東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2020

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

最新情報

【☆最新情報☆】What’s New!!
☆10/29 イベントページを更新。「初めての方へ」ページを開設!

2020/10/31

11/1(日)主日礼拝 動画配信

 当教会では引き続き新型コロナウイルスの感染拡大に注意しながら、教会堂での主の日の礼拝を心からおささげしています。事前予約などは不要です。

教会に来ることが難しい方のために礼拝動画のLIVE配信をしています(体調の悪い方には無理せずお休みいただいています。発熱等の症状がある場合はお休みください)。

午前10時半より礼拝が始まります。祈りつつ備えましょう。

礼拝動画を視聴される方は、以下より礼拝にご参加ください。
LIVE配信後も動画は約24時間ほど視聴できます。


【コロナ対応について】
・マスク着用、手洗い、消毒にご協力ください。
・換気を逐次行いますのでご理解をお願いいたします。
・賛美の時はマスク着用の上、やや控えめに発声いただければと思います。
・同一世帯の方は一緒に並んでお座りいただき、そうでない方はこちらの指示に従い席を空けてお座りくださいますようお願いします。
・発熱等の症状がある方、感染の疑いのある方はLIVE動画にて礼拝をおささげください。

☟下記より礼拝次第をご覧になれます。

2020/10/28

Ⅱサムエル記15章13-23節「状況ではなく、主のみ旨に従う」

*** 10/28(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記1513-23節「状況ではなく、主のみ旨に従う」

「まさかの友こそ真の友」という諺があります。
 これは元々は英語の諺A friend in need is a friend indeedを日本語に訳したもので、「本当に必要な困難な時に、友でいてくれる人こそ真の友なのだ」という意味です。

 これはとても苦しい状況を通った人は「確かにそうだな~」と実感されると思います。あの苦しい時に、多くを失って何もできない時に、寄り添い助けてくれる人がいた。自分のことで精一杯で、「あなたはわかってくれない」などとつい言ってしまったけれど、それでも離れずに友であり続けてくれた。そんな人の存在がどれほどありがたいことでしょうか。

2020/10/26

ルカ20章45-21章4節 「見える栄、見えない栄」

*** 10/25(日) 礼拝説教概略 *** 

VRゴーグルというのをご存知でしょうか。VRはバーチャルリアリティ(仮想現実空間)の略ですね。それを装着するとまるで3Dの別世界にいるかのように体験できるというものです。最近の技術はすごいものですね。

で、私はまた変なことを思いつきまして、神様目線で見られるというVRゴーグルがあったら面白いなと。名付けてGEG(Gods Eye Gogle)です。人間の目で見るのとは全く異なる神様目線での人間の世界の景色。それを私たちが見られるとしたら。もしかしたら、美しい人が美しく見えず、見栄えのしない方がものすごく美しく見えるかも知れません。心の思いが表面化して見えるといった感じでしょうか。それで見る時に、私たち自身の姿はどう見えるのでしょうか。人の前には美しく立派に飾ることができても、神様の目に美しく飾られているかは全く別ですよね。

2020/10/21

Ⅱサムエル記 15章1-12節「アブサロムの謀反」

*** 10/21(水)祈祷会 説教概略 *** 

Ⅱサムエル記 15章1-12節「アブサロムの謀反」

 自分の思いを神とせず、神である方を神として恐れ従うこと。
ようやくダビデ王に謁見できたアブサロムでしたが、そこには期待していたような親子の心の交わりはありませんでした。一応の和解の形にはなったものの、おそらく親しく抱き合い語り合うこともできなかったのでしょう。それはアブサロムにとって、決定的にダビデとの距離を痛感させられる機会となってしまったことと思います。

2020/10/20

心のケアと人間関係「承認欲求を健全な方法で満たすには?」

 「承認欲求」

ということばを聞いたことがあるでしょうか?
 
 人から認められたい、受け入れられたいという欲求です。
 具体的な例としては、頑張っていることを認めてもらいたいとか、同世代の友人からすごいね!と言われたいとか。そして若い人たちであれば、SNSでの返事や「いいね」などの友人たちからの反応を求める欲求などです。

2020/10/19

レビ記19章1-8節「聖であるとは?PartⅠ」

 *** 10/18(日)礼拝 説教概略 ***

レビ記19章より 「聖であるとは?」

「聖さ、聖なること」。それは聖書における大切なテーマです。なぜ大切なのかと言いますと、聖書でこう語られているからです。

ヘブル人への手紙12:14です。
「聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」

 聖さがなければ、だれも主を見ることができませんと言われています。

 なぜ、聖さがなければ主を見ることができないのでしょうか。

2020/10/16

赦しの力 ~返却された「鬼滅の刃」~

赦しの力 ~返却された「鬼滅の刃」~


 山口県の温泉施設「おんせんの森」で、無料で読める漫画本コーナーがあるそうです。実にこの漫画、子どもから青年世代に絶大な人気があり、鬼滅グッズをおまけにするだけで売り上げが数倍になるほどの経済効果があります。スーパーのお菓子コーナーでも、鬼滅のおまけがあるお菓子だけはすぐに売り切れになってしまうほどです。それだけの人気があるので漫画本を買いそろえるのも容易ではなく、探し回って買いそろえたということでした。

 ところが、そこに納められていた人気漫画「鬼滅の刃」20冊分が盗まれたという事件がありました。

2020/10/14

Ⅱサムエル記 14章25-33節「存在がないもののようにされる痛み」

*** 10/14(水)祈祷会説教概略 *** 

Ⅱサムエル記 14章25-33節「存在がないもののようにされる痛み」

 人間関係において「存在をないもののように扱われる」、つまり無視されることほど苦しいことはありません。特に大切な方から無視をされることは本当にさみしく辛いことです。

2020/10/12

ルカの福音書20章41-44節「われらの主キリスト」

 *** 10/11(日)礼拝説教概略 ***

 大学時代にイエス様を信じ受け入れるお祈りをした時に、教えられるままにこのように祈りました。「イエス様、私の罪のために十字架で死んでくださり感謝します。今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の人生を導いてください。」 
 おおむねこのようなお祈りだったと思います。

 特に重要なのは、イエス様を「罪からの救い主」つまり「キリスト」であると信じること。そして、もう一つは、私の人生を導く「主」であると告白することです。

2020/10/09

コロナ禍なのか?コロナ下なのか?

コロナ禍なのか?コロナ下なのか? 

 最近「コロナ」なのか「コロナ」と書くべきなのか少し意見を交わす機会がありました。

2020/10/07

第Ⅱサムエル記14章1-24節「神からのものか、人からのものか」

 *** 10/7(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記から教えられます。少しこれまでの「あらすじ」を振り返りましょう。13章でご紹介した相関図もご参照ください。 

2020/10/05

レビ記18章1-5節「神の定め、神の掟」

*** 10/4(日)礼拝説教概略 ***

 法やルールは何のためにあるのでしょうか。本来は人が安心して、安全に過ごすためにあると言えるでしょう。しかし、しばしば人が定める方は不完全で、一部の権力者にばかり都合の良い悪法となることもあります。「生類憐みの令」のようなかえって人を苦しめ不幸にしてしまうものもあります。

2020/09/30

ネヘミヤ8章1-12節 「主を喜ぶことは力」

*** 9/30(水)祈祷会 説教概略 ***

ネヘミヤ記はバビロニアに滅ぼされたエルサレムの再建、特にその城壁再建がテーマとなっています。しかし、そこにはもう一つ別のテーマがありまして信仰の建て直しというテーマもそこにはありました。

2020/09/28

ピリピ人への手紙 4章10-14節 「あらゆる境遇に対処する秘訣」

*** 9/27(日) 礼拝説教概略 *** 

 平成のベストセラー本の中でも、200万部を突破する大ベストセラーとなった渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」は読まれた方もいらっしゃることと思います。実はこのタイトルの元になったことばは、宣教師からいただいたフレーズだそうです。それは「神が植えられたところで咲きなさい」というものでした。
 
 花は植えられる場所を選ぶことが出来ません。そこが嫌だからと言って他の場所に移ることも出来ません。ただ、神様に与えられた場所で精いっぱいの花を咲かせるだけです。でも、それは神様がそこが良いと植えられた場所なのです。

2020/09/23

使徒の働き20章1-12節「キリスト者にある励まし」

 *** 9/23(水)祈祷会 説教概略 *** 

 教会の働きに対しては色々な形での妨げが起こります。
 悪魔は当然ながらキリスト者が心強められて、元気に活動することを喜ばないからです。

 それに対抗するには、私たちが神様のみことばに留まり、神様からのお励ましを沢山受け取って歩むことが必要不可欠です。そして、兄姉の交わりの中で互いに励まし合うことです。パウロの宣教の様子を追って行くと、未信者への伝道だけででなくて、信じた人々を励まし教えるということに力を入れていることに気づきます。

2020/09/21

イザヤ書46章3-8節 「背負ってくださる神」

*** 9/20(日)礼拝説教概略 ***

 私は割と時間に正確な方だと思うのですが、若い頃はもっとそうでした。車を運転しても、電車に乗るにしても、自分の計画した時間通りに行きたいというこだわりが強くありました。渋滞とか事故とかトラブルがあっても必死に間に合わせようとしました。

 でも、最近は自分の計画した通りでなくても、そこから遅れたとしても、そうなったらなったで、そこにも神様の深いご計画があるからいいか・・・以前よりはゆだねられるようになったように思います。無理するよりも「ゆだねよう」と思えるようになってきたという事です。おかげでイライラすることが減り、焦ることも減りました。

 そう思えるのは神様という私を背負ってくださる方がいらっしゃるからです。

2020/09/17

ヨハネ16章33節「勇気を出して!」

*** 9/16(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨハ 16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

イエス様の一連のメッセージが13章終わりから続いています。特に13章30節でユダがイエス様を裏切るために出て行っています。ですからイエス様の逮捕が目前に迫っている中、イエス様は14章から16章まで弟子たちに十字架前のお別れメッセージをしているわけです。

2020/09/15

Ⅱコリント12:7-10「弱い時に強い」

*** 9/15(火)ほっとカフェ メッセージ概略 ***


 久しぶりにこの場でほっとカフェが持てることを嬉しく、神様に感謝しています。

 とはいえ、色々と楽しみにしていたほっとカフェの企画が中止になってしまい、本当に残念でした。でも、時に私たちは「したくてもできない」という経験を通して、できることが「当たり前ではないのだ」、「感謝なのだ」ということに気づくこともできます。

 そして、しばしば弱さを通ることが、感謝なことや恵みに対して目が開かれるという経験へと私たちを導いてくれるのです。


2020/09/14

ローマ書8章15~25節 「神の子としての望み」

*** 9/13(日)礼拝説教概略 ***

現代社会における希望、望みって何があるでしょうか?
楽しみにし期待してワクワクできるような望みがあるでしょうか?東京オリンピックも来年できたらいいですが、簡単ではないでしょう。政治、経済、これから良くなるといいのですが、期待感もあまりありません。若い人たちも、一体どんな希望を持って生きたらいいのか。望みを抱きにくい現代社会です。

けれども、じゃあ過去には望みがあったのでしょうか? 

2020/09/11

Ⅱテモテ4章1-5節 「みことばを宣べ伝えなさい」

*** 9/9(水)祈祷会 説教概略 ***


 直接的には、 パウロが若い牧師、若い伝道者であるテモテに向けて語られたみことばです。しかし、この手紙は神の導きの中で、聖書として加えられ、世界のベストセラーとして多くの人に読まれるようになりました。そこに神様のご計画がありました。
 もし、テモテただ一人にに向けてなら、ベストセラーにする必要もなく、日本語に訳される必要もなかったでしょう。しかし、神様はすべての人に伝えるべきものとされたから、こうして私たちにも与えられているのです。
 自分は牧師ではない。伝道者ではない。だから関係ないと考えず、これらは広い意味で自分たちにも語られているのだとひとりひとりが覚えて、教えられていきましょう。


2020/09/07

民数記11章23節「主の手は短くない!」

*** 9/6(日) 礼拝説教概略 ***

 世界一貧しい大統領と言われた、ウルグアイのムスカ大統領はある哲学者のことばを引用してこう言いました。「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。」

 富や物をいくら所有しても満足できない人こそ最も貧しい人だと言うわけです。聖書でも「今持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:5とありますし、「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリ12:9とも主は言われます。

2020/09/03

第一列王記19章1-18節「エリヤの落ち込みと神の励まし」

*** 9/2(水)祈祷会 説教概略 ***


 9月は「励まし月間」として、長引くコロナ問題で疲れているゆえに、互いに励まし合うことを意識しましょうということでした。とはいえ励ましにも色々あります。

 優しいことばをかける励まし、叱咤激励のようなもの、使命を気づかされることで心が燃やされるケース、あるいは仲間がいるよ!との励まし。

 改めて「励まし」ということを深く考えながらと思っています。 

2020/09/02

励ましチャンネル ドラマ『半沢直樹』より


Youtube「励ましチャンネル」がUPされました。
「半沢直樹」の名言から、励ましのことばを紹介しています。

「大事なのは感謝と恩返しだ。その二つを忘れた未来は、ただの独りよがりの絵空事だ。これまでの出会いと出来事に感謝をし、その恩返しのつもりで仕事をする。そうすれば、必ず明るい未来が拓けるはずだ」 by 半沢直樹

 半沢さんって、何度も自分の身を切られそうになります。
 大きな権力を前にしても怖気づかずに言いたい事を言います。
 でも、自分の身を切られる覚悟をしながら、正しいことをしようとするその姿勢があるからこそ、ことばに説得力があるのだと思います
 出会いへの感謝とお世話になった方への恩返し。
 忘れてはならない大切なコトですね。 

「仕事は客のためにするもんだ。ひいては世の中のためにする。その大原則を忘れたとき、人は自分のためだけに仕事をするようになる。」 by 半沢直樹

 仕事は何のために、誰のために、どこに向かってするものなのか?
 根本的な問いです。



自分のために働くと何も残らず、むなしくなります。
お世話になった人々を思い浮かべ、感謝と恩返しの心で働けるといいですね。

「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)

いつまでも残るもの・・・信仰、希望、愛

2020/08/31

ルカの福音書20章27-40節「上を向いて生きよう」

*** 8/30(日) 主日礼拝 説教概略  ***

 昨今の歩みの中で、もはやコロナ問題は短期で終わることは難しく、長期化を受け入れざるを得ない状況となっています。Withコロナ」と言われますように、コロナがあることを前提にどう生きていくのかという事と、そろそろ向き合っていかなければと私も思っています。もちろん早期の完全収束を願う者ではありますが、現実を受け入れて工夫していくことも必要ですよね。

ですから「いつまで我慢すればいいのか?」と下を向いてばかりいるのではなく、この状況の中でどう生きていくのか問われています。

今日私たちは「上を向いて生きよう」というテーマで教えられます。

2020/08/26

Ⅱサムエル記 13章1-39節「ダビデと子どもたち」

*** 8/26(水)祈祷会 説教概略  ***


 家庭の問題はいつの時代においても最も軽んじられやすい部分であると同時に、人生に最も大きな影響をもたらす重大事ではないでしょうか?家庭環境が私たちに与える影響は非常に大きいと言えるでしょう。

2020/08/25

Youtube「励ましチャンネル」と「励まし月間」のご案内


Youtube「励ましチャンネル」始まりました。

元気のない世界。
コロナ疲れ、災害疲れ、暑さ疲れ・・・そんな方のために色々な「励ましことば」を提供していきます。


ぜひチャンネル登録を!!


※当教会、9月は「励まし月間」として、コロナ疲れ、暑さ疲れ、孤独感等、色々な弱さの中にいる皆さんを少しでも励ますことに取り組んでいきます!

9月は礼拝説教は、4週ありますが毎週「励まし」をテーマに語ります。
ぜひ励ましを受けたい!そんな方は礼拝においでください。



2020/08/24

レビ16章1-10、20-22節「アザゼルのやぎ~罪からの解放~」

*** 8/23(日) 説教概略 ***

ナルニヤ国物語の著者C.S.ルイスは、「神があなたを赦した後で、あなたが自分を赦さないなら、自分を神より高い地位の裁判官としているということである」と言いました。

しかし、案外私たちは自分を赦せない者ではないでしょうか。

2020/08/21

コロナ下であるが、神の御手の下に生かされている


コロナ問題に加え、今年は豪雨、酷暑と心身ともにとても厳しい日々。
例年にないストレス、過労が私たちを容赦なく襲っています。
経済的なダメージはリーマンショック以上です。

そんな日々においても、決してあきらめないでください。

神は人に、他のどんな動物にも与えなかった賜物を与えられたことを知ってください。

2020/08/12

Ⅱサムエル記 12章15-25節「愛する子の死を通して~そこにも主の愛が~」

*** 8/12(水)祈祷会説教概略 ***


本日の箇所の直前・・・

14節で、ダビデの犯した罪のゆえに「生まれる息子は必ず死ぬ」という預言がなされていました。


2020/08/10

ルカの福音書20章20-26節「神のものは神に返す」

*** 8/9(日) 礼拝説教概略 ***

半沢直樹というTVドラマをご存知でしょうか?
池井戸潤という方の小説をもとにドラマ化されたものです。

7年ほど前に放送され、平成で第一位の視聴率を記録した人気ドラマで、最終回の平均視聴率は40%超えという人気ぶりでした。今はその続編が放送されていますが、内容自体は結構難しくて、銀行融資や証券取引などの専門用語が連発されています。

それでも惹きつける魅力に、練られた脚本、役者の演技力、そして・・・

2020/08/05

Ⅱサムエル記 12章1-14節「ダビデの悔い改め」

*** 8/5(水)祈祷会 説教概略 ***

 ダビデの悔い改めの場面です。

 神様は預言者ナタンを遣わし、ご自身のことばをダビデに語らせました。

 神様の目的をナタンもわかっていたことでしょう。

2020/08/03

詩篇133篇1-3節 「交わりはいのち」

*** 礼拝説教概略 ***

 おはようございます。皆さん、まずはお疲れ様です。

 連日のコロナウイルスのニュースで不安を覚えたり、さらに気をつけて自粛なのかと思うとあらゆる面でうんざりしてきますね。仕事にならない、学校生活もいつになったら普通になるのか。オンラインにも少し嫌気がさしている。そういう方もいらっしゃることでしょう。


2020/07/30

創世記 50章20節「神様のお計らい」

*** 7/29(水) 祈祷会 説教概略 ***

 誰もが疲れて来ています。頑張っていないなら疲れていないでしょうけれど、私が見る限り、皆さんはとても頑張っています。そもそもこの季節にマスク生活なんて例年では考えられないことです。それだけでもかなりのストレスではないでしょうか?


2020/07/27

Ⅰペテロ2章13-25節「職場と信仰―“不当な要求”を受けたとき」

*** 2020年7月26日 礼拝説教(講壇交換) ***

Ⅰペテロ2章13-25節「職場と信仰ー“不当な要求”を受けたとき」

                      高橋秀典師(立川福音自由教会牧師)

2020/07/14

ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」

*** 7/12(日) 礼拝説教概略 ***

ルカの福音書 20章1-8節「真理に向かう姿勢」

日本の国会図書館のカウンターには聖書のみことばが掲げられています。
「真理はあなたがたを自由にする」。ヨハネ8:32のみことばが日本語とギリシャ語で記されています。そして、国会図書館法にはこの図書館の使命が次のように記されています。「真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」

2020/07/08

Ⅱサムエル記 7章18~29節「しもべに良くしてくださる神」

*** 7/8(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記 7章18~29節「しもべに良くしてくださる神」

 先日の礼拝で、聖なる神の前に立って初めて、私たちは自分の罪や汚れを本当の意味で理解すると学びました。今日の場面でもそれと少し似ていて、ダビデは偉大なる神様の前に立って自分の小ささを知ることになります。あわれみ深さや真実な姿に触れて、自分の小さな姿に気づかされてるのです。

2020/07/06

レビ記11章44-45節 「神の聖さにあずかる」

*** 7/5(日) 礼拝説教概略 ***

レビ記11章44-45節 「神の聖さにあずかる」

 コロナの影響で解雇された人々が3万人を超えました。
 老舗と呼ばれるお店も様々なチェーン店も相次いで閉店、いくつもの企業も倒産・縮小に追い込まれています。多くの人が路頭に迷い始めています。
 この時代に神様に召しだされたキリスト者として、私たちはどのように生きるべきかと考えさせられます。

2020/07/03

2020/07/01

レビ記10章1-20節「聖なる神、あわれみの神」

*** 説教概略 ***

レビ記101-20節 「聖なる神、あわれみの神」

 以前、まだ小学生だった長男の授業参観に行った時のことです。いわゆる道徳の授業で、生徒同士が色々話し合う時間もありました。そこで扱われていたテーマは、学校の校則は何のためにあるのかということでした。

2020/06/24

Ⅱサムエル記 6章12~23節「神のお心を理解する」

*** 6/24(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記 6章1223節「神のお心を理解する

6章前半ではダビデの神様に対する熱心さがよく現れていましたが、一方で主の契約の箱の運び方をめぐって、神様のみこころを慎重に求めるということに欠けており、悲劇に見舞われました。ウザとイスラエルの民の不敬罪という問題でした。

聖なる神様に対する雑で、自分本位なやり方の問題がありました。

本日のところでは、そこからの変化はあったのでしょうか?

2020/06/23

ルカの福音書 19章45-48節「祈りとみことばの家」

*** 6/21(日) 主日礼拝説教概略 ***

 ルカの福音書 19章45-48節「祈りとみことばの家」

 教会は何を期待される場でしょうか?

 人は何を求めて教会に来るのでしょうか?

2020/06/17

Ⅱサムエル記 6章1~11節「聖なる神」

*** 説教概略 ***

Ⅱサムエル記 6111節「聖なる神」


レビ記7章26-34節 「みこころのうちに食すこと」

*** 6/14(日)礼拝説教概略 ***

レビ記726-34節「みこころのうちに食すこと」

今日のテーマは皆さんが大好きなテーマ。「食べること。食事と信仰」です。

食べることは大好きな方が多いのではないでしょうか。

私たちは何のために食事をするのでしょうか? 

2020/06/09

子育て「子どもの孤独」

*** 楽しい子育て ***

子どもたちの孤独の問題


世界で最も恐ろしい病は何でしょうか?

2020/06/03

Ⅱサムエル記 5章1~16節「思い上がりから守られる道」

*** 6/3(水)祈祷会説教概略 ***

 成功し、有頂天になっているときほど危ない時はありません。成功につける薬はないという言葉もありますように、成功の後には「思いあがる」という誘惑が待っています。みことばから、そのような思い上がりから守られる道を教えられてまいります。

2020/06/01

第一コリント2章10-16節「神の深みを知るキリストの心」


2020年5月31日 ペンテコステ主日礼拝

*** 説教概略 ***

第一コリント2章10-16節「神の深みを知るキリストの心」


2020/05/27

Ⅱコリント5章1~12節「新しい生活(新しい人生)」

*** 5/27(水)祈祷会説教概略 ***

 昨日、緊急事態宣言が解除となりました。もちろん解除されたからと言って、普段通りの生活とはなりませんので、まだまだ神経を遣う日々ですね。その中で最近耳にする言葉が「新しい生活様式」を取り入れましょうという事でした。少なくともワクチンが開発されるまではということなのでしょうか。今までとは発想を変えてという事かも知れません。個人的にはあまり新鮮さは感じませんでしたが・・・

2020/05/25

エゼキエル書18章21-32節「立ち返って、生きよ」

*** 5/24(日)礼拝説教概略 ***

 最近、教会の敷地の雑草が少し気になり始めまして、近いうちに少し抜いておこうかなと思っていたのですが、ふと気づいたら抜かれてキレイになっていました。このような時でありますが、そうしたところに心を割いて、仕えておられる方がいらっしゃるのだなと感謝な思いでおりました。

 もちろん雑草だけではなくて、お花も咲いていまして、教会の花壇が彩られています。見るたびに嬉しくなります。また教会堂1階の多目的ホールには去年いただいた胡蝶蘭があります。しかし枯れてしまって、今年も咲かせるというのは難しいかな?と思っていたのですが、最近になって蕾が花開きました。そして今は3つ蕾が花を開かせています。いのちの力を感じます。

2020/05/20

Ⅱサムエル記 4章1~12節「主を知ること」

*** 5/20(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記41節~12節主を知ること

1節 サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。 

2020/05/14

子育て 「怒りではなく懲らしめ(叱ること)」


 「怒りではなく懲らしめ

「わが子よ、の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
 父がいとしい子を叱るように、は愛する者を叱る。」(箴言3:11-12

 自粛生活が長くなると、一日中子どもたちが家にいてお母さんたちが一人になれる時間がないという課題があったり、また働くお母さんとしては家にお子さん一人でずっといることが心配であったり、学校給食がないので食事の用意の大変さがあったり・・・

 とにかく普段とは異なるストレス、イライラが起こりがちです。

 そんな時に神様のみことばに耳を傾け、教えられるならば少し違った視野が開かれ、落ち着きが与えられます。
 
 ここでは「懲らしめ」「叱責」「叱る」という3つのことばで、神様が人を教え導かれることを教えています。

 その目的は成長してより良い者になることす。

 人には本能的に「良くなりたい」という願いがあります。

 少しでも成長して、ちょっとでも良くなると私たちは嬉しいですよね。
 その良くなるために主なる神さまの愛から出ている「懲らしめ」や「お叱り」を受け入れなさいと言われているのです。

 実に教え導く者こそ、神様から謙虚に教えていただく者になることが成長の第一歩です。まず自分自身が、人生の手引書である聖書から、私たちも子どもたちも造られた神様から教えを受ける者になることこそ、Good Mom、Good Dadへの近道です。


 それと同時に、このみことばは私たちが親の立場であると考えた時に、一つの良い模範なのです。私たちは子どもたちを注意する時にどうしているのでしょうか?

 皆さんに考えていただきたいのは、「懲らしめ」や「叱る」ことと「怒る」こととはどう違うのか?ということです。
 
 「怒る」というのはより感情的です。悪に対する正義の怒りは聖書も認めており、必要なものと教えています。でも、そうでない怒りがありますよね?
 自粛生活でイライラする。ストレスをためていて。相手の行動が気に入らなくてイライラ。感情で怒りをぶつけることは指導とは言わないのです。

 それは「自分のため」だからです。

 ちなみに「懲らしめ」というのは、ネガティブなイメージがあるかも知れませんが、その意味は「悪い事をした人に罰を与える等して二度とそうしないようこらしめる」ということです。ですから、悪くないのに自分がイライラして感情をぶつけてしまうのは懲らしめではないわけですよね。また、不適切なほど怒ってしまうこともそうでしょう。

 最初に学びましたように、懲らしめ・叱責の目的=その子が良くなることです。
 子どもたちのしつけのために神様から教えられているのは、愛をもって落ち着いて「懲らしめること」「叱ること」なのであって、怒りをぶつけることではないということ。

 「いとしい子」「愛する者」とみことばにあるように、感情ではなく愛によってなすのです。

 昨日の祈祷会メッセージでも、感情を「悪魔のしもべ」にしてはダメですよ~というお話をしました。感情も神様がくださっている良いもの。だからこそ、罪の道具、悪のしもべにしちゃいけない。

 だからこそ怒りを上手におさめて、愛の心で叱り指導するということに心を留めましょう。祈ってから叱るという習慣がつくと良いかもしれません。

 私もよくしくじっています。
 感情的になってキレても、相手には「怖かった」という記憶だけが残り、中身が残らないということがあります。逆に、怒りが現れているにしても、きちんと相手を心から思い、愛するゆえの情緒であるならば、それは相手に良いメッセージとして伝わります。本気で自分を心配して叱ってくれているんだなというのは、その時は受け止められなくても、少し冷静になった時に心の深いところに残っているものです。

 自分のために「怒る」のではなく

 子を愛して「叱る」を大事にしましょう。

※他の「子育て」についての記事はコチラ


2020/05/13

Ⅱサムエル記 3章12~39節「感情を誰のしもべにするか?」

*** 5/13(水)祈祷会説教概略 ***

Ⅱサムエル記312-39節感情を誰のしもべにするのか?

 イエス様を信じたばかりの頃に、安定したクリスチャンライフについて学びをしていただきました。それは感情によって自分を引っ張っていく生活は安定しないということ。ジェットコースターのように上がり下がりする日々。感情は客車を引っ張ってくれる機関車にすべきではないのです。客車を引く機関車は「神の真実」であり、それを信じる信仰がその後に続き、最後に感情が「神のしもべ」として着いてくる。それが安定したクリスチャン生活の秘訣だと学びました。もちろん、学んでも失敗ばかりですが、感情に流されて動いてしまった結果として思い出されるのは、大失敗の記憶ばかりです。主が下さった「感情」を誰のしもべとするべきでしょうか?神のしもべとしましょう。

2020/05/06

Ⅱサムエル記3章1節-11節「良い信頼関係を持つ」

*** 5/6(水)祈祷会説教概略 ***

2-5節では、ダビデ王がヘブロンに滞在していた7年半の間に生まれた子どもたちのことが記されています。6人の男の子たちの名前が記されていますが、なんとそれぞれ母親が違うことがわかります。子孫を残すことが非常に重要だった当時の習慣においては、側室や妾がいることは珍しいことではありませんでした。しかし、こうしたダビデの性に対する奔放さゆえに、後に多くの悲劇が起こっている事は見落とせない事実です。事実、2節に出てくる長男アムノンは、3節に出て来る三男アブサロムに殺されるという大事件が後に起こります。1人の男性と1人の女性がお互いを大切にすることこそ、神様のみこころであり、そこに与えられた子どもたちにとっても一番の幸せであると教えられます。

 6節では、サウル家とダビデ家の戦いが続く中で、サウルの将軍であったアブネルがその勢力を増していたということが語られています。事実上の実権を握っていたアブネルは、もはや王と同等かそれ以上の地位にあったと言えるかも知れません。その象徴的な出来事として7節のことがあります。

7節 サウルには、アヤの娘で、名をリツパという側女がいた。イシュ・ボシェテはアブネルに言った。「あなたはなぜ、私の父の側女と通じたのか。」 

 イシュ・ボシェテの父サウル王。その王の側室と関係を持つということは、アブネルが王と同等の地位にあることを誇示する行為だと思われても仕方がない事でした。それでイシュ・ボシェテは危機感を感じたのです。彼を強く責めました。

 ただし、これが事実だったのかどうか。ウワサやデマだったのか?その点がはっきりしません。しかしながら、ここからはっきり分かることは、お互いの間に「尊敬」や「信頼」がないということです。最初はあったけど失われたのか?それとも最初からなかったのか?  イシュ・ボシェテから責められてアブネルはどう反応したのでしょうか?

8節 アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。「この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。 

 アブネルは激怒して言いました。「私がユダの犬のかしらだとでも言うのか」と。ユダというのはダビデ王の部族のことです。つまり、アブネルはサウル王家のために精一杯仕えているのに、私が「ダビデ王の手先」だとでも言うのかと怒ったのです。
 アブネルは野心家であったのでしょうけれど、それでもサウル王家のためにという忠誠心もあったことでしょう。しかし、主君に信頼されない臣下は、もう何をしても無駄だと諦めてしまっても仕方ありませんよね。このような不信感によって、サウル王家は内部から崩壊していきます。

 アブネルは9-10節のところで、もはや自分はダビデ王に王位を譲ると言い始めます。
9 主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。10 それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」 自分の忠誠心を疑われたと感じたのでしょう。プライドが傷つけられ怒りにかられたアブネルは「主がダビデに誓われたとおりのこと」に自分も協力すると言い出しました。つまり、神様が誓われた通りにダビデが王位に就くことを自分は全面協力すると誓いを立てて言い放ったのです。

 初めから神様に従っているのならば、アブネルも神様の祝福の中に守られたのにと思います。自分の都合や感情に合わせて、急に「神様のみこころに従おう」と言い出す人の身勝手な姿です。

 ただ、私たちもそういう面が少なからずありますよね。ありがちなのは、自分の罪や問題に関しては聖書の「せ」の字も出さないにも関わらず、他人を裁くときには「神様の教えはこうだ!」と急に聖書に立ち返ることです。あるいは順風満帆な時には神様に心を向けず、苦しくなると途端に神様に祈り始める人もいます。私も該当する一人だなと思わされます。私たちは自分の都合次第で、神様を召使いのように呼び出すということを慎まなければなりませんね。神様にここに来させて利用するような姿勢ではなく、神様のところに私たちが出向いて行って、神様の良いご計画のために自分を差し出すという基本姿勢をお互いに忘れないようにしたいものです。

 それにしても神様のなさることは本当に不思議です。この時ダビデは何もしてません。それなのに、この二人が勝手に内輪もめをしてお互いに疑心暗鬼になり、結果としてダビデが王位に就くことが後押しされていくわけです。これを見る時に、人は小さなぁと感じます。どんなに人間の間で高い地位に立とうとも、神様のなさることに抗うことが誰にもできません。人と神との間に圧倒的な差を感じますよね・・・。罪人同士の愚かな「内輪もめ」さえも、神様はご自身のご計画のために用いることがおできになるのです。
 
 そして、ここでもう一つ思わされることがあります。それは、イシュ・ボシェテとアブネルの主従関係は「かわいそうな主従関係」だということです。信頼関係がありません。お互いのために自分を犠牲にしようという愛や思いやりもありません。ただ同じ利害のためだけに都合よく協力していた関係のように見えるのです。

11節によれば、「イシュ・ボシェテはアブネルを恐れていたので、彼に、もはや一言も返すことができなかった。」とあります。

 不健全ですよね。相手を思うならば、恐れを超えて互いに意見を語り合う必要があります。恐れのゆえに黙してしまうのは、正しいことでしょうか。沈黙するにも、私たちは愛のゆえに沈黙すべきなのであって、自己保身のためであるべきではないですね。責められた側のアブネルも、逆ギレするのではなく、自分の忠誠心は変わらないのだと主張すれば良かったはずです。

 イシュ・ボシェテが大切な部分では黙ってしまう故にアブネルは彼を信頼できず、暴走してしまったと言えるでしょう。アブネルを恐れ過ぎるがゆえに、イシュ・ボシェテは王としての権威を示すこともできませんでした。

家臣に信頼されない主君は不幸ですし、「どこまでもついて行きたい」と思える主君を持てない臣下もまた可哀そうです。

 私たちには最高の主君である神様がおられること。なんと嬉しいありがたいことでしょうか。いつでも親しく語りかけ、私たちを愛するゆえに十字架の死にまでも従われた方。そして、この方から決して裏切られることのない、見捨てられる不安がない関係です。これが土台にある人の強さは想像に難くないですよね?アブネルもイシュ・ボシェテもお互いにいつ裏切られるのか、捨てられるのか根底には「不安」「恐れ」があったのです。
 逆に言うと、まず神様との良い信頼関係を持てる人は、「安心」と「健全な恐れ」を持ていますので、すべての人間関係の豊かな土台を持てることになりますよね。 

 ご一緒にみことばに聴いて参りました。罪人の勝手な振る舞い、良い信頼関係がないゆえに自己崩壊に向かう姿に教えられました。ともすると私たちも同じような過ちに陥ります。ですから、まずは主なる神様との良い信頼関係を土台として持たせていただきましょう。一つでいいのです。一つ、見捨てられることのない安心な関係がそこにあるならば、私たちは安心して積極的に人と関わることができるようになるからです。

2020/05/05

花を見よう


長引く自粛生活の日々の中で、いつの間にか季節が変わり初夏の陽気に汗ばむ日々となっていますが、皆様はどのようにお過ごしでしょうか。

鳥の声、花の香り、風の音

それらを味わい楽しむ機会はあるでしょうか?


教会の外看板の下には、小さな花壇コーナーがあります。
花壇を備えておいて良かったな・・・と思う今日この頃です。


ご奉仕くださる方々によって、季節により色とりどりの草花を楽しめることはなんと幸いなことでしょうか。

主イエス様も人々を前にして、空の鳥を見なさい、野の花のことを考えてみなさいと語りかけ、そこに示されている神様の優しさや養いの豊かさに気づかせてくださいます。

マタイ6:28-31
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。


心配ばかりの日々です。
けれど、野の花は明日の心配に追われて、必死にお金を勘定して、その結果を見て花を咲かせよう!などとは一切考えていません。

ただ、神様がふさわしい時に蕾を開かせてくださるままに、その身をただおゆだねして、美しい花を咲かせているのです。その期間は決して長いものではないのですが、彼らはその美しさをもって神をほめたたえ、人には慰めや励ましをもたらしているのです。

下の写真は、先日教会で花開いた胡蝶蘭です。


実は、一年前の献堂式のお祝いにいただいたものでした。
花びらが散り、すっかり何もなくなった状態でしばらくの時を過ごしていました。

もう咲かないだろうかと半ばあきらめておりましたが・・・
一年の時を経て、なんと花を咲かせたのです。

これもまた、あきらめずにお世話してくださった兄姉の愛と忍耐の賜物。
そして、神様が私たちを励まそうとこの時期に咲かせてくださったのだと、その恵みに感動し感謝を覚えています。


私たちが思うよりも神様の備えておられるいのちの輝きは強く、あきらめずに時を待つことの大切さを教えられています。

これらの花を見る時、心配ばかりしている私たちに

「心配ないよ。私たちを見てごらん。神様のことがわかるでしょ?」と

草花が語りかけてくれているようです。


※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。

2020/05/02

ヨハネ15章18-23節「他の人ではなく、あなたが!」

*** 5/3(日)礼拝説教概略 ***

ヨハネ1518-23節「他の人ではなく、あなたが!

 色々な部分で不自由や不便を感じながらの生活ではないかと思います。早く共に集まれる幸いな日々を主に祈り求めたいものです。

 そのような生活の中で、様々な「違い」が生じています。

 ある学生はオンラインでの授業がある。ある学生は一切そういうものがない。

 ある人は在宅ワーク、ある人は普通に現場で働かざるを得ない。

 ある自治体は様々な優遇措置がある、ある自治体はほとんど何もない。

 こういった状況の中で「あっちはいいなぁ!」「あの人はなんで?」と比較してしまい、優劣をつけやすい状況が生まれているように思います。

「あの人はいいなぁ」「あの人たちはダメだなぁ」と見ているとき、私たちは一体どこを見ているのでしょうか? 

 すべての背後には愛と正義に満ちた主なる神さまがおられます。一部分だけを見て比べ合うことに力を注ぐのではなく、「私は今日どのようにイエス様と共に歩むのか」とそこに心を向けて歩みたいものです。

 本日は、与えられたみことばを通して、よそ見してしまうのではなく、主イエス様に目を注いでついて行くことをともに教えられて参りましょう。



1. 新たな宣教の使命

 本日のみことばですが、死からよみがえられたイエス様と弟子ペテロの対話の場面です。先週の続きの場面になっています。イエス様は、挫折したペテロがもう一度立ち上がって、宣教の使命に献身していけるように、これからの道を示されました。

18-19節前半
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。

 これはやがて彼が自由を奪われ、やがて殉教することを示すおことばでした。
 19節にあるように、彼は最後、迫害の中でその生涯を終えます。伝承によれば、ローマ皇帝ネロの迫害の中で、「逆さ十字架」にて生涯を閉じたと伝えられています。

 「逆さ」というのは実は彼が望んだことで、イエス様と同じでは恐れ多いということがあったとされます。伝承ですので、真偽は分かりませんが、復活後のイエス様と出会って変えられ、命がけで宣教していった事は確かであると言えます。それは、もはや自分自身のためではなく、「キリストのために生きてキリストのために死ぬ」ということでした。

 人は必ず死を迎えますから、自分が信じるコトのために悔いなく感謝して死を迎えるとするならば、それは尊い人生だと言えるのではないでしょうか。そしてペテロを初め、多くの弟子たちが逃げることなく命をかけて宣教してくれたことのゆえに、今や世界中にキリスト信仰が広がっていることを感謝したいですよね。

 イエス様はペテロにこれらのことを伝えた後、19節の最後でこう語られました。

 こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 

 今度こそ、どこまでもイエス様について行くということです。同伴者となってくださる主イエス様と親しく歩み、主よ、今日はどこに行きましょうか?明日はどうしましょうかと共に歩むことです。



2.よそ見してしまったペテロ

 さぁ、もうペテロは何も迷わず!イエス様、あなたについて行きます!となったのでしょうか? いいえ。 ペテロにはどうしても気になることがありました。彼の弱さがまだここにあることが分かります。20節で彼はこんな風に反応しているのです。

20節 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21節 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
 
 どうして振り向いちゃうかな?とツッコミたくなります。

 せっかくイエス様と良い再会をし、「さぁ、あなたはわたしに従いなさい」という所で、「はい、今度こそついて行かせてください」と言えば良かったものを。

 残念ながら彼は振り向いて別の人を見てしまったのです。彼が向いた先は、同じように主イエス様にお仕えしている弟子ヨハネでした。

 ヨハネは、ここで自分自身のことを指して「イエスが愛された弟子」と表現し、最後の晩餐の時にはイエスのすぐ隣で胸元に寄りかかっていたことも語っています。

 最後の晩餐の時、ペテロは末席に座っており、ヨハネは給仕係としてイエス様の右隣に座っていました。このヨハネもまたイエス様の愛弟子の一人で、リーダー的存在だった一人です

ペテロはもしかしたら、ヨハネに対して劣等感を持っていたのかも知れませんね。

 先週少しお話したのですが、私たちには比べてしまいやすい立場の人というのがどうしてもいます。立場や年代や環境が似ている人とは比べがちですね。ペテロとヨハネはどちらもイエス様の内弟子であり、いつも一緒に行動していた二人でありました。お互いに、いつも気になり意識してしまう存在だったようです。

 少しその様子がわかる個所を同じヨハネの福音書から味わってみましょう。

 20:3-4です。これはイエス様が復活したというニュースがあり、二人が墓に向かって走った場面です。

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子(ヨハネだと考えられる)は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 

 この福音書の著者がヨハネですので、自分の名前をあえて出さずに「もう一人の弟子」と記しています。今日のみことばでも「主が愛された弟子」という表現でした。

 この時、著者ヨハネはペテロより自分の方が足が速かったので先に墓に着いたと語っているわけです。

「足が速いので先に着いた」これはわざわざ書かなくても良いんじゃないかと思ってしまいますが、お互いに意識していたという事をさりげなく表現しているのかも知れません。

 ですから、ペテロは他の人のことはもうクリアしたとしても・・・このヨハネのことは最後まで意識してしまった。友でありライバルのような存在だったのかも知れませんね。私たちにも、そのように意識してしまう人の存在があるかも知れません。

 大事なことを話しているのに他の人の方を気にしてしまうペテロに、イエス様はどのように語られたのでしょうか?

22節 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 これが主の答えです。

 イエス様は当然、すべての弟子を愛しています。そして当然、弟子だけでなく、すべての罪人を愛しているからこそ十字架におかかりになりました。ですから、イエス様がヨハネの長生きを願うとしても、それは当然であり、またペテロが気にすべきことではありませんでした。

 それでもペテロは、自分はやがて逮捕され殉教するという話を聞いて、じゃあ、あのヨハネ、彼はどのような半生をこれから送るんだ?と気になったのでしょう。

 でもイエス様は、「他の人のことは関係ない。そこじゃないんだよ。他の人がどうこうではなく、わたしの前にいるあなたがわたしに従うこと。これがわたしの願いです」とおっしゃったのです。

 実はこの22節における強調点を文法的に分析すると「あなたは」ということばに強調点があります。後ろを振り向いて、あの人はどうなのですか?とヨハネばかりを見てしまったペテロに、イエス様はご自分の方を向けさせ、他の人ではなく「あなたが!」わたしについて来なさいと言われたのです。



3. 私たちの応答

  私たちはすぐに優劣を競ってしまいます。本当に愚かだと分かっていても、比較してしまい劣等感に陥り、あるは優越感に陥ります。あるいは比較によってさばき合うことが生まれます。

 なぜか自分ばかりが大変な試練に見舞われているように感じます。

 なぜ私ばかり?あの人はなぜ「のほほん」と生きているの?
 
 私の方が罪深く未熟だからですか?だから試練が多いのですか?
 
 あの人はどうなのですか?あの人も罪人ではないのですか?と。
 
 
 しかし、それぞれに与えられている賜物が違います。役割が違います。用いられ方が違います。
 イエス様から与えられた「召し」は人それぞれだと言えます。

 もちろんすべての人が、神の良い働きの一部を担うことに違いはありません。けれども、その中で果たす役割はそれぞれ違っていていいし、優劣をつけるものではないのです。
 
 ペテロは宣教者として最前線で歩み続け、最後の彼の大切な役割はキリストのために死ぬことでありました。彼の生涯は波乱万丈で大きなインパクトを残したことでしょう。多くのキリスト者を励まし心を燃えさせる生涯だったことでしょう。

 しかしヨハネの使命は、長生きして、そのゆえに彼が見て来たもの、聴いてきたもの、その手で触れてきたものを整理して記録に残すことにありました。ペテロほどの波乱万丈な生涯ではなかったかも知れません。しかし、彼の残した福音書や手紙はキリストの姿をイキイキと描き、またその愛の深さを教えられるものでした。

 他の人がどうであるかではなく、イエス様は「あなたは、わたしについて来なさい」と言われるのです。よそ見をして、あの人はどうなのか?あそこはどうなのか?そこにあなたの心が分かれてしまうのならば、なんともったいないことでしょうか。

 主イエス様は今日、他の人ではなく、あなたを招いておられます。


2020/04/29

第Ⅱサムエル記2章8節~3章1節「神に従うのか、自分の心に従うのか」

*** 4/29(水)祈祷会説教概略 ***

自粛要請が続いており、今年のG.W.は皆さんあまりお出かけもできず、少し残念ですね。

けれども、普段はできないようなことが出来る機会でもあります。みことばに親しみ、賛美の動画を味わったり、静まって祈る時間を大切にしてはどうでしょうか。

教育関係者はこの機会に9月の入学・開始という提案も出ていますね。簡単ではないですが、世界基準が9月ということや、入試の時期がインフルエンザ等が流行る時期であることを考えると、可能性はありなのかなと思います。今回のようなコロナ騒動が起こる可能性が高いのはやはり冬の季節でしょう。

今日も祈りと賛美とみことばの時間をともに持ちましょう。

2020/04/26

ヨハネ15章15-17節「わたしを愛していますか」

*** 4/26(日)礼拝メッセージ概略 ***

イースター礼拝から早くも2週間が経ちました。死から復活したイエス様は40日間弟子たちとともに過ごされ、弟子たちを励まし、特に宣教の使命を与えられました。

その中でもイエス様を三度も否定してしまったペテロにとって、復活された主との出会いは無くてはならない、非常に大切なものでした。


2020/04/23

世界中で賛美!


以下の動画、賛美「ホサナ」を色々な国の方がそれぞれの国のことばで歌っています。

暗く落ち込んでしまいそうなこの状況ですが、世界中の兄姉たちと一緒に神様を賛美し、ともに祈りましょう!



全地よ 主に喜び叫べ。
大声で叫び 喜び歌い ほめ歌を歌え。(詩篇 98:4)




肌の色の違いに関係なく、ことばの違いや文化の壁を越えて、それぞれの声、笑顔、賜物をもって同じ神様に向かって同じ歌をささげている。なぜかとても嬉しく励まされました。

それはおそらく「天国での賛美」をイメージできたからだと思います。

天の御国では、世界中の人がキリストの名のもとに集められ、それぞれの国の栄光を携えて来て、同じ主をほめたたえます。

「こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。」(黙示録21:26) 

お互いが違うことをもはや批判し合うこともなく、人種も性別も年代の違いも気にせず、全地から集められた者たちがともに喜び歌うのはなんと喜ばしく幸いなことでしょうか。今から楽しみで仕方がありません。

今の困難な時は必ず過ぎ去り、永遠の御国は終わることがありません。この希望を今もこれからも胸に抱きつつ、主への賛美をやめることなく歩み続けていきましょう。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。Ⅰペテ 5:9

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