わが子に対する読解力」
「怒りではなく懲らしめ(叱ること)」
「お母さんも安らがないと!」
「共育ということ」
「わが子への信頼を伝える」
「自己管理」
「ワンオペ育児、インスタント育児の課題」
「心のゆとり、遊び心を持とう」
「隠れた怒りに気を付けて」
「子どもと向き合う」
2019/04/15
マタイの福音書1~13章(LINEメッセージ・バックナンバー 2017)
以下はLINEメッセージで配信したものの「文字のみ」になります。
実際には改行の頻度が高く(その分句読点がない場合もある)、絵文字なども使われています。以上の理由にて読みづらい仕様となっていますことをご了承ください。
【イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
】マタイ1:18
新約聖書の最初にあるマタイの福音書。 その書の初めは、イエス・キリストの誕生についてだ。
驚いたことに、まだ10代であったであろうマリヤは、聖霊のお働きでお腹に赤ちゃんを宿らせた。 人間の意志や人間のわざによってではない、神の聖なるご介入によってお生まれになったんだ。
あなたと同じように、赤ちゃんとして生まれてくれたまことの人間。 一方で、聖霊によって生まれた聖なる神のみ子。 それが、私たちの救い主イエスさまなのだ
人の痛みを共にになってくれるまことの人であり、完全に救い出すことのできるまことの神。
このお方をあおぎ見て歩んでいこう
【「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」】マタイ1:20-21
処女マリヤのおなかに宿った赤ちゃんこそ 私たちを罪から救い出してくださるイエスさまだった。 人の力によって生まれるのではなく、神の聖霊によって生まれる。
この聖なる神の子イエスさまだけが、 罪のないイエスさまだけが、
あなたの罪の肩代わりができるんだ。 海でおぼれている人には、となりでおぼれている人を救えない
同じように、罪の海でおぼれる私たちには、となりの罪人を救うことはできない。 罪のないきよいイエスさまだけが、私たちの救い主なのだ
【「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
】マタイ1:23
マリヤのおなかの中に宿ったイエスさまは、「インマヌエル」というタイトルもあった。 旧約聖書で預言されていた呼び名だ! その意味は? 「神は私たちとともにおられる」だ。 はるか遠くにいる神さまではなく
あなたと無関係の神さまでもなく あなたのすぐとなりで
あなたを胸に抱いて あなたをおぶって あなたの肩をささえて あなたを決して見捨てない、見離さない ともに歩んでくれる神 それが、インマヌエルと呼ばれるイエス・キリストなんだ
【イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 】マタイ2:1-2
イエスさまが生まれたとき 同じ民族のユダヤ人たちは必ずしも歓迎しなかった。 自分たちの王、自分たちの救い主が生まれたのに、あまり関心を向けなかったんだ。 自分の立場や自分の生活のことで心がいっぱいだった だが、おもしろいことに、ユダヤ人ではない東方の博士らは興味を持った。 ユダヤ人の王として生まれた方に会いたいと、わざわざ遠くからやってきた。 イエスさまの救いは、このように世界中のすべての人のものだ。 求めない人ではなく、真剣に求める人は誰でもイエスさまに会える!! あなたも近くにいながら求めない人にならないで、求める人になろう
【『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」】 マタイ2:6
大きい方がいい!数が多い方がいい! 何かにつけてそう考えることはない? イエスさまが生まれたベツレヘムはとても小さい田舎町だ。 聖なる都エルサレムではなく、商業の盛んな都市でもなく、学問の町でもない。 それは数の多さ、繁栄、優秀さなどが神さまの好まれることではないということを示す。 目立たない小さな町ベツレヘムが、「小さくない」と語られているのは 人の考える繁栄ではなく、イエスさまがそこにお生まれになった事によるんだ。 あなたが小さな者であってもいい。 イエスさまがあなたのうちにおられたら、あなたはもう小さな者ではないのだから
【そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を贈り物としてささげた。】マタイ 2:11
東方の博士たちが生まれたてのイエスさまのもとに着いたとき3つのプレゼントをした。
黄金、乳香、没薬だ。 これらには意味があり、イエスさまがどのような方かを示している。
黄金は、イエスさまが王の中の王であること。私たちのまことの王はイエスさまなんだ。 乳香は、祈りや賛美を意味する。イエスさまが礼拝されるべきお方であることを表している。 没薬は、「ミイラ」の語源になったことばだと言われている。 死者をとむらう時に、使った香料のことだ。
これは、イエスさまの最も大切な使命、十字架の死と復活を意味している。 王であり、神であるイエスさまが、十字架であなたを救うために あなたの代わりに罪のさばきを受けるためにこの地に来られたのだ
【そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」】マタイ3:1-2
天の御国にふさわしい姿、それは自分の罪に正直に向き合うこと。 自分は悪いことなんて一つもない! 自分はいつでも正しい! このように自分の正義にしがみつく人は、 神さまの愛を見失い、人を押しのけ、自分も苦しくなる。 でも、自分には罪がある。 自分勝手な一面や人を愛せないことがある。 そう認める人は、悔い改めることができるんだ! 間違っても、悪いことをしてしまっても、悔い改めることができるなら、 そこから救いの道が見えてくる。 神さまはあなたをいつでも待っている。 自分の罪を正直に認めて、神さまの方に方向転換していこう!それが悔い改めていくことなんだ
【それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 】マタイ3:8
悔い改めることは、単に口先で「ごめんなさい」と言うことではない。
キリストと共に生きるということは、ただ心が楽になるというだけのことじゃない。 生活が豊かに、良いものに、輝くものに変わっていくことでもあるんだ! 本気で自分の罪深さに涙し、悔い改めた人は
本物の喜びに目覚める なぜなら、こんなにも罪深い自分がゆるされたことが奇跡のようで
嬉しくて嬉しくてしょうがないから。 ありがたくて、感謝の気持ちがあふれて、この良い知らせを伝えたくなるから。
あなたが、今、ゆうつな顔で毎日をすごしているなら 神さまの前に悔い改めの心で出ていこう。あなたのどんな罪も神さまはゆるしてくださる
【・・・私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。・・・】マタイ3:11
私(ヨハネ)の後から来る方とは、イエス・キリストのこと。 弟子を何人も抱えていたヨハネ。 それなのに、自分はイエスさまのはきものを脱がせてあげる価値もないと言った。 この時代、はきものを脱がせるのは、奴隷の仕事だ イエスさまはそれほどにすぐれたいと高きお方! このイエスさまが、私の隣人(となりびと)になってくれたなんて!! イエスさまの偉大さを味わいながら、イエスさまの友としてもらえた幸いをかみしめよう
【こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 】マタイ3:16
え?イエスさまも洗礼(バプテスマ)受けたの? 受けたんです! それが父なる神さまのご計画だったから。 洗礼を受けたとき、聖霊がイエスさまにくだった。 イエスさま自身が、信仰者のモデルになってくれたんだ。 イエスさまに聖霊がくだられたように、私たちもイエスさまに信頼するなら聖霊がのぞまれる! イエスさまが洗礼を受けられたのだから、私たちも洗礼を受ける! イエスさまの弟子としてついていくなら、まずココから! 洗礼はゴールではなく、イエスさまについて行く者のスタートラインなんだ。
【また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
】マタイ3:17
イエスさまが洗礼を受けたとき、天から父なる神さまの声が響いた。 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
愛するわが子への熱烈なことば。 イエスさまが天のお父さんから受けたこのことばは
イエスさまの弟子たち=キリスト者たちにも向けられている。 なぜなら、イエスさまは私たちの一番上のお兄さん 私たちの信仰の「創始者」とも言われているからだ!
イエスさまがそのように愛され、祝されたなら イエスさまの弟、妹である者も、同じように愛され祝されていることがわかる。 あなたは神さまの大切な大切なわが子!
喜んでくれているんだ
【すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
】マタイ4:3-4
40日の断食で、空腹すぎたイエスさまに、悪魔はこの誘惑をした。 神の子の力を、自分の食欲を満たすために使ったらどうだ?と誘惑したんだ。
イエスさまはこの誘惑に勝利した 勝利の方法は、みことばに従うことだった。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』 旧約聖書のことばで、誘惑を退けた。 人はごはんを食べるだけで生きていくんじゃない。
栄養があれば元気に輝けるんじゃない。 神さまの「いのちのことば」を握って、心に火がともるから輝いていけるんだ
【すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」】マタイ4:5-7
悪魔は聖書のことばまで用いて誘惑してくる。 みことばをすこ~しばかりすり変えて すこ~しばかり自分勝手に受け取るようにさせる 「自分から飛び降り、命をそまつにしても天使が助けてくれる!」なんて聖書は言ってない! むしろ、イエスさまが言ったように、『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてあるんだ。 聖書全体をよく知っていれば、イエスさまのように答えられる。 誘惑への勝利のカギは、聖書全体をしっかりと学ぶことだ
【今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」】 マタイ4:8-10
私たちの心は「偶像工場」だ。 お金、アイドル、ゲーム、スマホ、恋愛。 これらが神さまより大切になっていたら、要注意! それらは一時的に興奮させ、いい気分にさせ、私たちを神さまから引き離す 神さまを第一にしていくとき、これらを正しく用いたり、管理したりできるようになる。 神さまだけをあなたの神としてあがめよう!
【イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。】マタイ4:19-20
ペテロとアンデレは漁師だった。 漁師にとって、網はとても大切な商売道具。
でも、イエスさまからお声をかけられ、人間を導く人になるようにと言われたとき、 彼らは大切な網を捨てて、イエスさまに従った。 イエスさまに従うことがあまりにも素晴らしいので、
これまで大切だと思っていたものさえ、たいしたものではないと思えるのだ。 首から下が不自由な星野さんの有名なことばがある。 「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」 いのち以上に大切なものに出会えたら、こんなにスゴイことはない! イエスさまとの出会いは僕らにそう思わせてくれる
【「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。】マタイ5:3
イエスさまによる「山上の説教」と言われる場面だ。 心がカラカラにうえかわき、自分には愛が必要だと思える人。 その人はなんて幸せなことだろうかと、イエスさまはおっしゃった。
心がウソの幸せでいっぱいになっている人は 神さまの愛をなかなか求められない。 忙しすぎて、自分の心のむなしさに気づかない人も同じだ。
「むなしさ」は自分の心が出している大切なサイン。 自分の心の貧しさを受け止めた人は、神さまが用意しておられる「天の御国」を求める それはイエスさまを信じた時から始まる!
イエスさまを求める人に 喜びと平安に満ちた天の御国が来る! これが聖書の約束だ。
【悲しむ者は幸いです。その人たちは慰(なぐさ)められるから。】マタイ5:4
なんで悲しむ人は幸いなんだろう? 何を悲しむ人のことを言っているんだろう イエスさまが言っているのは 自分の罪深さを本気で悲しみ嘆く人のことだ。 ロイド・ジョーンズは言った。 「クリスチャンなのに喜びがない人の特徴は 自分の罪に泣いて、心から悔い改めたことがないことだ」と。 自分の罪に向き合い、本気で泣いて悔い改めた人は、そのゆるしの重みを知っている。 そのありがたみを知っている。 神さまはそういう人に、罪のゆるしの慰めを用意しておられる。 その人は慰められてこう思う。 こんな自分が愛され、ゆるされるなんて!!! なんて幸せなことだと。 自分の罪にしっかり向き合い、この慰めを主からいただこう
【柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。】マタイ5: 5
ここで言う「柔和な人」とは、自己主張から解放された人だ。 自分の持っている強さ、権利、権限さえも、愛の動機のゆえにそれをしないでいられる人だ。 それは弱いんじゃなく、本当は強い人だ。 あなたはどう? イエスさまはあるとき言った。 神の国は、このような小さな子どもたちのものです。 彼らのように自分を低くする者でなければ、神の国に入ることができないと。 柔和な者とは、自分の主張をさやにおさめ、力をセーブして 必要とあらば、喜んで弱く小さい者のようになれる人のこと。 そのような人にこそ、神は地をゆだね、御国へ入るようにと招いてくださるんだ
【義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。】 マタイ5: 6
「義」とはこの世の人の基準ではなく、
神さまの基準に照らして正しいということ。 だから、義にうえ渇くとは、自分の正義心を燃やすことじゃない。 自分の考える正しさを主張することじゃない。
神さまの前に何が良いことで何が正しいことかを求めることだ。 それは義なる神さま自身を慕(した)い求めることでもある。 人との関係で悩むとき、自分の正しさでなく、神さまの前に正しい良いことを求めたい。
自分の義を追及しても、誰かを言い負かしてもそこに真の満足はない。 自己満足じゃなく、神さまによる満足を求めよう
【あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。】 マタイ5:7
「情けは人のためならず」という言葉を、「他人に情けをかけると甘えてしまい、その人の益にならない」と勝手に思い込んでいたかつての私。 だが、情けをかけると、めぐりめぐって自分に返って来るのだと知って勝手に感動したのを覚えている。 あわれみを示す歩みは、他人の益になるだけでなく、神さまからのあわれみを受ける。 「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。 」(ヤコブ2:13)とあるとおり。 あわれみ心は人を柔らかくし、その人のあわれみの心を呼びさます。 あなたも今日、あわれみの心で人と接してみよう
【心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。】マタイ5:8
心のきよい者、それは純粋に神さまを求める人。 優先順位の第一番目に、神さまがちゃんといる人。 「だれもふたりの主人に仕えることはできません」とイエスさまが言うように 主イエスさまにのみ、まっすぐについて行こうと心に決めている人のことだ。 私たちは心を二つに分けて、罪の道と聖なる道の両方を同時に歩むことはできない! 愛の道と憎しみの道を同時に行くこともできない! 罪の心がわき上がって来ても、憎しみの心にとらわれても そこで、このみことばに帰ろう。 心のきよい人は、神さまをしっかりと見て歩んで行けるから本当に幸せなんだ。 まとわりつく罪を捨てて、イエスさまから目を離さずについて行こう
【平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。】マタイ5:9
平和を愛する人や平和が好きな人なら、世界中に山のようにいる。 戦争をしている人でさえ、平和のために戦っていると言うだろう。 けれど、「平和をつくっている人」はどれぐらいいるだろう
あなたは親や兄弟、親しい家族や友人との間に平和をつくってる? あなたの心はいつも穏やかな平和がある?(それとも嵐のように荒れてる?) そう考えると、平和をつくるって簡単じゃない。
まずは神さまとの関係で、平和をもらおう。心に平和をいただこう。 人が攻撃的に関わってきたときに、あなたは平和をつくる方法で応じてみよう! その人こそ、本当の意味で「神の子」と呼ばれるんじゃないかな?
【義のために迫害(はくがい)されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。】マタイ5:10
犯罪をしている人には迫害はない。 そこにあるのは刑罰だ。 嫌われないようにずる賢く生きている人に迫害はない。
人の顔色を見て、迫害を避けて生きているからだ。 本当に残念なことは迫害を受けることじゃない。 迫害をを恐れて、誰も正しい良いことをしなくなることだ。
そんな世界に誰が住みたい? 天の御国は、正しいことをまっすぐに貫くほどに祝福が増し加わる世界だ。
私たちはそのような良い世界に向かって生きていきたい。 悪い世界にしていくためにあなたがいるんじゃない。 人の前にも、神の前にも正しい「義」を求めて生きていこう
【あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。】マタイ5:13
塩がなかったら、料理はどれもまずくなる。 塩はみそにもしょうゆにも使われているんだ。 塩がただの白いかたまりになったら、意味がない! 神さまを信じて歩むってことは、この世界に美味しい味付けをする塩になるってこと 味付けだけじゃない。 塩は腐るのを防ぐ作用もある! この世界が腐敗していくのを止めるのが塩の役目だ! 神さまはあなたに塩気を保つ塩であって欲しいと願っている。 あなたが神さまと共に歩むなら、あなたが属する集まりに塩気や防腐の作用が生まれる・・・ そんな塩気のきいたあなたであって欲しい
【このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。】マタイ5:16
見せかけではなく、内側から輝いている人は魅力的だ。 そういう人の光は、人々の心を引きつける。 心にイエスさまを迎え、いのちのみことばをしっかり握って歩むなら
あなたの中にあるその光の輝きは 周囲の人の目にもしっかりと見えている!
あなたの考え方、あなたの優しさ、あなたの言葉・・・ あなたの行動、あなたの表情、あなたの人生全体に イエスさまが生きておられるから
【21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。】
マタイ5:21-22
「人を殺してはいけない」 これはモーセの十戒で語られていたし、法律上も大きな犯罪だ。 でも、キリストは人をののしり、その人格を否定することは 「ことば」で心を刺し貫くことで、大きな罪なんだとおっしゃった。 法律にひっかからなければ何をしてもいいんじゃない。 人を心から大切にして生きて行く道。 聖書はそれをいつも教えてくれている
【だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 】マタイ6:9
イエスさまが教えてくれた「主の祈り」の最初だ。 私たちは創造主なる神さまを、なんと「天のお父さん!」と呼ぶことができる どこか遠い方に祈るのではなく、小さな子が「パパ~!」とか「お父ちゃん!」って 呼ぶように、信頼して親しげに呼びかけられるなんてスゴい! そして、その御名があがめられますようにと祈るんだ。 それは「聖とされるように」と言ってもいい。 名前が汚されるんじゃなくて、おとしめられるんじゃなくて いつでも尊敬され、大事にされ、聖なるものとされるように! 口先だけでそうするんじゃなく、神の子として お名前が汚されないように生きて行けるよう、こうして祈るんだ。 私たちの人生を通して、私たちの神である方のお名前があがめられるように
【御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 】マタイ6:10
イエスさまは、御国に行けますように!ではなく・・・ 「御国が来ますように」と祈るよう教えられた。 御国とは、王なるイエスさまが統治する平安に満ちた国 それが、早くこの地に実現しますように!との祈りだ。 私に!あの人に! すべての人に御国が来ますようにと祈るんだ。 続けてこう祈る。 神さまのみこころが、天において何の妨げもなく行われるのと同じように この地上でもなされますように!と。 罪に満ちたこの世界に、愛と正義の神さまによる統治が実現するよう 私たちは毎日祈っていこう
【私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 】マタイ6:12
「主の祈り」の中でも、このお祈りをするときが 一番、心を探られる部分だ。 私たちに対する神さまの赦しを祈るならば 他の人の罪を赦すことが求められる。 自分は赦して欲しいけど あいつだけは赦さない そんな勝手な言い分は通らない。 だから、あなたが赦されたいなら この祈りを大事にしよう。 この祈りをいつも祈るということは、 そこで他人を赦すチャンスももらってるってことなのだから
【自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 】マタイ6:20-21
あなたは天国貯金してる? 利率は最高! 神さまが祝福して、バンバン増やしてくれる。 安全で無くなることもない! 保証は永遠! 何より、この地上でむなしい生き方にならず 「永遠」という視点の中で生きていける! あなたも天国貯金、始めてみませんか? 浮かんではすぐに消えていくアワのためにではなく 盗まれたら無くなる財のためにではなく 食べたらなくなる食べ物のためにでもなく いつまでも残ることのために あなたの大切な時間や労力をささげてみない?
【だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 】マタイ6:25 本当に大切なモノって意外に大切にされないことがある。 かせぐために仕事をがんばり、体を壊し・・・ かせいだお金で健康を買い戻す。 家族のためにと時間を忘れて仕事をし続け・・・ 気づいたら家庭が壊れている 健康のために何を食べようかとさんざん悩み・・・ 悩みすぎて疲れてやけ食い(笑) 神さまのために!と奉仕を必死にがんばり・・・ 疲れて教会に行けなくなる 大切なものを聖書からいつも気づかせてもらおう
【すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 】マタイ8:2
「ツァラアト」というのは、とても大変な病気。 医者もどうにもできないし、皮膚に病状が出るので 人々から隔離(かくり)され、その病気の人はとてもさみしい生活をしていた。 でも、この人はイエスさまに驚くべきことを言った!! 「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 イエスさまが望みさえすれば、難病もいやしきよめてもらえる! この人はそのような信仰で、イエスさまにいやしてもらった。 神さまのおゆるしなしには、私たちは明日生きることもできない。 逆に、神さまが望んでおられるから、今日生かされているんだ。 「神さまのお心ひとつです!」 と祈りゆだねるとき、生きるのが少し楽になっていく
【イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。 】マタイ8:7-8
多くの人がイエスさまに手を置いて欲しかった。 イエスさまに祈ってもらいたかった。 イエスさまのことばを直接聞きたかった。 でも、ローマの百人隊長は、イエスさまに家に入ってもらうことさえおそれ多いと本気で思った。 自分のような不信仰で、未熟な汚れた者の家にきよいイエスさまに来てもらうなんて申しわけないと思ったのかも知れない。 でも、それって実は信仰なのでは?? それほどイエスさまをすばらしいお方、聖なるお方、力あるお方と本気で思ってるから おことだばけいただければ十分!と思ったんじゃないかな?
【すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。 】マタイ8:24
舟が嵐にあい、大波をかぶる中で、弟子たちはおぼれてしまうのではないかととても恐ろしくなった。 そのときイエスさまは? なんと、グッスリと眠っておられたんだ。 僕らは大波や風を見てこわくなる 起こっている大変な出来事ばかりを見ているからこわい。 でも、それらのすべての背後には神さまがいるんだ。 イエスさまはそれをよくご存知だったから、グッスリと眠っていた これが「ゆだねる」ということだ。 外で大嵐が吹いていようと、お母さんの両腕の中に抱っこされている赤ちゃんは 安心してスヤスヤ眠れる。 それと同じように、嵐や大波が僕らを襲うとも 神さまの腕の中に身をゆだねているなら 何もこわくはない。しっかりと主の腕のぬくもりを感じて生きよう
【すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」 】マタイ8:29
わめいた「彼ら」って誰だろう? 前後を読むと悪霊たちだとわかる。 悪霊でも、イエスさまのことを「神の子」だと言っている。 それどころか、イエスさまの力をよく知っていて、恐れているようだ。 ここから、イエスさまを信じるってどういうことだろうと考えさせられる。 「イエスさまは神の子です」と口先で言えても意味がないんだ。 悪霊になかったもの・・・ それは「信頼」じゃないかな? イエスさまが力があるのは知っている。でも、イエスさまが愛と恵みに満ちたお方であると信頼することが彼らにはない。 僕らはイエスさまを信じよう それはただ「知っている」のでもなく、口先で「言える」のでもなく 心から信頼していくことだ
【すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。】マタイ9:3-4
私たちは見える部分でばかり生活をしている。 見えるところを一生懸命つくろって良く見せる。 髪型、服装、持ち物、みんなの前での笑顔やことば・・・ 聖書の時代、律法学者たちは立派なすごい人だとみんなから「見られていた」。 見えるところでは、これ以上ないほど立派に見えた。 でも、心の中で神さまに喜ばれない、愛のない考えを抱くことも多かった。 イエスさまはそれを見て、こう言われたんだ 「なぜ、心の中では悪いことを考えているのか?」と。 隠れているものが、隠れたままであり続けることはない。 僕らはこの心を、イエスさまの愛で照らしてもらおう!
【イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ~中略~ わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」】マタイ9:12-13
イエスさまは人々から嫌われ、非難されている罪人たちと一緒に食事をしていた。 なぜ、あんな悪人と!? なぜ、あんな汚れた人と!? 人罪人と進んで交わりを持つイエスさまを人々はさばいた でも、正しい人などいるのだろうか? 罪のない人などいるのだろうか? 医者を必要とするのが病人であるように イエスさまの十字架を必要とするのは 自分が罪深い人間だと認めている人だ。 十字架を求めることができない人に救いはない。 他人をさばいて、自分を正しいとする人生は、かえって滅びへの道なのだ。 そうではなく、罪人のためにこそ来てくれたイエスさまに喜んで近づこう
【また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。】マタイ9:17
新しいぶどう酒は発酵(はっこう)する力が強いので、新しい皮袋に入れないと破れてしまう。 そうすると、ぶどう酒も袋もダメになってしまうよね? これは、私たちが古いままの考えにしばられていると より新しい良い教えを受け入れられず 良い教えもムダになってしまうということだ イエスさまによる救いの知らせ、新しい契約を、人々はなかなか受け入れられなかった。 神さまはあなたに、新しいことをなさろうとしている。 あなたの古い考えにこだわらず、神さまが今日なさろうとすることに目を向けてみよう
【すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。 】マタイ9:20-21
でも、ここに登場した病める女性は、イエスさまの着物のふさにでもさわれればきっと直ると考えた。 声をかけてもらう必要もない。 手を置いてもらう必要もない。 イエスさまに直接触れる必要さえない。 自分にはそんな資格すらないし、このお方の着物のふさで十分だ。 それは謙虚なだけじゃない。 とても大胆な信仰にも思える 着物の端にさわれれば十分いやされる!とは それだけイエスさまを力あるお方だと信じているからだ。 主がついてれば十分だ。 祈れたから大丈夫だ。 みことばがあればやっていける! 私たちもこんな大胆な信仰で、自信をもって生きていこう
【イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。】マタイ9:23-24
群集たちは「あざ笑った」。 死んだ人がよみがえるなんて、ありえない! そう考えたからだ。これはごく常識的な、ふつうの考え方だ。 でもイエスさまは、目の前で息絶えている女の子を指して 「死んだのではなく、眠っているのだ」とおっしゃった。 聖書は、神さまを信じて亡くなった人たちのことを「眠っている人たち」とあえて表現している。 それは、死が終わりではなく、復活の希望が確かにあるからだ。 これを「わざ笑う」のか、それとも「信じて神の国に入る」のか。 あなたはどちらを選ぶ
【また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 】マタイ9:36
羊はとても弱く、自力では生き抜いていけない動物だ。 戦う武器を持たず、視力も弱く、おくびょうなんだ。 だから「羊飼い」がいないと、狼などに狙われ、迷子になって弱り果てる。 イエスさまは、人々を見てまるで羊飼いを持たない羊のようだと深くあわれまれた。 あなたはどう ぼろぼろに弱り果てていないだろうか。 イエスさまは、そんなひとりひとりを導く羊飼いになろうとされた。 もうあなたが迷子にならず 孤独にふるえることなく 弱り果てないようにと。 わたしがあなたを抱きかかえ、あなたを守り支える。 大丈夫だ、安心して生きなさいと主は語りかけておられる
【あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。】マタイ10:8
神さまからのプレゼント。 それはイエスさまの十字架だ。 神の子イエスさまのいのちだ。 わたしたちはそこにある救いを得るために、何も支払っていない。 イエスさまはいのちを払ってくれたけど 私たちは代価を払うことなしに、タダでもらったんだ。 神さまからいただいているものは全部タダ しかも、タダなのに良いものばかり!! だから、私たちも喜んで、そして自分から・・・ 他の人々にタダであげよう。 イエスさまの愛を分かち合おう。 救いの恵みをプレゼントしよう。 されて嬉しかったことを、見返りなしにしていこう
【いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。】マタイ10:16
新約聖書の時代、キリストを信じる者たちは多くの迫害と戦った。 喜んで素直に信じる人ばかりではなかった。 批判されたり、バカにされたり、否定されたり、ひどい目にあわされることもあった。 イエスさまはそんな状況に置かれる弟子たちに、派遣のことばを送った。 「蛇のようにさとく(かしこく)、鳩のようにすなおであるように」と。 何も知らない人でいてはいけない。 この世界の仕組みを学び、人々の心を理解し 知恵を使って、不要な争いをさけることも大切。 だから宿題もしっかりやろう!自分からも学ぼう! 一方、「すなおさ」とは「まじりけのない純粋さ」のこと。 イエスさまを信じる信仰においては、まっすぐでいたい 賢いのに、子どものようなまっすぐさを持つ人。 そういう人は本当に魅力的で、人々からも信頼される
【人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。】マタイ10:19-20
神さまは、キリストを信じるすべての者に御霊(みたま)をくださった。 クリスチャンは、この御霊によって生きるようにと聖書で教えられている。 御霊は意志をもって私たちをイエスさま中心の歩みへと導いてくれる。 祈りのことばを導いてくれたり、話すべきことばを与えてくれる。 だから、どんな状況にあっても恐れる必要はない ここにあるように、神の御霊が話すべき大切なことは示してくれる。 ことばが苦手だと思うなら、なおさら御霊にゆだねよう
【からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。】マタイ10:28
あなたにはこわいものはある? 「人間が一番怖い」と言う人もいる。 でも、本当に恐れるべきお方は、この世界を造られた方。 僕らの命だけでなく、たましいまでも滅ぼしつくせる力を持つお方。 確かに人に憎まれるのはつらい。 人に攻撃されるのはこわい。 でも、僕らの心やたましいにまで手を出すことは人間にはできない! 大きな番犬のこわさを知っているなら、普通の犬がほえてもあまりこわさを感じないよね? そのように、本当に恐れるべき神さまを恐れ始めると、人を必要以上に恐れなくて良くなる。 恐れるべき方を恐れ、うやまって歩んでいこう
【二羽の雀(すずめ)は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。】マタイ10:29-31
すずめは当時激安で売られていた。 1匹ではなく2匹でようやく「1アサリオン」という値段がついたぐらいだ。 10円で買えるようなものは、なくしてもそれほど気にならない。 けれど父なる神さまは、そんな小さなすずめの一羽さえも見失うことなく いつも心に留めておられるんだ。 まして「神のかたち」に造られたあなたを神さまが大切に思わないはずなどないんだ あなたの髪の毛が一本抜けても、あなた自身も気づかないよね? でも、神さまはあなたの髪の毛の数までもいつも知っておられる。 さあ、今日もこの愛の中、恐れずに生きていこう
【『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」 】マタイ12:7-8
人は自分には甘く、他人には厳しく批判する。 ルールを破った人がいたら、その背景や事情を無視して反射的に批判する。 約束の時間を守れなかった人がいた。 でも、それは困っている人を助けたためだったとしたらどう? 神さまは、あわれみを好むとおっしゃった。 ルールをカンペキに守ることより、大切なことがある。 神さまを愛することや人を愛することは、 杓子定規(しゃくしじょうぎ)にルールを守ることより美しい。 人を罪に定める生き方ではなく 人にあわれみをかけられる歩みをしたい
【これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」】マタイ12:24
【まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。 】マタイ12:34-35 「心にもないことを言っちゃった!ごめん!」 そんな風に謝ることがある。 でも本当に心に思っていないことは、とっさに口から出だりしない。 イエスさまが言うように、心に満ちていることを口が話すんだ。 家族などの近い関係の人に、僕らはついそういうことをやってしまう・・・ だから、心やたましいそのものがしっかりケアされ、 僕らの心が、良い物をたくさん貯蔵する倉庫になる必要がある! 言葉だけをどうにかするのではなく 心を神さまに整えていただこう
【ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。 】マタイ12:41
ニネベの人たちは、罪まみれの人たちだった。 あまりにも罪深く、悪がはびこっている連中だったので、滅びは目前だった。 でも、やさしい神さまは、その前に悔い改めるチャンスを与えたんだ。 預言者ヨナを派遣して、自分の罪を悔いて神に立ち返れ!とヨナは語った。 後に、ヨナよりもずっと素晴らしいイエスさまが来られた。 イエスさまのメッセージを聞いてさえ、「ごめんなさい」が言えない人。 そういう人を救うことは不可能だ。 だから、今日イエスさまのことばを聞くなら、 自分の罪深さを素直に「ごめんなさい」と告白し、 イエスさまを心にお迎えしよう
【天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 】マタイ12:50
外国に行ったとき、同じ神さまを信じているというだけで 知り合ったばかりの人に「Brother!(兄弟)」と呼びかけてもらえた。 世代も国境もこえて、家族となれることは なんてうれしいことだろう ここでイエスさまが教えてくれたように 血のつながりをこえた家族があるんだ。 神さまをお父さんとする子どもたち。 天のお父さんの心を理解して、それを大切に生きて行く者たち。 イエスさまは、彼らを兄弟・姉妹と呼ばれる 僕らのお兄さん、イエスさまと一緒に天のお父さんの守りの中で生きていこう
【まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。 】マタイ13:17
「感謝の心」持ってる? 当たり前のことなんて本当はひとつもない。 聖書が自由に読めるのも当たり前じゃない。 読みたいと思っても、手に入れることすら難しい国もある イエスさまと出会えた人たち、聖書を自由に読める僕らは 実はとても恵まれているんだ。 見たいと願っても、知りたいと願っても見られなかった人たちがいる。 だからこそ、与えられているこのチャンスを大事にしたい。 聖書という宝石箱から自由に真理を学べるチャンスがある! 今のこの時に、心に永遠に残る宝物をしっかりたくわえよう
【御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 】マタイ13:19
「そんなこと、わかってるよ!」子どもの頃、親によく言ったセリフ。 けれど、親になって初めてわかることって少なくない。 僕らは表面的なことばだけを聞いて「うるさいな~わかってるって!」とつい答える。 でも、本当にわかってる すごく心配してもらってるってこと。 ことばの背後にある優しさ、温かさ、思いやりを・・・ 聖書のことばも同じ・・・ 表面的な文字だけ読んで意味がわかっても、そのことばに込められた神さまの愛に気づけないともったいない。 「聞いても悟らない」 それは、神さまのふか~い愛に心を向けてない時に起こる。 さあ、文字だけ読むのはやめよう。 そこに注がれた愛をしっかり受け取って歩んでいこう
【それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」 】マタイ13:35
新約聖書は旧約聖書を説き明かす書と言われることがある。 このみことばにあるように、旧約においては明らかにされていなかったことを イエスさまが説き明かしてくれたからだ。 聖書はあるか所だけを読んでもわかりにくいことがある。 でも、他のみことばと合わせて理解すると真実が見えてくる! とくにイエスさまは、たとえ話も用いて わかりやすく僕らに示してくれている。 旧約で語られていたことの多くが イエスさまにおいて明らかになっている。 僕らもしっかりイエスさまを見つめて歩もう
【この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」 】マタイ13:55-56
イエスさまの何者? イエスはナザレという町の「大工の息子」として育ち、弟や妹らもいた。 だから、イエスさまを小さい頃から知る故郷の人は 大工の息子で教育などもきちんと受けてないのに、何で色々知ってるの? これらの知恵をどこから得たの? ・・・とふしぎに思った これらの人にいのちを与える知恵、希望を与える知恵は すべて上から来る。父なる神さまがイエスさまにくださったもの。 「まことの人」そして「まことの神」であるイエスさまだからこそ 人の弱さを身にまといつつ、神の知恵で人を励ますことができるんだ
【そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。】マタイ13:58
神さまは僕らを無視しない。 だから、祈っても祈らなくても同じという状況にはしない。 信じても信じなくても同じにはなさらない。 だから、「主に信頼せよ!」「求めなさい」「絶えず祈りなさい」と 語りかけておられるんだ。 このみことばにあるように、信じようとしない者たちの間では 多くの奇跡は影をひそめてしまう だから 僕らがもっと祈り求めていたならば・・・ もっと信じてついて行っていれば・・・ もっともっと神さまは素晴らしい事をなさったんじゃないか? そんな風にも思う。 せっかく用意してくれている恵みのプレゼント、もっと信じて祈り求めていこう
「人を殺してはいけない」 これはモーセの十戒で語られていたし、法律上も大きな犯罪だ。 でも、キリストは人をののしり、その人格を否定することは 「ことば」で心を刺し貫くことで、大きな罪なんだとおっしゃった。 法律にひっかからなければ何をしてもいいんじゃない。 人を心から大切にして生きて行く道。 聖書はそれをいつも教えてくれている
【23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
】マタイ5:23-24
神さまはあなたの何を見ているだろうか? あなたの心を見ているんだ。あなたのすべてを見ているんだ。
だから、罪をそのままにしないようにしよう それはあなたにとっても心に平安がない状態のはず。 神さまが喜ばれるのは、外側だけ立派に整えられたささげものじゃない。
それをささげている人の姿勢、心なんだ。 だから、あなたが神さまの前に誠実に歩もうとするなら それ自体が神さまに喜ばれる礼拝となることを忘れないでいたい
【しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で(かんいん)を犯したのです。】マタイ5:28
「見つからなければ大丈夫」 多くの人がそう思っている。 だから、名前を隠してネットで批判する人があとをたたない。
たたいている人たちは、もちろん同じ罪を犯していないはずだよね でも、もしかしたらそれは「見つかっていないだけ」かも知れない。 心の中で、頭の中で、罪を犯すことは、誰にも見えないし法律上さばかれない。
でも、イエスさまは言ったんだ。 心の中での(かんいん:結婚外の異性との罪)というものがあるのだと。
悪いものは悪いとしながらも、他人事にしないで自分の心にも問いかけたい。 なぜならこれは、本当の意味で人の人格や家庭が大切にされるための神さまの愛の教えなのだから
【だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。】マタイ5:37
キリストは、自己正当化のために安易に神さまに誓(ちか)って見せてはいけないと教えられた。
神の前に「誓う」ということは それを果たせない=ウソをつく罪を犯したということ。
だから、シンプルに明快に歩む習慣に身につけたい。 言い訳するくせ、ついてませんか? 自己弁護ばかりしてない?
「だってさ~!」って連発してない? 「あいつがさ~!」って誰かのせいにしてない?
やったものはやった。やらなかったものはやらなかった。 『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』 いさぎよく、かっこよく、まっすぐに、シンプルにいこう
【38『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。】マタイ5:38-39
「倍返しだぁぁ!」というドラマの名言がはやった。 何倍にもしてやり返したくなるのが人情だ。 だから、「目には目で、歯には歯で」という教えが与えられていた。
同じ事しかやり返してはいけないという「倍返し禁止法」だ。 でも、イエスさまはもっと上を行った。 やり返さないどころか、やりたいようにさせてあげよと。
やり返すのではなく、やられる役を引き受けたのだ。 それはイエスさまの十字架とそっくりだ。 嫌がっていたのにムリやりつけられたんじゃない。
ご自分から十字架にはりつけになることを引き受けられたんだ! 自分から引き受けた以上、そこに敗北はない。 そこにあるのは愛の勝利だ。
人はそれを見て思う。「この方こそ、まことに神の子だ」と
【あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
】マタイ5:41
人は強制されると喜びも感動もない。 でも、生きていると強制されることもたくさんある。
そこで・・・ 強制を「強制でなくしてしまう」方法がある。
自分からやってしまうことだ。 1ミリオン(約1.5km)行けと言われて イヤイヤその距離を行くならしんどいだけ。
でも、どうせ行くなら体力つけるために2ミリオン(約3km)行ってしまおう! そうなれば、こっちのもの!!
どうせやるなら、楽しく喜んで!言われた以上のものをやってしまおう こんな生き方も悪くない
【天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。】マタイ5:45
悪い人でも植物を大事に育てたら、太陽や雨の恵みを受けられるってことだ。
これをどう思う? 悪い人にも平等だなんて、まじめに生きている人は損?
でも、良かったと思わない? だって、私たちは誰しも罪人で、悪いところもいっぱい持っているでしょう?
神さまの前に「私はカンペキ正しい!」って言える人は、かえってヤバいよね? だから、こんな僕にも平等でありがとう!って思う 自分を正しいと思っていること自体が高慢の罪。
僕もあなたも、イエスさまの十字架が必要。 十字架も、何の区別なく全世界のみんなに与えられているんだ!
【人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。】マタイ6: 1
人前で善行をしないようにってのは、人がいるところで良いことをするなって意味ではなく
人からほめられるためにあえて人前でするのはやめようってこと。 人からほめられた分、神さまからのごほうびがなくなるよ~って言われている。 神さまは平等を大事になさるから、人から十分に評価されたなかった見えない行為にも
ちゃんと報いたいって思ってるんだ 自分から「コレをした!」「アレをした!」って言いたくなるけど
あえて言わないでおくのもいい。 だ~~~れも知らないところで、良いことしてみよう。
そして、天での神さまからのプレゼントを楽しみにするのも悪くないんじゃない
【あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
】マタイ6:6
人前で祈るのが苦手だって人がいる。 僕もそうだった。 なぜ? 自分の祈りが下手くそだから。 ん?待てよ? 祈りって誰に向かってするもの? そう、このみことばにあるように、神さまに聞いてもらうもの。 だから、人前でみんなで祈るときにも、人の評価を気にするんじゃなくて
ただ神さまに向かって心から祈ればいい ウマいヘタじゃなくて、どれだけ神さまに向いているかが大切。 誰かにほめられる必要はないし、祈りがヘタだと批判されるものでもない。
静かに神さまと祈ろう!神さまを感じよう。
【だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 】マタイ6:9
イエスさまが教えてくれた「主の祈り」の最初だ。 私たちは創造主なる神さまを、なんと「天のお父さん!」と呼ぶことができる どこか遠い方に祈るのではなく、小さな子が「パパ~!」とか「お父ちゃん!」って 呼ぶように、信頼して親しげに呼びかけられるなんてスゴい! そして、その御名があがめられますようにと祈るんだ。 それは「聖とされるように」と言ってもいい。 名前が汚されるんじゃなくて、おとしめられるんじゃなくて いつでも尊敬され、大事にされ、聖なるものとされるように! 口先だけでそうするんじゃなく、神の子として お名前が汚されないように生きて行けるよう、こうして祈るんだ。 私たちの人生を通して、私たちの神である方のお名前があがめられるように
【御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 】マタイ6:10
イエスさまは、御国に行けますように!ではなく・・・ 「御国が来ますように」と祈るよう教えられた。 御国とは、王なるイエスさまが統治する平安に満ちた国 それが、早くこの地に実現しますように!との祈りだ。 私に!あの人に! すべての人に御国が来ますようにと祈るんだ。 続けてこう祈る。 神さまのみこころが、天において何の妨げもなく行われるのと同じように この地上でもなされますように!と。 罪に満ちたこの世界に、愛と正義の神さまによる統治が実現するよう 私たちは毎日祈っていこう
【私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 】マタイ6:11
とても短いこの祈り。 でも、すごく大切な祈りだ。 なぜか? 「私たちの」って祈っているから。 オレの食事を与えてくれ~~!っていう祈りじゃなく
「私もそうだけど、私の家族、仲間たちみんながちゃんと食べていけるように与えてください!」
という愛の祈りでもあるからだ。 「私たちの」に含まれる人が増えれば増えるほど
愛の祈りになっていく 生活に困っているあの親子も、貧しい国で飢えている子どもたちも
「私たち」に含まれるようになるといいよね
【私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 】マタイ6:12
「主の祈り」の中でも、このお祈りをするときが 一番、心を探られる部分だ。 私たちに対する神さまの赦しを祈るならば 他の人の罪を赦すことが求められる。 自分は赦して欲しいけど あいつだけは赦さない そんな勝手な言い分は通らない。 だから、あなたが赦されたいなら この祈りを大事にしよう。 この祈りをいつも祈るということは、 そこで他人を赦すチャンスももらってるってことなのだから
【私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]】マタイ6:13
罪の誘惑(ゆうわく)や試練は、毎日のようにやってくる。 だから、そこから守られるように日々祈っていこう。
誰もが弱いんだ 強いカンペキな人などいない!
だから、イエスさまはこれをいつも祈れとおっしゃった。 悪魔のとりことなって、 神さまが見えなくなってしまわないように!
それも自分だけが守られるようにではなく 「私たち」みんなが守られるよう お互いに祈り合おう。 神さまの御翼(みつばさ)のかげに、守られるように祈り合おう
【自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 】マタイ6:20-21
あなたは天国貯金してる? 利率は最高! 神さまが祝福して、バンバン増やしてくれる。 安全で無くなることもない! 保証は永遠! 何より、この地上でむなしい生き方にならず 「永遠」という視点の中で生きていける! あなたも天国貯金、始めてみませんか? 浮かんではすぐに消えていくアワのためにではなく 盗まれたら無くなる財のためにではなく 食べたらなくなる食べ物のためにでもなく いつまでも残ることのために あなたの大切な時間や労力をささげてみない?
【だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 】マタイ6:25 本当に大切なモノって意外に大切にされないことがある。 かせぐために仕事をがんばり、体を壊し・・・ かせいだお金で健康を買い戻す。 家族のためにと時間を忘れて仕事をし続け・・・ 気づいたら家庭が壊れている 健康のために何を食べようかとさんざん悩み・・・ 悩みすぎて疲れてやけ食い(笑) 神さまのために!と奉仕を必死にがんばり・・・ 疲れて教会に行けなくなる 大切なものを聖書からいつも気づかせてもらおう
【あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
】マタイ6:27
心配が趣味の人はいますか? え?心配が仕事? そんな人もいるかも知れない。 それぐらい私たちは心配しすぎている。
心配の大半が「不要な心配」だと言うのに・・・ 心配することで好転し、うまくいくならいい。 でも、たいていの場合心配することで、かえって悩みが増え、苦しみが増す。
どんなに心配しても、寿命を1分さえのばすことなどできないのだから 神さまにおゆだねしよう! 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。 」(Ⅰペテロ5:7)
【だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
】マタイ6:33
色々なものを求め過ぎるとしんどいよね。 ひとりの人ができることなんて限られている
神さまは、「あれこれ心が分かれたら大変だよ!心配しすぎだよ!」と 気づかせてくれるんだ。 だから、あれもこれもと思わないで
ただ神の国とその義を求めよう! それは、別の言い方をすれば、
イエス・キリストについて行くことだ。 神さまは多くを求めていない。これだけでいい。 そのとき、必要なものは神さまがぜ~んぶ与えてくれる。
神さまが保証してくれるんだから安心だ
【さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。】マタイ7:1-2
「あいつ下手だなぁ!」と言ったとき 「じゃぁ、お前やってみろよ!」と言い返され ハードルを上げてしまったことに気づく・・・
そんな経験はない? 誰かを批判し、誰かをさばくとは
自分も同じ基準でさばかれると言うことだ。 結局僕らは自分で自分のクビを閉めている。 さばくのは公平な神さまだけで十分。
ゆがんだモノサシでしか測れない僕らは あわれみの心で生きて行こう
【また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁(はり)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができま:す。】マタイ 7:3-5
人の悪いところはすぐに気づくけれど 自分の悪いところには気づかない私たち。 イエスさまによれば、他人の目の中にある小さな「ちり」には気づく。
でも、自分の目の中にある大きな木(梁:はり)には気づかないと言う。 そんなに大きなものが目に入っていたら、他の人を正しく見えるはずがない。
だから、私たちはまず先に自分の問題を神さまに取り扱ってもらおう! 目の中の大きなゴミが取れたら、他の人のこともまっすぐに見えるようになるから
【求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。】マタイ7:7-8
神さまは、あなたが自分から求めて来るのをいつも待っている。 そして求める者には、門を開いてたーくさん与えたいと思っておられる いつでもあなたの前に、門は開く用意ができている!
門が閉じているとしたら それはあなたの勝手な思い込み、あきらめの心が原因だ。
主は門をたたくどんな者にも、喜んで開いてくれる あきらめないで、本気で神さまに求めていこう!
【狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
】マタイ7:13-14
ひろ~~~い門は、探すまでもなく、この世の人の流れに乗ってさえいれば入ることができる。 見つけるのに何の苦労もせず 自由気ままに生きていれば誰でも気づいたら通っている門。
でも、中に入ってからは狭い、苦しいところ 悪魔が用意するものはそういうものだ。 ひろ~く口をあけて、いっぱい入れるように見栄えをよくしている。
でも、せま~~い門は、求めてさがさないと入れない。 だから、神さまは「求めなさい!さがしなさい!」とおっしゃった。 貴重な良いものは、苦労してさがさないと見つからないよね?
天へと続くいのちの門、そこは狭い門だけれど、中はとても豊かで美しい世界。 狭い門から入って、いのちへの道をあなたにも選んで欲しい
【わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。
】マタイ7:21
私たちの口は、いいことをいくらでも言える。 カッコいいことも、美しいことも言える。
だから、「愛してる」と毎日言えたとしても 困っている時に助けてくれず、大事してくれないなら そのことばは中身のない、からっぽなものだ。
神さまも中身のないからっぽのものを喜ばれない。 どんなに雄弁な人であろうと、天の神さまの願うことと正反対に生きているなら その人は天の御国から一番遠い人かも知れない。
逆に、ことばでは美しいカッコいいことを言えなくても その生き方が神さまの願うような愛と真実に満ちているなら その人は天の御国に最も近い人じゃない?
【だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。】
マタイ7:24-25
みことばを聞くだけで終わってしまうのはとても残念 それを聞いて、そのとおりに行うならば
岩の上に家を建てる人のようになれる。 どんなに建物がステキで、かっこよくても 土台がゆるゆるだと、とても弱い。
あなたはどう? 外見ばかり立派にしていても
あなたの中にしっかりとした柱はある? ゆるぎない土台を持っている? 最後まで残るのは、そうした芯(しん)がある人。
あなたもみことばに毎日生きて、しっかりした芯を持つ人になろう
【すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 】マタイ8:2
「ツァラアト」というのは、とても大変な病気。 医者もどうにもできないし、皮膚に病状が出るので 人々から隔離(かくり)され、その病気の人はとてもさみしい生活をしていた。 でも、この人はイエスさまに驚くべきことを言った!! 「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 イエスさまが望みさえすれば、難病もいやしきよめてもらえる! この人はそのような信仰で、イエスさまにいやしてもらった。 神さまのおゆるしなしには、私たちは明日生きることもできない。 逆に、神さまが望んでおられるから、今日生かされているんだ。 「神さまのお心ひとつです!」 と祈りゆだねるとき、生きるのが少し楽になっていく
【イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。 】マタイ8:7-8
多くの人がイエスさまに手を置いて欲しかった。 イエスさまに祈ってもらいたかった。 イエスさまのことばを直接聞きたかった。 でも、ローマの百人隊長は、イエスさまに家に入ってもらうことさえおそれ多いと本気で思った。 自分のような不信仰で、未熟な汚れた者の家にきよいイエスさまに来てもらうなんて申しわけないと思ったのかも知れない。 でも、それって実は信仰なのでは?? それほどイエスさまをすばらしいお方、聖なるお方、力あるお方と本気で思ってるから おことだばけいただければ十分!と思ったんじゃないかな?
【すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。 】マタイ8:24
舟が嵐にあい、大波をかぶる中で、弟子たちはおぼれてしまうのではないかととても恐ろしくなった。 そのときイエスさまは? なんと、グッスリと眠っておられたんだ。 僕らは大波や風を見てこわくなる 起こっている大変な出来事ばかりを見ているからこわい。 でも、それらのすべての背後には神さまがいるんだ。 イエスさまはそれをよくご存知だったから、グッスリと眠っていた これが「ゆだねる」ということだ。 外で大嵐が吹いていようと、お母さんの両腕の中に抱っこされている赤ちゃんは 安心してスヤスヤ眠れる。 それと同じように、嵐や大波が僕らを襲うとも 神さまの腕の中に身をゆだねているなら 何もこわくはない。しっかりと主の腕のぬくもりを感じて生きよう
【すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」 】マタイ8:29
わめいた「彼ら」って誰だろう? 前後を読むと悪霊たちだとわかる。 悪霊でも、イエスさまのことを「神の子」だと言っている。 それどころか、イエスさまの力をよく知っていて、恐れているようだ。 ここから、イエスさまを信じるってどういうことだろうと考えさせられる。 「イエスさまは神の子です」と口先で言えても意味がないんだ。 悪霊になかったもの・・・ それは「信頼」じゃないかな? イエスさまが力があるのは知っている。でも、イエスさまが愛と恵みに満ちたお方であると信頼することが彼らにはない。 僕らはイエスさまを信じよう それはただ「知っている」のでもなく、口先で「言える」のでもなく 心から信頼していくことだ
【すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。】マタイ9:3-4
私たちは見える部分でばかり生活をしている。 見えるところを一生懸命つくろって良く見せる。 髪型、服装、持ち物、みんなの前での笑顔やことば・・・ 聖書の時代、律法学者たちは立派なすごい人だとみんなから「見られていた」。 見えるところでは、これ以上ないほど立派に見えた。 でも、心の中で神さまに喜ばれない、愛のない考えを抱くことも多かった。 イエスさまはそれを見て、こう言われたんだ 「なぜ、心の中では悪いことを考えているのか?」と。 隠れているものが、隠れたままであり続けることはない。 僕らはこの心を、イエスさまの愛で照らしてもらおう!
【イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ~中略~ わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」】マタイ9:12-13
イエスさまは人々から嫌われ、非難されている罪人たちと一緒に食事をしていた。 なぜ、あんな悪人と!? なぜ、あんな汚れた人と!? 人罪人と進んで交わりを持つイエスさまを人々はさばいた でも、正しい人などいるのだろうか? 罪のない人などいるのだろうか? 医者を必要とするのが病人であるように イエスさまの十字架を必要とするのは 自分が罪深い人間だと認めている人だ。 十字架を求めることができない人に救いはない。 他人をさばいて、自分を正しいとする人生は、かえって滅びへの道なのだ。 そうではなく、罪人のためにこそ来てくれたイエスさまに喜んで近づこう
【また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。】マタイ9:17
新しいぶどう酒は発酵(はっこう)する力が強いので、新しい皮袋に入れないと破れてしまう。 そうすると、ぶどう酒も袋もダメになってしまうよね? これは、私たちが古いままの考えにしばられていると より新しい良い教えを受け入れられず 良い教えもムダになってしまうということだ イエスさまによる救いの知らせ、新しい契約を、人々はなかなか受け入れられなかった。 神さまはあなたに、新しいことをなさろうとしている。 あなたの古い考えにこだわらず、神さまが今日なさろうとすることに目を向けてみよう
【すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。 】マタイ9:20-21
でも、ここに登場した病める女性は、イエスさまの着物のふさにでもさわれればきっと直ると考えた。 声をかけてもらう必要もない。 手を置いてもらう必要もない。 イエスさまに直接触れる必要さえない。 自分にはそんな資格すらないし、このお方の着物のふさで十分だ。 それは謙虚なだけじゃない。 とても大胆な信仰にも思える 着物の端にさわれれば十分いやされる!とは それだけイエスさまを力あるお方だと信じているからだ。 主がついてれば十分だ。 祈れたから大丈夫だ。 みことばがあればやっていける! 私たちもこんな大胆な信仰で、自信をもって生きていこう
【イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。】マタイ9:23-24
群集たちは「あざ笑った」。 死んだ人がよみがえるなんて、ありえない! そう考えたからだ。これはごく常識的な、ふつうの考え方だ。 でもイエスさまは、目の前で息絶えている女の子を指して 「死んだのではなく、眠っているのだ」とおっしゃった。 聖書は、神さまを信じて亡くなった人たちのことを「眠っている人たち」とあえて表現している。 それは、死が終わりではなく、復活の希望が確かにあるからだ。 これを「わざ笑う」のか、それとも「信じて神の国に入る」のか。 あなたはどちらを選ぶ
【また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 】マタイ9:36
羊はとても弱く、自力では生き抜いていけない動物だ。 戦う武器を持たず、視力も弱く、おくびょうなんだ。 だから「羊飼い」がいないと、狼などに狙われ、迷子になって弱り果てる。 イエスさまは、人々を見てまるで羊飼いを持たない羊のようだと深くあわれまれた。 あなたはどう ぼろぼろに弱り果てていないだろうか。 イエスさまは、そんなひとりひとりを導く羊飼いになろうとされた。 もうあなたが迷子にならず 孤独にふるえることなく 弱り果てないようにと。 わたしがあなたを抱きかかえ、あなたを守り支える。 大丈夫だ、安心して生きなさいと主は語りかけておられる
【あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。】マタイ10:8
神さまからのプレゼント。 それはイエスさまの十字架だ。 神の子イエスさまのいのちだ。 わたしたちはそこにある救いを得るために、何も支払っていない。 イエスさまはいのちを払ってくれたけど 私たちは代価を払うことなしに、タダでもらったんだ。 神さまからいただいているものは全部タダ しかも、タダなのに良いものばかり!! だから、私たちも喜んで、そして自分から・・・ 他の人々にタダであげよう。 イエスさまの愛を分かち合おう。 救いの恵みをプレゼントしよう。 されて嬉しかったことを、見返りなしにしていこう
【いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。】マタイ10:16
新約聖書の時代、キリストを信じる者たちは多くの迫害と戦った。 喜んで素直に信じる人ばかりではなかった。 批判されたり、バカにされたり、否定されたり、ひどい目にあわされることもあった。 イエスさまはそんな状況に置かれる弟子たちに、派遣のことばを送った。 「蛇のようにさとく(かしこく)、鳩のようにすなおであるように」と。 何も知らない人でいてはいけない。 この世界の仕組みを学び、人々の心を理解し 知恵を使って、不要な争いをさけることも大切。 だから宿題もしっかりやろう!自分からも学ぼう! 一方、「すなおさ」とは「まじりけのない純粋さ」のこと。 イエスさまを信じる信仰においては、まっすぐでいたい 賢いのに、子どものようなまっすぐさを持つ人。 そういう人は本当に魅力的で、人々からも信頼される
【人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。】マタイ10:19-20
神さまは、キリストを信じるすべての者に御霊(みたま)をくださった。 クリスチャンは、この御霊によって生きるようにと聖書で教えられている。 御霊は意志をもって私たちをイエスさま中心の歩みへと導いてくれる。 祈りのことばを導いてくれたり、話すべきことばを与えてくれる。 だから、どんな状況にあっても恐れる必要はない ここにあるように、神の御霊が話すべき大切なことは示してくれる。 ことばが苦手だと思うなら、なおさら御霊にゆだねよう
【からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。】マタイ10:28
あなたにはこわいものはある? 「人間が一番怖い」と言う人もいる。 でも、本当に恐れるべきお方は、この世界を造られた方。 僕らの命だけでなく、たましいまでも滅ぼしつくせる力を持つお方。 確かに人に憎まれるのはつらい。 人に攻撃されるのはこわい。 でも、僕らの心やたましいにまで手を出すことは人間にはできない! 大きな番犬のこわさを知っているなら、普通の犬がほえてもあまりこわさを感じないよね? そのように、本当に恐れるべき神さまを恐れ始めると、人を必要以上に恐れなくて良くなる。 恐れるべき方を恐れ、うやまって歩んでいこう
【二羽の雀(すずめ)は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。】マタイ10:29-31
すずめは当時激安で売られていた。 1匹ではなく2匹でようやく「1アサリオン」という値段がついたぐらいだ。 10円で買えるようなものは、なくしてもそれほど気にならない。 けれど父なる神さまは、そんな小さなすずめの一羽さえも見失うことなく いつも心に留めておられるんだ。 まして「神のかたち」に造られたあなたを神さまが大切に思わないはずなどないんだ あなたの髪の毛が一本抜けても、あなた自身も気づかないよね? でも、神さまはあなたの髪の毛の数までもいつも知っておられる。 さあ、今日もこの愛の中、恐れずに生きていこう
【わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
】マタイ10:42
旧約聖書の時代、ラハブという女性は神の民を危険をかえりみずに助けた。 外国人で、神さまの知識もなかったけれど
彼女なりの精いっぱいで神の人らを助けたんだ。 彼女はそれ以来、神さまから多くの祝福を受けた。 彼女の子孫としてイエスさまが生まれたことは、格別な祝福だろうと思う。
僕らのまわりにも、そういう人たちがいるはず。 信仰を持っていなくても、僕らを応援してくれたり、良くしてくれる人がいる。 正しく理解してもらえてなくてもいい。
学校、近所、職場で、聖書信仰に敬意をあらわしてくれる人がいたら 理解を示してくれる人がいたら まず心から感謝しよう 彼らの祝福のためにもぜひお祈りしよう
【そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。】マタイ11:25-26
ジョージ・ミュラーは、優秀だったが罪を繰り返していた若かりし頃、家庭集会である人の祈りを聞きこう思ったと言う。
「自分はこの人よりもたくさんのことを学んでいる。 でもこの人は、自分よりもずっとすばらしい祈りをしている」 その祈りは幼子のような祈りだった。
聖書の真実は、勉強ができる頭のいい人こそ発見できる・・・というものでは決してない。
「かしこい者や知恵ある者には隠して」とさえ語られている。 その代わりに「幼子」たちに現してくれたというのだ。 あなたが素直な心で求め、幼子のように小さな者となって神さまに求めるなら
神さまはあなたに最高の知恵、この世界の真理を教えてくれる
【すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 】マタイ11:28-30
キリストはこう言って僕らを招いている。
規則や評価で僕らを疲れさせたりするためじゃない。 プレッシャーを与えるためじゃない。 むしろ、僕らを休ませるためにイエスさまは招いてくれているんだ。
たましいに本当の安らぎを与えたいから 「わたしのところにおいで」と優しく語りかけてくれている だから、悩んでいないで、素直にイエスさまのふところに飛び込もう
【『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」 】マタイ12:7-8
人は自分には甘く、他人には厳しく批判する。 ルールを破った人がいたら、その背景や事情を無視して反射的に批判する。 約束の時間を守れなかった人がいた。 でも、それは困っている人を助けたためだったとしたらどう? 神さまは、あわれみを好むとおっしゃった。 ルールをカンペキに守ることより、大切なことがある。 神さまを愛することや人を愛することは、 杓子定規(しゃくしじょうぎ)にルールを守ることより美しい。 人を罪に定める生き方ではなく 人にあわれみをかけられる歩みをしたい
【イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
】マタイ12:11
当時の厳しいユダヤ人たちは、聖書の教えを人をさばく道具に変えてしまっていた。 安息日(当時の土曜日)には、どんな仕事もしてはならないと定めて
料理を作ることも、灯りをともすことも、 人をいやすこともしてはならないとまで考える人がいた でも、イエスさまは何のために「安息日」が造られたのかを教えられた。
人がゆっくり安息するために、週に一度は仕事を休みなさいと命じてくださったんだ。 だから、「どんな仕事もしない」ことが中心ではなく 神さまと共に、ゆったりと安らかに過ごすことが中心。
そのためにいやしが必要ならば、傷の手当てをしたり、病を治療したっていい。 神さまのメッセージの本質がわかると 本当にいやされ、なぐさめられる
【これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」】マタイ12:24
良いことをしている人がなぜか気に入らないことがある。 活躍して目立っている人をねたましく思うことがある。 当時、多くの人から称賛されたイエスさまは
同時に、多くの人からねたまれ憎まれた。 正しい愛のわざを行い、悪霊を追い出し、病をいやした。 だが、ねたましく見える人はこう批判した。
イエスは悪霊のボスを操って、悪霊の手下を追い出しただけだと! 正しい良いものさえも、ねたましく憎らしく思えてしまうとするならば それは僕らの罪が原因だ。
人の成功を喜べる愛の力を、どうか神さま僕らに与えてください
【まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。 】マタイ12:34-35 「心にもないことを言っちゃった!ごめん!」 そんな風に謝ることがある。 でも本当に心に思っていないことは、とっさに口から出だりしない。 イエスさまが言うように、心に満ちていることを口が話すんだ。 家族などの近い関係の人に、僕らはついそういうことをやってしまう・・・ だから、心やたましいそのものがしっかりケアされ、 僕らの心が、良い物をたくさん貯蔵する倉庫になる必要がある! 言葉だけをどうにかするのではなく 心を神さまに整えていただこう
【ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。 】マタイ12:41
ニネベの人たちは、罪まみれの人たちだった。 あまりにも罪深く、悪がはびこっている連中だったので、滅びは目前だった。 でも、やさしい神さまは、その前に悔い改めるチャンスを与えたんだ。 預言者ヨナを派遣して、自分の罪を悔いて神に立ち返れ!とヨナは語った。 後に、ヨナよりもずっと素晴らしいイエスさまが来られた。 イエスさまのメッセージを聞いてさえ、「ごめんなさい」が言えない人。 そういう人を救うことは不可能だ。 だから、今日イエスさまのことばを聞くなら、 自分の罪深さを素直に「ごめんなさい」と告白し、 イエスさまを心にお迎えしよう
【天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 】マタイ12:50
外国に行ったとき、同じ神さまを信じているというだけで 知り合ったばかりの人に「Brother!(兄弟)」と呼びかけてもらえた。 世代も国境もこえて、家族となれることは なんてうれしいことだろう ここでイエスさまが教えてくれたように 血のつながりをこえた家族があるんだ。 神さまをお父さんとする子どもたち。 天のお父さんの心を理解して、それを大切に生きて行く者たち。 イエスさまは、彼らを兄弟・姉妹と呼ばれる 僕らのお兄さん、イエスさまと一緒に天のお父さんの守りの中で生きていこう
【まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。 】マタイ13:17
「感謝の心」持ってる? 当たり前のことなんて本当はひとつもない。 聖書が自由に読めるのも当たり前じゃない。 読みたいと思っても、手に入れることすら難しい国もある イエスさまと出会えた人たち、聖書を自由に読める僕らは 実はとても恵まれているんだ。 見たいと願っても、知りたいと願っても見られなかった人たちがいる。 だからこそ、与えられているこのチャンスを大事にしたい。 聖書という宝石箱から自由に真理を学べるチャンスがある! 今のこの時に、心に永遠に残る宝物をしっかりたくわえよう
【御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 】マタイ13:19
「そんなこと、わかってるよ!」子どもの頃、親によく言ったセリフ。 けれど、親になって初めてわかることって少なくない。 僕らは表面的なことばだけを聞いて「うるさいな~わかってるって!」とつい答える。 でも、本当にわかってる すごく心配してもらってるってこと。 ことばの背後にある優しさ、温かさ、思いやりを・・・ 聖書のことばも同じ・・・ 表面的な文字だけ読んで意味がわかっても、そのことばに込められた神さまの愛に気づけないともったいない。 「聞いても悟らない」 それは、神さまのふか~い愛に心を向けてない時に起こる。 さあ、文字だけ読むのはやめよう。 そこに注がれた愛をしっかり受け取って歩んでいこう
【また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
】マタイ13:20-21
表面に土がかぶっている岩地では、種がまかれてもしっかり成長することは難しい。 岩には根を張れないからだ。
いい話だなぁと思える部分ばかりを受け入れる人は しっかりと根を張って強くなっていくことができない。 むしろ、僕らが本当に成長できるのは、
自分にとって「厳しいなぁ」って感じるメッセージを受け取った時だ。 受け入れにくいメッセージ・・・それを反射的に拒むのをやめてみよう。 「うっ」と思っても、静かに心におさめて思いめぐらそう。
きっとそこから、一歩成長していくことができるはずだから
【イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
】マタイ13:31-32
イエスさまはこの世界にあるものを用いて 「天の御国」のことを説き明かしてくれた。
それは「からし種」のようなものだと言う。 からし種は、どれぐらいのサイズだと思う? 米つぶの10分の1ぐらい。0.5mmぐらいなんだ。 そこにあることさえ気づかないほどの、小さな黒い点。 それなのに、そこにはいのちのパワーがある!
生長すると3~4mになるんだ だから、小さいから力がないなんて思わないで!!
あなたが愛のわざ、あなたの小さな祈りは、小さく見えても大きな力になるんだから
【それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」 】マタイ13:35
新約聖書は旧約聖書を説き明かす書と言われることがある。 このみことばにあるように、旧約においては明らかにされていなかったことを イエスさまが説き明かしてくれたからだ。 聖書はあるか所だけを読んでもわかりにくいことがある。 でも、他のみことばと合わせて理解すると真実が見えてくる! とくにイエスさまは、たとえ話も用いて わかりやすく僕らに示してくれている。 旧約で語られていたことの多くが イエスさまにおいて明らかになっている。 僕らもしっかりイエスさまを見つめて歩もう
【毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
】マタイ13:39-40
この世界には良い麦だけじゃなく、悪い毒麦がある。 そして、聖書ははっきり「悪魔」の存在を教えている。
悪魔が僕らを神さまから引き離し、毒麦にしようとささやきかける。 悪魔はたくみなゆうわくで、天国をからっぽにして、地獄を満員にしようとするんだ。 だから、だまされないで、良い麦となろう。
イエスさまこそがその道だから 恐れなくていい。
悪魔の最後は滅びであり、それは聖書があまりにもはっきり言っていること。 悪が永遠に残ることはない! 僕らはイエスさまの光に導かれて、永遠の喜び、天の輝く国へと歩んでいこう
【この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」 】マタイ13:55-56
イエスさまの何者? イエスはナザレという町の「大工の息子」として育ち、弟や妹らもいた。 だから、イエスさまを小さい頃から知る故郷の人は 大工の息子で教育などもきちんと受けてないのに、何で色々知ってるの? これらの知恵をどこから得たの? ・・・とふしぎに思った これらの人にいのちを与える知恵、希望を与える知恵は すべて上から来る。父なる神さまがイエスさまにくださったもの。 「まことの人」そして「まことの神」であるイエスさまだからこそ 人の弱さを身にまといつつ、神の知恵で人を励ますことができるんだ
【そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。】マタイ13:58
神さまは僕らを無視しない。 だから、祈っても祈らなくても同じという状況にはしない。 信じても信じなくても同じにはなさらない。 だから、「主に信頼せよ!」「求めなさい」「絶えず祈りなさい」と 語りかけておられるんだ。 このみことばにあるように、信じようとしない者たちの間では 多くの奇跡は影をひそめてしまう だから 僕らがもっと祈り求めていたならば・・・ もっと信じてついて行っていれば・・・ もっともっと神さまは素晴らしい事をなさったんじゃないか? そんな風にも思う。 せっかく用意してくれている恵みのプレゼント、もっと信じて祈り求めていこう
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